5. 地図にない名前
昼休みが終わると、リコは住所資料の机へ一番に戻った。
午前中に受け入れた封筒は、マレの付けた保管番号とともに紙挟みへ収まっている。机の上へ出したのは、封筒の住所を書き写した紙と、手紙の依頼人(?)ミチの図だった。窓口の客からは見えない、仕分け棚の奥の席である。
白い余白。アカリの町。
書き写してみても、どちらも知らない名前だった。
けれど、図の中には知っているものがあった。丸いかまど、傾いた屋根、橋の手前の石段。家々の間を抜けた道の先に、小さな箱が描かれている。
「このかまど、コトリ島のに似ています」
リコは椅子を引いた。ピッパが隣へ座り、現行の住所索引を開く。
「屋根は違うけど、この石の積み方は同じです。近くの島なら、同じ人が造ったのかもしれません」
「待って。似たかまど、こちらにもあるんです」
ピッパは別の薄い冊子を取り、目印の図がある頁を開いた。配達先から預かった公開用の道案内だった。丸いかまどの隣に、庇の付いた井戸がある。次の頁にもかまどがあった。こちらは入口に三段の階段が描かれていた。
リコはミチの図と見比べた。
「……同じ人が造らなくても、似ますね」
「同じ物を焼きますからね」
ピッパが鉛筆を渡してきた。
「似ているところは残しましょう。違うところも」
「消さなくていいんですか」
「かまどがあることまで、間違いになったわけではありません」
リコは、コトリ島、と書きかけた文字の下へ、屋根の形が違う、と小さく加えた。
故郷のかまどの屋根は、もっと低い。背の高い人が屈んで入り、勢いよく顔を上げると、梁に頭をぶつける。図の煙は屋根からずいぶん離れていた。リコは線を数え直し、石段の段数も横に控えた。
*
町の名前から調べるのは、思ったより手が要った。
アカリ。あかり。灯り。
同じ読みの項目はあっても、島ではなく通りや建物の名前だった。記載された共同受取所をたどり、添付図にある橋や石段と照らす。そのたびに、別の町だと分かった。
白い余白、という名は、現行の運航台帳の索引にはなかった。
「この次は、別の呼び方ですか」
「ええ。先にこちらを終わらせましょう。二度探すと、また同じ橋へ行き着きます」
ピッパの指が台帳の表紙を押さえた。更新された年と季節が書かれている。
リコは、母へ出す手紙の住所を思い出した。コトリ島という名だけでは届かず、別の島の受取所を書いて、その先を誰かに運んでもらう。故郷はなくなっていない。自分が出てきた後も、朝にはかまどの煙が上がっている。
アカリの町にも、そういう朝があるのだろうか。
図の線の間を、煙の匂いが通り抜けたような気がした。
索引の名前の横へ、『該当する項目を確認できず』と書く。ピッパに教わったとおり、調べた版も添えた。白い余白、という文字が、紙の中で浮いて見えた。
「これ、島の名前なんでしょうか」
「そこも本人に聞きたいですね」
ピッパは細いしおりを挟んだ。リコはその下に薄く線を引いた。絵の端をそう呼んだだけなら、島名の欄をいくら探しても出てこない。
ピッパが次の冊子を広げようとする。空いている場所がない。図を避け、台帳を少しずらすと、今度は自分の肘が机から落ちた。
「ここまでが、今日使う資料です」
「ピッパさんの座る場所は?」
ピッパは机を眺めた。
「……一冊ずつ使います」
リコは笑い、いま見終えた冊子を閉じた。二人で一冊を真ん中に置くと、どちらの肘も収まった。
*
ナギが来たのは、港の午後便のベルが鳴った後だった。
彼もこの調査の設備確認を任されている。マレから渡された封筒の外側の写しを持ち、住所の脇にある細かな記号を見ていた。
「普通の便の印と、並び方が違う」
「どこから来たか、分かりそう?」
リコは席から腰を浮かせた。
ナギは首を振った。
「まだ。旧口の記録と照らしたい。この印だけで、空のどこを通ったかは出せないよ」
彼は写しを机へ置いた。細かな線を一つずつ追う指が、途中で止まる。
「ここと、この隣。同じ形かどうかも、原本を確認しないと」
リコは腰を下ろした。ナギは細い線の間に顔を近づけ、写しを横に向ける。つられて首を傾けても、リコには同じ模様にしか見えなかった。
「古い記録は、いつ見られる?」
「マレさんと時間を決める。船の点検もあるから」
ナギは壁の時計を見た。そうして、リコの紙へ視線を戻した。
「そっちは何か見つかった?」
リコは別の町だった項目を二つ挙げた。説明しながら図を引き寄せると、最初には気づかなかったものが目に入った。
「この箱」
家の脇に描かれた四角を指した。屋根のような小さな蓋が付いている。横には、共同受取箱、と整った文字で補足されていた。
「家の窓は丸一つなのに、ここまでの道は細かい」
石段を上がり、橋を渡り、かまどの右を通る。途中に二本の柵があって、箱の前だけ少し広くなっている。図の線を指で追うと、そこで自然に手が止まった。
「ここへ来てほしいのかな。迷わないように」
ナギが図の端を押さえた。
「船をつなぐ場所からも、道が続いてるね」
「うん。でも、本当にそこへ渡していいかは、聞かないと分からない」
リコは手元の記録紙に、受取箱までの道が詳しい、と書いた。その次の行は少し迷い、配達先の案内か。差出人に確認、とした。
港からかまどへ続く道を、もう一度たどる。同じ形のかまどだけを覚えている人より、舟を降りて、この道を歩いた人に聞きたかった。
「品物を売りに行く人なら、箱の名前を知らなくても、ここを歩くよね」
「家まで届けるならね。荷を港で渡す人もいる」
「じゃあ、どこで渡すかも」
問いを加えると、紙の下の空いていたところが埋まった。島名を増やせなかったかわりに、尋ねる言葉が二行できた。
ナギは何も書き足さなかった。
ただ、図を押さえていた指を離し、リコが最後の文字を書くまで待った。
*
マレは二人の記録を読み、調べた台帳の名前に目を止めた。
「現行の名前では見つからなかった。次は別名と、近隣の往来ね」
リコはうなずいた。
「知っている人に図を見てもらえば――」
「依頼書ごと持ち歩くわけにはいかないわ。必要な地名と、尋ねてよい目印を分けましょう」
マレはミチの署名がある図を、紙挟みの内側へ戻した。
「その準備は、私も見る。今日はここまで」
まだ午後の光が残っていた。リコは時計を見た。
「もう一冊だけ、古い方を」
「一冊で終われそう?」
リコの指が、台帳の背の手前で止まった。
一冊を見たら、次の一冊が気になるだろう。ミチの書いた「あした」は、もう何か月も過ぎていた。今日の一時間まで失うのが惜しかった。
「明日の払出しまでに、まだ仕事があります。そちらをお願いします」
マレは予定表を開いた。リコの名前が二か所にあった。明日の配達と、後日の照合作業。調査の方にも線が引かれ、時間が取ってある。
「忘れないように入れたわ。続きは、その時間に」
リコは後日の自分の名を指で押さえた。忘れられていないのは分かった。それでも、古い冊子の頁を一枚めくる時間くらいあるのに、と思った。
「この続きから、できますか」
「しおりを挟んでおいて。私が先に開く時も、そこを見るから」
ピッパが紙片を一枚寄越した。リコは調べ終えた最後の頁へ挟み、机に残った鉛筆を片づけた。町の絵だけを、もう一度広げたい。紙挟みをマレへ渡してからも、閉じた表紙を見ていた。
*
窓口へ戻ると、男が小さな包みを抱えて待っていた。
「明日の町内便で、これを頼めるかい」
作業着の袖口に金属の粉が付いていた。包みの中身は、修理した日除けの金具だという。港沿いの果物屋へ返す品だった。
「向こうも店番があってね。こっちは朝から外の仕事なんだ」
リコは宛先を確かめた。受取人の名と、店の場所。今度は台帳に同じ名前があった。曖昧だった番地を男に聞き直し、札へ書き入れる。
「金具の角が、包みを破らないように見てもよろしいですか」
「ああ。そこは当て物をした」
男が外側の折り目を開いて見せた。角には丈夫な紙が重ねてある。リコは包みを整え直し、ピッパに取扱いを確認してもらった。
秤の針が止まるのを待つ間、男が言った。
「あの店、昼過ぎは日差しが全部入り込むんだ。果物より先に、店主がしなびちまう」
リコは笑った。男も笑い、料金を出した。
「あんた、届けたら一番いい日陰をもらうといい」
「私がですか」
「届けた甲斐があるだろ。あそこは風も通る」
リコは翌日の順路に目を落とした。港沿いを歩く昼前の便だった。まだ少し湿った風が吹く頃だろう。図の橋から頭を離し、その店までの曲がり角を数えた。
切手を貼って、消印を押す。
とん、と音がした。
受け入れた荷を、翌日便の棚へ運んだ。札を表へ向け、角が隣の荷に当たらないよう離す。鞄の空きと順路を確かめて窓口へ戻ると、さっきとほとんど同じ角度で、西日が床に差していた。




