5. 今日はこの椅子に座る
坂の途中で、パンの包みが温かくなくなった。
リコは抱え直し、青い屋根の井戸を越えた。冬の畑では、刈り残した茎に霜が白い筋をつけている。港を発つ前に届ける通常の荷は、これで最後だった。背後のナギが籠の持ち手を替える。二人ぶんのパンを頼むエダの家へ来るのは久しぶりで、玄関脇の鉢に残った細い枝を見ても、春にどんな花が咲いていたか思い出せなかった。
扉が開く前から、玉葱を炒める匂いがした。
「入って。ちょうど焦がすところよ」
「急ぎます」
「急ぐのは私。あなたたちは靴を脱いで」
小柄なエダは、柄の長い木匙を持って台所へ戻った。リコは荷置台に籠を載せ、先に受取の印をもらった。卓へ仕事を持ち込みたくなかった。外套を脱いだナギの頬は冷えて赤く、薄黄のスカーフの下に、襟元で折れた髪がのぞいていた。
「昼に出るんです。港へ戻る時間はありますか」
「食べる時間はあるように頼んだわよ。足りなければ、おかわりの途中で出ればいい」
鍋の蓋を少しずらすと、湯気が戸口まで来た。豆と根菜の煮込みだった。リコの腹が鳴り、エダは気づかなかった顔でパン切り包丁を渡した。
「厚く。今日は汁を吸わせるから」
皮を押さえて切ると、中の柔らかいところが一度つぶれ、ゆっくり戻った。ナギは手を洗ったあと、来客用の椅子を引いていた。後ろ脚が床に触れるたび、短く鳴る。
「この継ぎ目、少し動きますね。締め直してもいいですか」
「食べてから見て。座るのは、こっち」
「工具はすぐ出ます」
「豆もすぐ煮崩れる」
ナギの手が腰の袋から離れた。エダは台所から、背に細い棒が三本並んだ低い椅子を運んできた。ナギはぐらつく椅子を戸口へ移した。床に下ろすと、また短く鳴った。
「ほら、席を譲るのが嫌らしい」
エダが言ったので、リコは笑いながらパンを置いた。ナギが低い椅子を確かめて座ると、膝が少し卓へ近づいた。家の奥には古い飛行帽があり、そのそばの席には皿が出ていない。彼女はそこを見つめず、エダが引いてくれたもう一脚に座った。
煮込みは豆の皮が舌に残り、あとから玉葱の甘さが来た。リコは二口食べてから、刻んだ葉の香りを探した。知らない料理というほどでもないのに、宿泊所で出る豆とはずいぶん違った。
「何を入れたんですか」
「今日安かったもの」
「それだけで、こんなに」
「それだけじゃないわよ。鍋の底を見て、塩を入れて、火を弱くして。安いものも座って待っているだけじゃ、ごはんにならないから」
ナギが匙を止めずに笑った。エダはそれを見て、彼の皿にもう一杯足した。
「食べ終わる前です」
「足す場所があったでしょう」
リコは自分の皿を少し寄せた。そちらにも一杯来た。港の食堂を営んでいた人の手は、鍋を傾けるたび、二人の食べる速さを見ている。世話を焼かれているというより、料理をいちばんおいしいところで渡されていた。
「あなたたち、あちらでは何を食べてるの」
エダに尋ねられ、リコは宿泊所の朝食を説明した。厚い粥と、固い皮の丸パン。悪くはないが、日によっては温かいものが粥だけなので、皿をもらう順番を間違えると両方冷めてしまう。
「だから私は、粥を先に飲んでからパンをもらいます」
「よくそんな大事なことを教えずにいたな」
ナギが横から言った。
「あなたはパンを先に食べたいのかと思った」
「配る順に取ってただけ」
リコは二人の朝を思い返した。食堂で彼が静かにパンをちぎっている間、自分は粥の器を両手で持ち、次の仕事を話していた。同じ席で食べていても、向かいの皿が冷めているとは知らなかった。
「明日から、席を取っておく。私が粥を受け取ったら、そっちも来て」
「自分で行ける」
「そうだけど、席がなくなる日もあるから」
ナギは少し考え、じゃあ頼む、と言った。エダはその間に自分のパンへ汁を吸わせ、満足そうに一口食べていた。
「私は、食堂をやっていた時には、こういう端っこが好きでね」
皮の厚いところを匙で押した。汁を含んでも崩れず、鍋の底の甘い部分をよく拾う。
「残りを食べていたんですか」
「好きだから先に取っていたのよ。残る時もあったけれど」
リコは笑って、皿の真ん中に置いていた柔らかい方を見た。エダが皆の好物を自分の皿から譲っていると、どこかで思っていたらしい。彼女は端を一つ追加し、まだ鍋に残る汁をかけた。自分も食べ比べてみたかった。
旧仕分け堂の話を切り出したのはエダだった。
「町の受付、ずいぶん人が来ていたわね。あの古い建物、使えるの」
「使えるところだけです。机を置いた区画は、日が入ります。奥はまだ仕切ってあります」
「寒そう」
「寒いです」
リコは即答した。帳簿をめくっていると、まず小指が冷える。ここで温まった手を見ながら、明日は手袋を一組余分に持とうと決めた。
昔の祝い品らしい包みがあること、移された先を示す控えが見つかり、今の連絡先を調べられる荷が増えたことを話した。箱の数も宛名も口にしないまま、話すことは十分あった。空だった菓子箱のことを言うと、エダはパンの端を拾った。
「お菓子は、箱より先に帰っちゃったのね」
「ええ。片づけた記録がありました」
「中が残っていたら困ったでしょう」
「それは、とても」
笑ったあとで、リコは、エダのところにも届かなかった品があるのだろうかと思った。古い飛行帽まで目を動かしかけ、匙に残っている豆を口へ運んだ。今ここで話しているのは、昼の鍋と、彼女が尋ねた仕事のことだった。
「いくつか、同じ日に届けられるかもしれないんです。まだ、引き取るかどうかの返事を聞いているところですけど。みんなでお祝いするような……」
「食べるものは?」
「まだです」
「じゃあ、そこからね」
手順が一気に料理の方へ曲がった。リコは鞄を見たが、膝に帳面を広げるのはやめ、パンの耳を一つ取った。
「何がいいでしょう」
「冬なら温かいもの。立って食べるのか、座れるのか。それで違う。椅子があれば、急いで飲み込まなくて済むわ」
「この煮込みがあったら、私は座ります」
「あなたは皿が大きければ座るでしょう」
「皿が小さくても、おかわりがあれば」
エダは声を出して笑った。台所へ立つ背中に、リコは会が決まってから相談してもよいか尋ねた。返事より先に、戸棚から浅い皿が三枚出てきた。薄く切った林檎がのっていた。
「頼むなら早めに。鍋を出す人だけ集めたって、野菜は刻まれないから。私は一人でずっと火の前にいるのは嫌よ」
「一緒に食べたいです」
「そう。そのために相談してちょうだい」
林檎には酸味が残っていた。リコは甘い皮のところまでかじり、今日の椅子の音を頭のどこかへしまった。
食後、ナギは椅子を裏返す許しを得て、継ぎ目を確かめた。エダが流しに湯を張り、リコが皿を運ぶ。洗う方を申し出ると、台所の仕事を取り上げられるのは困ると、拭く布を渡された。
「そこへしまわないで。下の段」
「届く方ですか」
「上は普段使わない皿。毎日爪先立ちをしたくないの」
下の段には三枚重ねるだけの隙間があった。皿の端が不揃いで、違う組のものを一緒に使っていると分かった。一枚ずつ拭き終える頃、椅子の方から小さな金属音がした。
ナギは緩んだ締め具を直していたが、座面を支える横木の片端には手を止めた。
「ここは次に職人さんへ見てもらってください。今の工具で締めても、木の方が持ちません。座るのには別の椅子を使って、これは荷置きにしておくのがよさそうです」
「あら。とうとう引退なの」
「脚を替えられるかもしれません。僕が今日決めるには、材料も時間も足りないので」
エダは背をなで、頷いた。ナギは直した部分と残した部分を小さな紙に描いた。町の家具職人へ次の買物の時に持っていく、とエダが言う。彼は紙を卓へ置き、工具袋の口を結んだ。床に落ちた木屑は指で拾いきれず、リコがちり取りを差し出した。
「さっきの音、消えましたね」
そう言いかけたリコの前で、エダが紙を裏返した。
「代金を書くところがないわね」
「今日は緩みを締めただけなので、材料も使っていません」
「あなたの時間は使ったでしょう」
ナギは、昼食のお礼で、と答えた。エダは首を傾けたまま、工具袋へ目を落とした。
「なら、今日はありがとう。でも次の昼食は、この椅子が直っていても来て。毎回、何か探してもらうつもりはないの」
「分かりました」
彼の返事が少し小さかった。リコはちり取りを持って台所へ行き、戻る時、もう片づいた工具袋が入口に置かれているのを見た。ナギは何も持たない手で、紙の上へ自分の名前を書いていた。家具職人が聞きたいことがあれば局に知らせてほしい、と言っていた。
リコが椅子の背をそっと押すと、ナギは彼女の方を向いた。
「座って確かめなくていいからな」
「分かってる。名残惜しんだだけ」
彼女は戸口の荷置台を少し空けた。椅子は当面そこへ置かれ、戻ってきた空籠を載せた。食卓が寂しく見えるだろうかと思ったが、エダは食事に使った低い椅子を、空いた席へ寄せた。
「次もこっちへ座って。膝が余ったら言って」
「もう少し卓から離しておきますか」
ナギが尋ねると、エダは時計を見た。
「次でいい。あなたたちの船は待たせられるの?」
リコは橙の肩掛けを取り、まだ温かい部屋へ振り向いた。エダは残った煮込みを別の器へ移している。三人が立った食卓の上に、パン屑だけが残っていた。
「ごちそうさまでした。料理の相談が決まったら、知らせます」
「お願い。楽しみにしているから」
その言い方に催促の強さがあって、リコは嬉しかった。外へ出ると、さっきより風が冷たい。坂を下りながらナギが、工具袋を持たない方の手を開いたり閉じたりした。
「食べてからでよかった?」
「豆が煮崩れずに済んだ」
「椅子の方は」
「どっちにしても、今日は脚を替えられなかった」
少し歩いてから、彼が付け足した。
「直す前に座ると、食事の時間まで変わるんだな」
リコはそれを軽口で返さなかった。港の屋根の向こうで、雲の切れ目が青く光った。コムギ棚の充填棚で預けていた風実を受け取り、二人は水と残量を確かめてからツバメ号に乗った。
午後の三時間、橙の帆の下を薄い雲が流れた。旧仕分け堂の島へ着いた時には、夕方の灯が港の板に長く延びていた。風実を翌朝までの充填に出し、宿泊所へ荷を下ろしてから、明日の受付に要る紙をそろえる。リコの帳面の端には、食事会、という文字がまだ小さく残っていた。その横へ、座って食べる、と書き足した。




