14. 前と同じでは足りない
予備灯の箱には、右、とだけ書いてあった。
副担当は蓋を半分開けて、手を止めた。中には脚の畳まれた灯りが二台、布で区切られて収まっている。灯りの方にも右の一字があり、もう一台には奥と書いてあった。
リコは右を見た。狭い作業口の壁があった。
「どこから見た右ですか」
副担当が尋ねると、主任は階段へ向けた足を戻した。
「下の踊り場からだよ。前に付けた時の」
「私は、受け渡す所まででした。置いた位置が、図にはありません」
主任は書類板を受け取った。薄い紙には塔と小屋の四角があり、矢印が二本付いている。先の一つが折り目で擦れて消えかけていた。
ナギは自分の図に書き足す場所を探し、主任の手元をのぞいた。
「僕も一緒に上へ行けば、位置を写せます。そのあと、下の点検へ」
言いながら、工具箱へ片手を戻しかけた。副担当の立っている所には交換部品の控えがあり、階段の向こうでは、別の作業員が主任の返事を待っている。ナギの予定には、すでに三か所の仕事が重なっていた。
リコは案内板を横木へ掛けた。
「上へ行く人に、灯りも持ってもらえますか。私はここの道を空けます」
自分で上がるとは言わなかった。荷役の通路なら歩いて確認できるが、灯りを置く場所はまだ知らない。
主任が顔を上げた。
「そうだな。上は私と、この人で。あなたは図を持ってきて」
副担当を呼び、作業員へ灯りの運搬を頼んだ。ナギには下の設備の控えを渡す。
箱の右と書いた蓋が、ようやく閉じられた。
*
リコが作業口の幅を確かめている間に、ナギは古い点検票を読み終えた。
棚の下のクロマは、柱の陰に低く収まっている。明るい通路から見ると黒い塊だが、下へ伸びた縁は床に沿って動く。リコが椅子を片づける音にも、目の位置が少し変わった。
叩けばどくような顔をしていない。それはポルも同じだったが、ポルには今朝、宿舎の当番が新しい水を置いているはずだ。この生き物の落ち着く場所は、人の食堂でも寝床でもなかった。
主任たちが戻ると、点検が始まった。
長い柄の先に浮糸を張った小さな枠がある。しずく園で見たものとよく似ていた。主任が扱うと、棚の継ぎ目の前で糸が一度、浅くふくらんだ。場所をずらして、また戻す。同じところでだけ光が濃くなる。
設備の外へ漏れた力に、枠の糸が反応している。生き物を捕らえる網でも、棚に残る力の総量を量る器でもなかった。ナギは糸が張られたままの場所と、ふくらむ場所を分けて図へ残した。
「前の棚では、もう少し外側でした」
ナギは昔の図を閉じ、今日の図へ印を付けた。
「こっちの覆いの奥も見られますか」
「今は入れない。外から届く範囲なら」
主任が枠を向ける。糸の光は弱かったが、なくならない。
リコは黒い体へ視線を戻した。クロマがいる場所と、印の場所は少し離れていた。生き物を指して、ここが悪い、と言えば済むわけではなかった。
「棚から離れてもらう道は、向こうですか」
副担当が低い物置の前を示した。人の階段から外れ、三方を壁と低い風よけで囲まれた場所だった。今は使っていない台車が置いてある。
「そこなら、港へ行く人の道と交わらない」
主任の返事を受け、副担当は台車の持ち主を確かめに行った。リコも追おうとして、足元の板に止まる。自分は作業口へ人が入らないよう案内を引き受けていた。
手すりのある明るい通路から、荷役の作業員が来る。リコは笑顔を作る前に、通れる方を示した。
「資材はそこの台へお願いします。上へは今、主任の確認を待っています」
用事を聞き、必要な人を呼ぶ。二度繰り返すと、遠回りする足音が自然にそちらへ向くようになった。
*
午後の冷気が小屋へ入り、ナギはスカーフを襟の中へ押し込んだ。
主任の管理で傷んだ側への供給が切り離される。棚はまだ残った力を持っているため、覆いを開けず、札を掛けたまま測った。外から確かめられた反応と、後で見る所が図の上で分かれた。
副担当が浅い器を持ってきた。蓋の中に巻いた繊維があり、縁に残量の目盛りが刻んである。少量の力を一定に出す、誘導用の道具だった。
傷んだ棚から漏れるものの代わりを、人の通らない場所へ置くための器だ。クロマがそちらへ向くかを見ながら使う。中へ吸い込んで閉じ込める仕掛けはなく、蓄えた分を使い切れば誘う力も出せなくなる。
「これも、前のものと同じですか」
ナギは横の札を読み、控えを求めた。
「似ています。こちらの使える時間は短いですね」
器は直ちには棚のそばへ置かれなかった。まだ台車が移されておらず、補助灯を運ぶ人の足も通る。主任は蓋を閉じ、使用前の確認を副担当へ任せた。
クロマが目を向けたのは、その時だった。
淡金色が器を追うように動いたが、体は棚の脚を離れない。リコは記録板へ、目が動いた、とだけ書いた。先を確かめるために、道具を振ってみる人はいなかった。
「待っている間に、また大きくなりませんか」
運搬を終えた作業員が尋ねた。主任は今の大きさを見てから答える。
「変われば、この場所から知らせてほしい。近くへ見に行かないで。こちらで灯りを急に変えないようにする」
リコは前に布を振ったことを話した。武勇伝になる部分はなかった。それでも、布を手にした人がそれを畳み、静かに台へ置くまでを見届けられた。
*
補助灯を置いた踊り場へ、リコが上がれたのは、その少し後だった。
主任と副担当が位置を確かめ終え、通行する側へ横木を移した後である。灯台の高い目印をそっくり代わる灯りではない。今は塔の内と、担当が往復する足場を照らし、外へ向けた予備の目印を試す支度をしていた。
窓から中継港の船が見えた。ツバメ号の橙の帆は畳まれ、周りの船と同じ高さに並んでいる。リコの船だけを目で先へ押し出しても、進んではくれない。
副担当が灯りの脚の向きを紙へ描いた。
「この線は、ここでいいですか」
「もう少し内。手すりの柱に合わせていた」
「柱は三本あります」
主任は一瞬、返事を止めた。副担当の鉛筆を借り、紙の柱にも三本の線を加える。
「真ん中。いや、これだと、階段から来た人には逆だね」
紙を回しかけ、副担当に押さえられた。
「回さずに読める方を、残したいです」
主任は少しだけ鼻から息を吐いた。苛立ったのか、笑ったのか分からない。彼は紙の下へ階段を描き足し、自分の足を線の位置へ置いてみせた。
リコは作業口で見た右の字を思い出した。この人の体に入っている道が、今、一つずつ紙へ出てきていた。その間にも時計は進む。下から呼ばれれば主任はそちらへ顔を向け、副担当は鉛筆を止めて待った。
灯りを置く仕事より、置く場所を一緒に知ることの方に時間がかかっていた。
階段を下りる途中で、副担当が手袋を外した。鉛筆の線が指の付け根まで黒く付いている。彼女はそれを上着へ拭いかけ、紙の余白へ押さえた。
「何度も聞くと、私が覚えていないように見えるでしょう」
リコは返事に迷った。上でのやり取りを聞いていれば、図が足りなかったと分かる。けれど、聞いていない人にはどう見えるか、分からなかった。
「私はさっきまで、この灯りを港へ向けると思ってました」
「足元を照らす方です。港の予備の目印は、また別に」
言いながら、副担当は図の二つの灯りへ違う印を付けた。そこで初めて、苦い顔が少しほどけた。
「それも、書いた方がいいですね」
上から主任が呼んだ。副担当は振り返り、下の台へ紙を置いてから来る、と返した。いま手に持っている図を渡す場所を先に決めたらしい。
リコは階段を降り切り、通れる側へ寄った。副担当がもう一度上がっていく足は、速い。教わる人の遅さとして数えられたくない時間があるのだと、今度は少し分かった。紙に残った二つの印を、リコも自分の案内の控えへ写しておいた。
*
夕方、港から有線で知らせが入った。
午後の連絡便は別航路を出た。コムギ棚の受取窓口への通知も郵便袋へ入っている。向こうからの返答は今日中には戻らず、詳しい変更の相談は明朝、次の袋で送ることになった。
リコは受話器を戻して、木箱の控えを鞄の中で探した。今日、箱が旅をした距離は短い。自分たちの足は、もう何度も階段を上がっている。
ナギは机で交換部品の一覧を作っていた。規格が合いそうな予備品は島の倉庫にあるが、現物の状態を倉庫担当と確かめるのは明日だという。主任は夜の観察を担当へ渡し、今夜は故障部を開けないと告げた。
「そこまでなら、私が読み合わせます」
副担当が夜の当番表を受け取った。主任は持ったままにしそうになった端を離した。作業口、囲い、消した灯り、替わりの灯り。彼女は順に指し、今夜行かない場所に太い線を引いた。
リコは机から二歩離れて、その声を聞いていた。もし自分の番なら、まだ尋ねたいことが三つはある。夜の担当は四つ尋ね、最後に、何時に次の人が来るかを確認した。
主任が答える。副担当はその時刻を太く書いた。
*
宿泊所の食堂で、リコは煮込みの鉢へ両手を添えた。
ナギの鉢は、彼が紙をしまうより先に卓へ置かれた。食堂の係が通りすぎるのを待って、リコは向かいの椅子へ座る。
「前のクロマを見た時、道具を持ってる人が来たら、すぐ終わると思った」
「僕も、もっと早く分かると思ってた」
「今日も?」
ナギは匙を取ったまま、一度だけ彼女を見た。
「今日も。前の図を持ってるから」
リコは煮た豆をつぶした。知らないという怖さが減ると、知っているつもりで立てる場所が増える。それを言葉にすると、向かいの彼に何かを教える話になりそうで、口を閉じた。
「でも、さっきの右は分からなかった」
「僕も」
ナギが鉢の右へパンを置いた。リコからは左だった。二人とも気づいたが、声にしたのはリコだけだった。
「明日まで、そこに置いておいてもらわないと」
「なくなるよ」
彼はパンをちぎった。
食事のあと、明朝の連絡便へ出す紙だけを、リコは部屋へ持ち帰った。今日は別々の部屋を割り当てられている。廊下の角で別れる前に、ナギが振り返った。
「朝、窓口へ行く時間に起きる」
「私は、その前に食べる」
「じゃあ、その時間に」
リコはうなずいた。灯台の鐘はこの窓から見えない。扉を閉めると、階段を上がる宿泊客の靴音が聞こえ、ようやく、自分の足も今日はもう動かさなくてよいと分かった。




