4. 使っていない口から来た手紙
マレ:ミナト輪郵便局長
46歳、女性。大柄で姿勢がよく、丸眼鏡と緑のベスト。柔らかい声で締切だけはきっちり告げる。
紐をほどく時、引く方を間違えなくなった。
リコは空の書類袋を畳み、口紐を輪にして置いた。昨日の午後、ボンゴに何度も見せてもらった結び方だ。最後には彼が黙って見ている前で、一人で結べた。
勤務三日目の朝、梱包台にはもう別の荷物が来ていた。
新しい箱の口には、ほどく側の紐が長く残してあった。リコはそれを荷札の下へ巻き込まないようによけた。あの青い縁の鉢も、そろそろこんなふうに開けてもらえただろうか。
「リコさん、保管品の照合を手伝ってもらえますか」
ピッパが鍵と台帳を持っていた。
仕分け場の奥の扉を開けると、乾いた紙の匂いがした。棚には荷物と封筒が区分ごとに収まり、ひもで閉じた台帳が背を向けている。ここへ入るのは初めてだった。
「こちらが窓口受取待ち。今日は番号と封の状態を一緒に確認します」
リコは読み上げられた番号を探した。棚の下の段にも、屈まなくては見えないほど小さな包みがあった。ピッパが次へ進む前に、顔を横にして札の末尾を読んだ。
台帳を押さえ直した時、後ろで、かさりと音がした。
振り向くと、壁に取り付けられた金属の受け皿に、封筒が載っていた。
上には細長い投函口があり、擦れた札に『旧仕分け口』と書かれている。封筒の端が、皿の縁でかすかに揺れていた。
「今の音は、ここですか」
ピッパはリコの視線を追い、眉を寄せた。
「触らずに、そのまま待ってください」
彼女は近寄って皿を見た。台帳に挟んでいた紙を抜き、扉の外の時計を確かめて時刻を書いた。
「ここは、使っていない口なんですか」
「ええ。私が朝に確認した時には、何もありませんでした」
リコは投函口の暗い隙間を見上げた。人の手は入らない。壁の向こうで誰かがふざけて差し込んだのかと思ったが、ピッパは笑わなかった。
「機械の中へ手を入れないように。局長を呼んできます」
扉は開けたまま、リコは少し離れて待った。
仕分け場では荷車が動き、誰かが窓口へ客を呼んでいる。ここだけ、朝の仕事から切り離されたように静かだった。
もう一度音がするかと思った。
何も落ちてこなかった。
*
マレはまず、受け皿と床、それからリコの手元を見た。
「落ちるところを見た?」
「いいえ。音がして、振り向いたら、ここにありました」
「分かりました。そのとおりに残しましょう」
マレは封筒を持ち上げる前に、ピッパと表裏を確かめた。薄い灰色の紙で、四隅は柔らかく擦れている。糊の部分に開け直した跡は見えなかった。
受け皿から取り上げると、下にはうっすらと埃が残っていた。
宛名は、ミナト輪郵便局、住所調査担当。
裏には地名らしい字が続いていたが、マレはその場では読み上げず、封筒を浅い盆へ載せた。
「こちらは私の部屋へ。ピッパさん、部屋を閉める前に、いま見た状態を記録してください。機械には触らないでね」
リコは盆を持った。
思ったより軽かった。さっきまで部屋を満たしていた不審さも、一緒に運ぶには軽すぎるほどだった。
執務室へ入ると、マレの机には別の相談書類が並んでいた。彼女は一組ずつ脇へ移し、中央を空ける。
「これから、私たちに宛てた依頼として開きます。リコさんも住所調査の補助をお願いします。ここで読む内容は、担当の仕事のために扱うものよ」
リコはうなずき、椅子へ座った。
「私が、調査をするんですか」
「まずは封筒の住所と、局にある資料を照らし合わせるところから。分からないものを一人で決める必要はありません」
マレが封筒の端へ紙切りを入れた。
リコは机の端へ両手を添えた。刃が紙を裂く音に、指先まで耳を澄ませているようだった。
中には薄い紙が二枚あった。
一枚は文章で、もう一枚には島が描かれていた。
*
絵の中央には、小さな家が何軒も並んでいた。
屋根の色はそろっていない。家の間には細い道が通り、片隅で煙が上がっている。端の橋には手すりが描き足され、何度もなぞったらしい黒い線が濃く残っていた。
橋の下は、塗られていなかった。水なのか、土なのか。それとも、ここも空が見えるのか。手すりの一本が斜めなのは絵の癖かもしれない。自分の島にも、覗くと母に背を引かれる場所があった。今なら、その先を一人で見に行ける。
知らない町だった。
空を渡る船に乗っても、行く先には配達表があり、地図があった。この絵には、まだ自分の知らない家の扉がある。中で何を食べ、窓から何を見ているのだろう。
リコは顔を近づけた。
絵の下に、大きな字があった。
『あした、町ができます。手紙を届けにきてください。ミチ』
あした。
まだできていない町の絵なのか。
胸が一度強く鳴った。使っていない口から落ちた紙が、自分たちより先の日を知っているように思えた。
「……日付は」
リコが口にすると、マレは広げた封筒を指した。
郵便暦二一三年、秋。
今は、二一四年の春だった。
「これを書いた時の、あしたですね」
「そうね」
マレの指は、日付から離れた。
リコは息を吐いた。何か月も前の「あした」だった。
もう一枚の紙には、絵より小さな字で依頼が書かれていた。家ごとの受取を望むのではなく、まず共同で郵便を受け取る場所を相談したいという。翌日には新しい受取箱を据える予定で、町の名を『アカリの町』と決めたことも記されていた。
最後に、住民の名前がいくつも並んでいた。
筆跡は一つずつ違った。途中の一つには書き直した跡があり、その横に同じ人の印が添えられている。
「この人たちは、待っていたんでしょうか」
リコは絵を見たまま尋ねた。
「返事を待っていたかもしれないわ。でも、いまどうしているかは、こちらにはまだ分からない」
笑っている人も、泣いている人も、絵にはいなかった。
家の前に干してあるものが、小さく描かれていた。手紙の返事が来ない間も、洗濯は乾く。かまどを焚く日も、雨の降る日もあったはずだ。
「返事は、出ていないんですか」
「この依頼を今まで受け取っていないか、先に調べましょう。別の便でも出しているかもしれません」
マレは新しい記録紙を広げた。
封筒の日付を写すと、去年の秋という文字が、今日の紙の上にも載った。リコは書き損じていないのに、その年をもう一度原本と見比べた。
*
保管室を施錠してきたピッパが、前の季節の受付簿を持ってきた。
「ここが住所調査の欄です。別名で出ていることもありますから、名前だけで見落とさないように」
三人でまず、書かれている町名と差出人の名前を追った。リコは行を飛ばしそうになるたび、紙の端を当てて戻った。
窓の下で荷車が止まり、また動き出した。
まだ一冊も終わらないうちに、外の旗を照らす光が変わっていた。
ミチ、という短い名が見つからない。似た字に目が留まっても、隣の欄には別の島名がある。ピッパが押さえた次の頁へ移ると、もうそこにも行が並んでいた。絵の橋なら、指一本で渡れたのに。
該当する記録は、いま確かめた範囲にはなかった。
「古い受付簿と、別の名で受けた依頼は残っています。ここまでを確認済みにしましょう」
ピッパはしおりを入れ、重い表紙を閉じた。
リコの目が、また絵へ戻る。
さっきまで一緒に見ていた家が、本を閉じただけで遠くなったようだった。
「私、この町へ行ってみたいです」
誰も知らないと思っていた町に、自分が初めて郵便の鞄を持って立つところを想像した。橋を渡った先で、ミチという人が、あの字を書いたのだと教えてくれる。絵と本物の屋根を見比べてみたい。
「この橋を、歩いてみたいんです」
マレの前で言うには、仕事と関係のない望みだった。リコは、それでも指を引っ込めなかった。
「まず、どこに返事を出せるか確かめましょう」
マレは封筒の裏を、リコの方へ向けた。
白い余白、アカリの町、共同受取箱。
行き方を知らなければ、声に出して読めるだけだった。
「地図に載っていなかったら?」
「別の呼び名や、近くへ行く人の記録を探します。今日の確認だけで、ない町にすることはできないから」
「住所のない町から、こういう相談は来るんですか」
「時々ね。島の人や商人が行き来していても、郵便の住所には登録されていない集落があるの。ほかの島で受け取って、自分たちで運んでいるところも」
リコは初出勤の日に書いた、故郷の住所を思い出した。コトリ島にも人が訪ねてくる。島を見つけてもらうことと、島の名前で手紙が届くことは違っていた。
「では、誰も知らなかった島が見つかった、とは限らないんですね」
「ええ。いつもの配達で、誰も知らない島を見つけるなんて、めったにないことよ。今回も、まずは、この町を知っている人を探しましょう。使っていない口へ手紙が出てきたことは、また別に調べる必要があるけれど」
マレは机の脇から住所資料の索引を出した。片手で持つには重い本を、リコが手を添えるまで下から支えていた。
扉が二度たたかれた。
窓口で次の相談が待っているという。マレは声を返してから、保管番号を書いた紙で封筒と中身をまとめた。
「午後はピッパさんと住所の照合を。旧口はナギさんに、点検できる設備かどうかから確認してもらいます。今日すぐ動かすことはしません」
「この紙は、あの口の中で引っかかっていたんでしょうか」
リコが尋ねると、マレは少し考えた。
「それも、まだ分からないわ。来た道と、差出人の居場所は、分けて調べましょう」
彼女は今日受け取った日付を記録へ書き込んだ。古い封筒の日付は、そのまま残した。
リコも、自分が見たことを一行ずつ書いた。
落ちる瞬間は見ていない。音を聞き、皿の上に封筒を見つけた。誰が、いつ投じたのかは知らない。
記録を閉じる前に、リコは絵をもう一度見せてもらった。ミチの字の最後に、小さな点があった。句点なのか、筆を置いた跡なのかも分からない。
片づけるマレの手に紙の端を渡したら、絵の家が一軒ずつ隠れた。リコは、橋が覆われるまで目で追った。
「午後も、これを出していいんですね」
「ええ。ピッパさんと一緒に」
昼の鐘が鳴った。リコは椅子を戻し、重い索引を両腕で抱えた。廊下へ出ても、絵の中で曲がった道の続きが気になっていた。
この世界では、まだ見つかっていない島=住所があります。




