12. 箱の裏にある停めた日
箱を持ち上げた跡だけ、机の上が明るかった。
リコは手にしていた刷毛を置いた。箱の外側を確かめるために敷いてあった紙へ、細い砂が一本、輪郭を残している。主任が運搬台を押し出すと、止まったベルトの向こうで、その音が大きく響いた。
コムギ棚から戻った翌日は、照会の返った品を運搬の順に並べる仕事で終わった。今日はその続きをするはずだったが、昨日取り出した管理票の綴りに、別の番号が挟まっていた。
リコは角を押さえた。古い字には、読みやすいものと、一人の手だけが先へ走っているものがある。この字は後者だった。
「ここ、取止め、と読めますか」
ナギが向かいの椅子から身を寄せた。青黒い髪の端に窓の光が当たり、紙の文字まで少し濃くなったように見えた。
「停め、かな。前の一字は、次の行に同じ形がある」
「運ぶ方の運?」
「そっちが近いと思う」
リコは鉛筆を紙から離した。写しの欄へ答えを書き込むのは、主任に確かめてもらってからにする。元の字の隣に、曲がった二本の線をそのまま写した。
ナギは少し笑った。
「形は似てる」
「読めなくなるところまで似せたくはなかった」
平たい鍵入れを腰へ戻しながら、主任が照合机へ帰ってきた。短い灰髪に、取れかけた木屑が一つ付いている。リコが知らせると、主任は払うより先に紙を見た。
「輸送停止。ここに出てくる時には、そう書くことが多いです」
主任は別の控えを開き、同じ手の文字を隣へ置いた。リコの写した二本の線が、急に文字の一部になった。
*
管理票の裏には、箱の中身を記す欄がなかった。
前の保管所、移した日、受け持った棚。その下に細長い枠があり、輸送停止に伴う移管、と書いてある。日付の古さに目を引かれたが、リコが指を止めたのは、その次だった。
「再点検の後、取扱いを定める」
声に出すと、止まったベルトが視界へ入った。今は固定してある巨大な引出しも、誰かが中へ手を入れ、何かを選ぶ日を待つ形のままだった。
「戻すつもりだったのかな」
主任は答えず、棚からもう一冊取ってきた。机へ置く前に、今見ている票の端へ薄い板を差し込む。次に戻す場所を残す動作だった。
「こちらは命令の控えです。移管票は、その後に書かれています」
ナギが二つの日付を別々に写した。リコもようやく、同じ日を見ていたつもりになっていたことに気づいた。
命令の控えには郵便暦七十二年の数字があり、対象を示す欄の下へ、再点検を待って判断する旨が書かれている。けれど、移管先の記録と対応するはずの添え紙は、この綴りに入っていなかった。
欄の外へ、後から小さく書き足された字があった。再照会。その下は空白だった。リコがそちらへ目をやると、主任は自分の控えにも同じ空白があることを示した。
「返事がなかったんですか」
「返事をした紙を、こちらへ付けなかったのかもしれません」
主任は綴りの厚さを指で挟んだ。
「この場所の帳簿なら、返答を別の冊子に書く年もあります。書く人が替わった時に、前と同じように見えて違うことがある」
リコは、返事が来ないまま待った人を思い浮かべていた。主任の言葉を聞くと、別の机で返答を書いた人も現れた。どちらもまだ、彼女の想像だった。
欠けた綴じ穴が一つ、紙の端に残っている。そこへ何枚付いていたかは分からない。空白を長く眺めていると、何かを書きたくなる。リコは自分の紙へ、添付の有無を確認、と記した。
ナギが目を上げ、うなずいた。二人とも、その場で昔の誰かを待ちぼうけにするのはやめた。
「停止したのは、全部の道ですか」
「ここにある紙だけでは、範囲が最後まで追えません」
主任は綴りの紐を引いた。膨らんでいた紙の端が少し落ち着いた。
「別の保管所から来た束ですから。写しに添えたものが、移管の時に全部こちらへ来たかも分からない」
リコは止まった道を思い浮かべようとした。知っている港の灯りを順に消してみても、ここから先には地図がなかった。何本消せばその時の景色になるのか、見当もつかない。
ナギは年月の欄を二つに分けた。命令。品を保管へ回した日。短い見出しを付けて、間を線で結ばずにおいた。
「この間の控えを探せれば、同じ停止に続いているか確かめられます」
「道がなくなった日、とは書いてないね」
「うん。止めた、とある」
リコはその一字を見た。
今でもコトリ島へ行くには、別の島の名を書く。昔からそうだから、と説明される時、その昔の端には誰も手を伸ばさない。それと同じだと決めるには、あまりに遠い話だった。それでも、昔からという言葉の手前に、誰かが日付を書いた机があった。
*
奥の仕切りの向こうで、水滴が一つ落ちた。
リコは顔を上げた。屋根の補修担当が、今日は立ち入らない区画へ受け桶を移している。こちらの机へ来る人ではないと分かり、また紙へ目を戻す。
ナギの手帳には、収集家に許可をもらって写した古い切手が挟んである。青い丸と見慣れない植物の形を、鉛筆でたどった紙だった。彼はその頁を開きかけ、綴り紐を持っていた手を止めた。
「似た形があるか、見たい?」
「見たい。でも今合わせると、違う線まで同じに見そうだ」
手帳は閉じたまま、机の端へ置かれた。
リコも、織町の展示室にあった絵葉書を思い出していた。街路と箱形の乗り物。今日の紙にその番号があるのでは、と探す目になりかける。しかし主任が持ってきたのは、輸送停止に伴う移管を確認する束だった。公開受領簿との対応は、別に照会している。
早く見つかってほしいものほど、どこにでもありそうになる。
「今日、写せるところをお願いしてもいいですか」
リコは、見せてもらった二枚を指した。
主任は管理記録として公開できる欄を控えと照らし合わせ、私的な宛名のある続きへ紙を重ねた。ナギが写しを取り、リコが元の数字を読み上げる。二度目は役を交替した。細い文字を追っていると、窓が曇っていくのに気づかなかった。
昼の鐘で二人とも顔を上げた。
「今ので、同じ行を三回見てました」
リコが言うと、主任は束を閉じた。
「では、続きは昼の後に。ここへ紙を置いていると、昼もこの机に来てしまいますから」
食事の包みは受付側へ移した。今日のパンには刻んだ根菜が入っていた。温かさは失われていたが、噛むと少し甘い。リコは半分を先に食べ、残りをナギへ見せた。
「これ、明日の買い足しにも入れよう」
「もう記録した」
手帳を見せられると、紙と紙の間に、根菜のパン、と小さく書かれていた。
「古い道と混ざってる」
「別の頁」
その返事を聞いてから、リコは残りを食べた。昼を挟んでも、机の紙がどこかへ逃げるわけではなかった。
*
午後、照会文を書いていると、主任が搬出口から呼んだ。
茶色の木箱が、取り外せる支えを付けて待っていた。底を受ける新しい木の色は、古い蓋よりずっと淡い。浅い擦り傷は覆われず、外から見える。
ボンゴが残した取扱いの控えは、運搬用の留め方と、家へ置いてから残す支えとを、図で分けていた。大きな手で描いたらしく、指の絵だけ妙に頼もしい。
「運ぶ方が、図のとおり外せるか見てください」
主任の立会いでナギが留めを確かめ、リコは持ち手の位置を試した。蓋へ触れずに持ち上げられる。コムギ棚から届いた棚と玄関の採寸控えを、運搬票と重ねる。セリの選んだ一箱に、道が少しずつ付いていた。
時計の包みは別の台にあった。時計を支える低い据置台も、時計と一緒に輸送の梱包の中へ収まっている。内部を直したのではなく、家で静かに飾れるよう足元を支えたものだった。天地を示す札は、梱包の飾り紐より先に目へ入る。
リコは出航予定の欄へ指を置いた。明日は積込準備と港での充填、それから十分に休む日だ。実際に荷を載せるのは、その翌朝になる。
「この箱と時計を、先に。残りは今の荷重表へ戻して確かめます」
積み合わせる小口の荷を主任が示した。二人分の荷物、水、工具を含む計算へ入れると、まだ余地はあった。ただ、持てる重さと置ける形は同じではない。リコが紙の上で小箱を一つずらすと、ナギが首を振った。
「そこは留め具を開ける場所」
「軽いから、つい」
別の段にすると収まった。ナギはそのまま、明日の確認に使う図へ写した。
ここで積むものが決まれば、セリの棚へ置く時まで、誰が何に触れるかをたどれる。リコは机に広がった昔の紙を思った。あの人たちも、箱を一つずつ見ていたのだろうか。それは記録に書いていない。
*
夕方、通常便の荷役係が、白い紙皿の箱を抱えて入ってきた。
リコは思わず、随分新しい、と口にしかけた。新しくて当たり前だった。今度の食事会で使うために注文したもので、古い棚へ加わる箱ではない。
「ついでに届けてくれたんですね」
「そちらの便に積む分、と聞いています。軽いんですが、つぶさないでくださいよ」
紙皿の方が古い木箱より大きな場所を取った。リコは新しい荷重表を見て、それからナギを見た。
「軽い場所が、なくなった」
「さっき空けた留め具の所は駄目だよ」
「まだ何も言ってない」
ナギは少し口の端を上げたまま、図の上で箱を回した。紙皿は上へ重ねず、薄い荷物を移した脇へ入れることになった。夕方になってもう一度、全員で数を読み合わせる。
控えの束を受け取った主任が、昔の停止票を保管の綴りへ戻した。照会文には原本の所在、欠けている期間、次に確認したい資料を書いた。答えが来る日は空欄のまま、発送する便だけを記した。
会議で預かった索引にも、今日増えた綴りの場所を足した。リコが紙を返すと、主任はわざと入口の方から読み、迷わず一冊取り出した。その中に、今しまった停止票があった。
「この書き方で、次の人にも渡せます」
リコはもう一度見せてほしいとは言わず、索引の方へ確認の印を付けた。
リコが筆記具をしまうと、紙皿の箱の蓋が少し浮いた。中は平たい白が何重にも重なっている。使う日には、ここへ煮た豆が載り、焼きたてのパンが置かれる。誰かがこぼし、誰かがおかわりをするだろう。
「一枚だけ、予行の昼ごはんに使えそう」
「予約の数だよ」
「知ってる。言ってみただけ」
リコは蓋を戻した。箱に貼る新しい日付を、今度は読める字で書いた。
搬出口の扉を閉める前に振り返ると、古いベルトはまだ暗がりへ続いていた。その手前にある白い箱だけが、夕方の少ない光をよく返していた。




