8. 動かさない時計の音
時計の客は、時計を出される前に時刻を見た。
灰色の外套の袖から腕を出し、今使っている小さな時計を確かめている。旅客便の帰りの切符は、胸の内側にしまった。リコが待ち時間を伝えると、革の手袋を外して両手を膝へ置いた。乾いた皺が指の付け根に寄った。
「便が出る前には戻りたいんです。急がせるつもりはないんですが」
「間に合うところまで、今日は見ていただけます。全部決めなくても、続きは受付へ出せますから」
「ありがとう。でも今日、置けるかどうかだけは知りたい」
数十年前の成人祝いに自分へ送られた小型の置時計だと、窓口の確認に記してあった。どこを経てここへ移ったかは追えたものの、本人へ届くまでの記録には途切れがある。若い日の約束が、そのまま目の前へ戻ってきたわけではなかった。客は現在の住所を改めて確かめ、係の示す番号へ印をつけた。
管理主任が時計を運んできた。低い台に載せたまま、照合机の隣へ置く。暗い木の外装に丸い文字盤がはまり、小さな足が四つ付いている。針は半端な時刻で止まっていた。リコには、その針がどちらを指しているかより、文字盤の縁に残った明るい色の方が気になった。長く埃から守られていたのだろう。
客は身を乗り出したが、手は膝から動かなかった。
「こんな形だったんですね」
「送られる前には、見ていなかったんですか」
「時計だとは聞きました。台の上で鳴るものだ、と。それで勝手に、もっと大きいと思っていた」
彼は両手を広げかけ、途中で笑った。
「そんなものを今の棚へ置いたら、皿が追い出される」
ナギが用紙を開いた。外装と足元を見て、工具袋から小さな鏡を出す。いきなり裏蓋を開けることはせず、傾けないまま下側を見た。
「まず置く部分を確かめます。動作の点検をする場合は、時計を扱う職人へ……」
「それはいりません」
客の声は早かった。ナギが顔を上げた。
「鳴らす方は、しなくていいんです。今の家で鳴る時計は、もう一つあって。それに、これはこの姿のまま置きたい」
リコには、ナギの指が用紙の二段目で止まるのが見えた。そこには動作、とあった。
「では、安定して飾るための支えだけですね」
「はい。置いてあることが、分かればいい」
ナギは動作の欄に小さく線を引き、希望しない、と書いた。理由を書くために、客の言葉を全部写しはしなかった。
四つの足のうち一つは、接地する面が欠けていた。見た目には僅かな差でも、平らな台ではそれだけ傾きが出る。ナギは客に触れてもらう前に、ぐらつきのある向きを指で示した。
「ここへ何かを挟めば済みそうですが、当てた物がずれると戻ります。時計の底を受ける台を作って、この足へ重さが集まらないようにしたいです」
「台は、高くなりますか」
「できるだけ低くします。置く棚の、上の隙間を教えてもらえますか」
客は外套から畳んだ紙を出した。棚の簡単な絵に、幅と高さが書いてある。昨日のうちに測ったという。ナギは隣へ自分の図を寄せた。
「これなら、背を高くする必要はなさそうです」
「色は暗い方がいい」
「台が見えにくいように?」
「ええ。時計より立派な台が来ると、台をもらった気になるから」
背後からボンゴの低い咳が聞こえた。材料を取りに来たところだった。
「呼びました?」
「まだです」
リコが答えると、客がようやく歯を見せて笑った。
ボンゴは、薄い受け板に時計を乗せ、運ぶ時はその板ごと固定する案を出した。ナギの作る据置用の台と、輸送の外箱は別になる。家では外の梱包を外すだけで、足を支える部分は残せる。
「持つ場所も、これなら迷わない」
客が台の図の端を押さえた。
「時計を抱えるのは、少し怖かったんです」
リコは紙に、両手で持てるところ、と書いた。セリの木箱にも同じ場所が要る。品物を見せられた人の手が止まるのは、いつも昔のことを考えているからではなかった。
客は、仕上がったものをコムギ棚の家へ届けてもらう時の費用を確かめ、見積りを持ち帰ることにした。今日この場で抱えて帰るつもりは最初からなかったらしい。内枠の製作を待つセリの箱とともに、小口搬送の日を組めることを伝えると、同じ便でも構わないという。
「受け取る時間は、あとで相談できますか」
「もちろん。積む前にご連絡します」
その返事を聞いてから、彼は文字盤を長く見た。誰も針を合わせようとはしなかった。やがて手袋をはめ、片方の指先を引っ張りながら、今日使っている時計へもう一度目を落とした。
「いまの時計、よく遅れるんです」
客が不意に言った。ナギは筆記具を置いたまま聞いていた。
「それでも使うんですか」
「朝、台所の時計と合わせる。遅れる癖を知っていると、案外、付き合えるんですよ。こちらは、もう動かさなくていい。二つも毎朝比べたくないでしょう」
その調子が軽かったので、リコも笑った。古い時計を受け取ることには、何か重い決意が要ると思い込んでいたのかもしれない。客は新しい時計の傷ついた留め金を押さえ、外套の袖を下ろした。
「届いたら、棚の上を拭こうと思ってます。置いてあるものを退けるのが、いちばん面倒そうだ」
「先に全部、片づけなくても大丈夫です。運ぶ日を決めてから」
「そうですね。空けて待っていると、そこへ別のものを置きたくなるから」
リコは、棚の空きにも次々に荷物が入るのだと思った。旧堂の棚も、今暮らしている家の棚も、それぞれ違う人の一日で埋まっている。
「もう、行きます」
リコが入口まで送った。港へ下る道の曲がり角に、昨日セリから聞いて位置を変えた案内札が見える。客はそこを確かめ、迷わず曲がった。古い置時計は堂の中に残り、帰りの旅客便は予定どおり港を出た。
午後、ナギは新しい端材だけを使って、支えの試作をしていた。時計の寸法に合わせた木片を当て、受ける位置を一つずつ替える。触ってよい実物の外側を主任と確かめたあと、実物は元の台へ戻してある。
「手が空いてる?」
リコは計算の紙から顔を上げた。届いたセリの採寸を、運搬用の控えへ写していたところだった。棚の幅は三十九センチ、奥行二十八、高さ二十四。玄関は七十二。紙の余白には、棚の上に置いたまま蓋を開けるつもりはありません、と本人の字がある。
「あと一行」
箱の外寸と取り違えていないか見直し、ボンゴへ採寸の原紙を渡した。彼はセリが既に了承した内枠を、図の大きさで仕上げられると確認している。
リコが戻ると、ナギは台に置いた試作を、少し遠くから眺めていた。
「ここで持ってみてくれる?」
彼女は左右の端へ指を入れた。爪が当たる。
外して持ち直せば持てる。しかしそれでは、家で急いで卓を空けたい時にも、毎回、気をつけて指を入れることになる。リコは試作を下ろし、今度は少し斜めから持った。片側が遅れ、台が傾いた。載せてあった寸法見本の木片を、ナギが押さえた。
「この持ち方でも、支えられる方がいい」
リコは木片を元へ戻して言った。ナギは受ける面を広げようと厚い板を一枚取りかけ、途中で止めた。厚みを増すと、客が望まなかった立派な台に近づく。
「横へ少し出す。下をえぐるより、その方が手が入る」
「時計からはみ出すの?」
「後ろ寄りに。正面から見えるところは、なるべく残さず」
リコは客が持ってきた棚の絵を横へ置いた。これだけなら、横にある皿を退けずに済みそうだった。ナギは薄い端材で形を作り直し、持つ場所の角へ丸い線をつけた。客はもういないが、同じ希望が机の上に残っていた。
「まだ、少し狭いかな」
「手袋で?」
「脱いでも、急ぐと引っ掛かると思う」
ナギは鉛筆で二本の線を入れ、削る範囲を広げた。彼が自分の手を差し入れると、指はすんなり底へ届いた。
「あなたの手なら入るんだ」
「慣れてるから、真っすぐ入れてしまう」
「家では、誰でも同じ持ち方をするとは限らないよね」
「そうだな」
彼は薄い木片を外した。削り屑が卓へ落ちる。リコは真面目な顔で試作を持ち替え、彼が顔を上げるまで待った。
「ええ、たいへん結構なお台でございます」
「時計を載せてない」
「台をもらった人の挨拶」
ナギの肩が小さく揺れた。彼は道具を置いてから笑った。リコは、それが見たくてふざけたのだと気づき、もう一度同じことをするのはやめた。
夕方近く、台の形が決まった。欠けた足へ負担を集中させず、手を入れる場所を残し、見える縁を低くする。仕上げと外箱は明日以降の作業になる。ナギは紙へ使い方を三行書いた。動かす仕組みの説明は一行もなかった。
「物足りない?」
リコが尋ねると、彼はすぐには答えなかった。作業着の袖に付いた屑を払っている。
「古い時計の中は、見たかった」
「うん」
「音も、聞いてみたかった」
リコはその言葉を直そうとしなかった。時計の客はもう帰っている。二人の間で、好奇心を持ったことまで隠さなくてよい。
「でも、あの人が置く棚には、鳴らない方が合うんだろうな」
「どんな音だったと思う」
「分からない。大きさだけじゃ決まらないし」
「じゃあ、今は分からない音が一つあるってことか」
ナギは顔を上げ、机の端の小さな時計を見た。それは管理主任が毎日持ってくる、普通に時刻を刻む時計だった。紙をめくる手が止まると、その音が意外にはっきり聞こえる。
「今日は、こっちの音に追いかけられてる」
閉堂まで、あと十五分だった。
リコは記録をそろえ、主任に保管の立会いを頼んだ。時計が戻る棚、明日引き続き使う試作の台、持ち帰ってよい図面を、机から順に分ける。ナギは仕掛かりの台へ布を掛け、帰る支度を始めた。
扉の外で薄黄のスカーフを巻き直す彼の横に並ぶと、リコの肩掛けの端が一度触れた。二人とも歩き始めるまで、そのままだった。
「明日はコムギ棚だよ」
「積むものは、書類と普段の荷。箱と時計はまだ残す」
「分かってる。夕飯、前の宿で食べられるかなって」
「昼までに出れば、間に合う予定」
「あの宿、焼き林檎があるんだよね」
ナギは、覚えてる、と答えた。
旧堂の窓を振り返ると、台の上から下ろされた時計はもう見えなかった。止まった針を思い出しながら、リコは明日の夕飯の時刻を考えていた。




