6. 今日は受け取らない
港沿いの家の前で、リコは鞄の留め金を開いた。
郵便局から歩いてきた道の向こうに、ツバメ号の橙色の帆が見える。今日はまずミナト輪の町内便だった。桟橋に近い数軒を回ってから、午後の仕事へ戻る予定になっている。
ナギは小荷を一つ持って一緒に来ていた。片側しか持ち手のない包みを、底から支えている。昨日預かった、果物屋の日除けの金具だった。
「ここは手紙だけ。次がその包み」
「分かった」
ナギは道の端に寄った。リコが玄関の呼び鈴を鳴らすと、奥で椅子を引く音がした。
出てきた女性は、薄緑の前掛けを着けていた。片方の手が濡れている。家の中には窓から日が入り、豆を植えた鉢が並んでいた。
リコは宛名を告げ、本人であることを確かめた。
「お手紙です」
女性は前掛けで指を拭いた。受け取ろうとした手が、封筒の手前で止まる。
「誰から?」
リコは封筒を少し返し、差出人の名前が見えるようにした。
女性の指が、前掛けの布をつまんだ。
そのまま、ほどかなかった。
「今日は、受け取りたくありません」
声は小さかったが、リコにははっきり聞こえた。
封筒を差し出していた手を、半分だけ戻す。
「お忙しかったら、後でゆっくり――」
読みませんか、と言いかけた時、女性が目を伏せた。
リコの言葉が止まった。女性は目を伏せたまま、濡れた指を前掛けへ押しつけている。リコも指先を動かせなかった。封筒が、二人の間に突き出ていた。
道の向こうで、ナギが包みを持ち直した。こちらへ近づかず、玄関の正面を避けた場所に立っている。次へ急かすように時計を見ることもなかった。
リコは封筒を胸の高さまで戻した。
「すみません。受け取りたくない、とおっしゃったのに」
女性が少し顔を上げた。
「今日お渡ししないことは、承知しました。局へ持ち帰った後の扱いだけ、ご案内してもよろしいですか」
短い間があった。
「お願いします」
*
リコは鞄から、朝の払出しで渡された案内を出した。受け取られなかった郵便の扱いを、ピッパと確かめてきた紙だった。
返送と保管。その二つの欄は朝にも読んだのに、文字が細かく見えた。紙の下を鞄に載せ、揺れないようにした。
「この手紙は、受取拒否として差出人へ返すことも、いったん局でお預かりすることもできます」
「預けるなら、いつまで?」
「明後日の午後五時、窓口が閉まるまでです。その間に、ご本人が受け取りに来られます」
リコは期日の欄を指した。女性が覗き込める高さに紙を下げる。
「また、ここへ来るんですか」
「保管を選ばれたら、こちらから再配達には来ません。期限までに受け取られなければ、未開封のまま差出人の住所へ返送に回します。期限前でも、返してほしいと窓口へお伝えいただけます」
女性は紙を読んだ。
リコは、指が濡れていない方の手で案内を持ち直すまで待った。
玄関の奥で、鉢の底から水が一滴落ちた。遠くの車輪が近づき、道を通り過ぎていく。女性は期日の欄に目を落としたままだった。リコには、一通を差し出してからずいぶん経ったように思えたが、通りの人は誰も二人を見なかった。
「明後日まで、置いておいてください」
「窓口での保管ですね」
「ええ。今は、それで」
リコは手元の控えへ印を付けた。拒否ではなく、本人の希望による保管。選ばれた欄を女性にも見てもらい、期日と窓口の場所を書いた案内を渡す。
「封筒は、こちらでお預かりします」
鞄の中の、持ち帰る便を入れる仕切りへ収めた。ほかの宛先の手紙とは分け、留め金を閉じる。
女性はまだ玄関に立っていた。リコは鞄の肩紐を直し、頭を下げた。
「失礼しました」
「……ありがとう」
扉はすぐには閉まらなかった。
リコが数歩離れてから、鉢を動かす小さな音が聞こえた。さっきの「ありがとう」が、背中にまだ残っていた。振り返るとまた気を遣わせそうで、ナギの持つ包みを見て歩いた。
*
ナギのところまで戻ると、彼は包みを抱え直した。
「局で預かることになった」
「うん」
歩き出してから、リコは一度鞄を見た。もう閉じてある。留め金へかけた指を外した。
石畳の隙間に、細い草が生えている。港から上がってくる風は暖かく、通りの向こうでは誰かが洗った布を干していた。布が風に膨らむと、さっきの前掛けを握った指が浮かんだ。
「私、渡せばいいと思ってた」
ナギはリコを見た。
「初日に、パンを食べてもらえたからかな。一昨日の箱も、ちゃんと開けられるようになって」
「後で読んだら、なんて。あの人、そんなこと聞いてないのに」
ナギは少しの間、何も言わなかった。
「僕、離れた方がいいのか迷った」
リコが顔を向けると、彼は金具の包みを見ていた。
「二人で待ってると、急がせるかと思って。でも、荷物を置いて船まで戻ったら、君が僕を探すかもしれないし」
「探したと思う」
ナギが顔を上げた。
「いてくれて、よかった」
ナギはうなずき、少し照れたように前を向いた。
リコは次の宛先を確かめた。口にしたら少し楽になったが、謝り直すためにあの家へ引き返すのも、自分のためだろう。もう次の角まで来ていた。
坂のゆるいところへ出ると、ナギは金具を持つ手を替えた。リコが下へ片手を入れようとすると、首を振る。
「持ち替えただけ。さっきから、この結び目が手に当たって」
「包み、回そうか」
二人で向きを変えた。紙の下の金具が動かないよう、底は支えたままにした。ナギが楽そうに肘を下げたので、リコも歩幅を戻した。
次の曲がり角で、二人は一度立ち止まった。果物屋の前は、荷下ろしの小車で半分ふさがっている。リコが先に店へ声をかけ、包みを置ける場所を作ってもらった。
*
「おお、戻ったか」
店主は両手を拭きながら出てきた。
軒先では日除けの布が端へ寄せられ、片側だけ束ねてあった。奥の籠まで日が差し込み、果物を動かしたらしい跡が台に残っている。
リコは宛先と品物を確かめ、ナギと一緒に台へ下ろした。店主が受取の印を付ける。
「これを待ってたんだ。中を確かめる間、ちょっといいかい」
次の訪問までの時間を見て、リコはうなずいた。
店主は外側の紐をほどいた。一昨日ボンゴに教わったのと同じ結び目が、節の太い指の間で緩んでいく。リコはほどけた紐が台から落ちないよう、端へ寄せた。
包みが開く。重ねた紙の間から、磨かれた金具が出てきた。
「傷のところも、きれいにしてくれたな」
店主は数を確かめてから、作業台へ移した。待機していた店の若い手伝いと二人で、日除けの外してあった部分を取り付け直していく。リコたちは通り側へ下がり、荷下ろしの小車の通る場所を空けた。
やがて店主が綱を引くと、布が音を立てて広がった。
淡い縞の影が、果物の上へ伸びてくる。
「いい具合だ」
もう一度たたみ、広げる。
店主は上を見てうなずき、三度目の綱へ手をかけた。
「旦那、客が入るたびに閉めます?」
店の手伝いが言った。
「いや、直ったか確かめてる」
「三回とも、ちゃんと開店できましたよ」
店主が綱から手を離した。
ナギが先に笑い、リコも笑った。
日除けは開いたままになった。その下へ、小車に積んだ籠が一つ、また一つと戻されていく。
「修理屋には、具合がいいと伝えておくよ」
店主は包みの紙を畳んだ。
「助かった。二人とも」
リコは鞄の受取控えを見た。今日初めて、完了の印を付けた荷だった。
「お昼も、これなら涼しいですね」
「ああ。今日はここから動かないぞ」
店主は日陰の真ん中へ腰を下ろした。すぐに手伝いから空の籠を渡され、仕方なさそうに立ち上がる。リコがもう一度笑うと、店主も片手を上げた。
*
残りの配達を終えて局へ戻る頃には、通りの影が短くなっていた。
ナギは港側へ回り、午後に使う船を整えに行った。リコは持ち帰った封筒を、ピッパへ差し出した。
「本人の希望で、明後日の午後五時まで、窓口で保管です。再配達はしないとお伝えしました」
ピッパは控えと封筒を並べ、期日と扱いを一緒に確かめた。受取拒否の棚ではなく、窓口保管へ回す。
期日の横へ窓口の案内を渡した旨を記し、照合を終えた。ピッパが保管票を付けると、封筒は他の持帰り便から外れた。
「あとで取りにいらっしゃるかしら」
つい言うと、ピッパは紙をそろえながら答えた。
「いらした時に、すぐ出せるようにしておきます」
保管の控えが、決められた場所へ収まった。
鞄が空になった。リコは内側に残った糸くずを一つ取り、留め金を閉じた。顔を上げた時には、ピッパはもう棚の前にいた。リコは礼を言い、窓口を離れた。
港側の戸を開けると、ナギが空の荷物箱を持ち上げていた。リコを見つけ、持ち手の片方をこちらへ向ける。
「手、空いてる?」
「うん」
リコは鞄を置き、もう片方を持った。




