3. 名前の続きは別の人
古い地番のところには、洗濯屋があった。
リコは通りの入口で地図を畳み、もう一度、店の上に出ている番号を見た。コムギ棚の港から上がる道を曲がって三軒目。場所は合っている。戸口には湯気の付いた窓があり、奥で大きな桶を動かす音がした。
昔の宛名を知っていますか。
その一言なら、すぐに尋ねられそうだった。
リコは鞄の口へ手を掛け、出そうとした古い控えを戻した。今ここに住んでいる人が、前の人の荷物のことまで知っているとは限らない。書類の下にある、現在の受付への案内を出す。
「すみません。町の受取り窓口は、この先でしょうか」
戸口で布を振っていた男性が、肩越しに顔を向けた。
「坂を上がって、粉屋の向かい。今日は入口が横だよ。表は樋を直してる」
「ありがとうございます」
「手紙なら、うちのはここで合ってる」
男性は自分の胸を指し、笑った。リコも笑って、通常の配達分にはここがないのを確かめた。
後ろからナギが追いついた。港へ艇の充填を預け、今夜の宿泊所を確かめてきたところだった。腕に掛けた上着を着直しながら、彼も古い地図を見た。
「家は変わっていた?」
「建物は、たぶん。でも、今は洗濯屋さん」
地図の上では、同じ四角いままだった。
旧仕分け堂で作った照会の通知は、昨日の通常便で先に届いていた。今日リコたちが来ることも、町の窓口には伝えてある。三時間ほど飛んで着いたコムギ棚は、数日前に寄港した時より雲が低く、かまどの煙が道へ流れてきた。
横の入口を入ると、小さな受付にはすでに二人、荷を持った客がいた。
一人は割れた鉢を見せながら、返送の箱はどこで買えるか尋ねている。もう一人は紙袋を抱え、壁の時刻表を睨んでいた。リコは担当へ名乗り、窓際に寄せられた机を借りた。
名前を呼ばれた客が、先に来た客を振り返った。
「お先に。そちら、長いですか」
「箱を探しているうちは、長いでしょうね」
知らない人同士の会話を聞きながら、リコは控えを並べた。旧堂では机の上にしか無かった名前が、この町では、列へ並んだり時間を気にしたりする人につながっている。
受付担当が持ってきた現行の資料には、旧地番に続けて新しい連絡先が記されていた。同じ家名のままでも、窓口へ届け出られた連絡役が替わっている。
「今お尋ねできるのはこちらです。ご本人が来る時刻は、まだ約束していません」
リコは頷き、相手の返答の欄を空けておいた。
*
セリが来たのは、午後の客足が一度途切れた頃だった。
顎のあたりで切りそろえた黒髪を片耳に掛け、くすんだ赤い上着の前をきっちり留めていた。腕の布袋から、青い葉の端がのぞいている。受け取った照会の紙は、買物の覚え書きと一緒に、小さく折られていた。
「この紙を出した人に、会えますか。セリといいます」
リコは立ち上がり、窓際の席を示した。
「私です。ミナト輪の郵便士、リコです」
「船で来たんですね」
「午前に着きました。明日もこちらで受付をします」
セリは座らず、紙を机へ置いた。
「これ、叔母の名前です」
そこで初めて、買物袋を床へ下ろした。
リコは宛名の行へ目を落とした。旧堂ではただ古い字だった名前が、短いその言葉で、一人の女性の叔母になった。
「今は、もう亡くなっています。離れて暮らしていたので、私の知らない物も多いと思います」
声は平らだった。言い慣れた説明なのかもしれない。リコは椅子を勧め直さず、主任から渡された外観の一覧を出した。
「今、連絡できる方を確かめています。今日、全部のお引取りをお願いするお知らせではありません」
セリは表題から読み、肩を少し下げた。
「箱が来るのかと思いました」
「船には積んでいません。こちらが見た形を、紙にしています」
リコは一覧を相手へ向けた。大きさの目安を添えた包みと、小さな長方形の木箱。中を確認していないものには、外から見えるところだけを描いてある。
セリの指が、木箱のところで止まった。
「これは、持って運べる大きさ?」
「見に来ていただけるなら、実物の寸法と重さも確認できます」
「その前に、ほかには何があるのか知りたいです」
彼女は指を離した。
「なぜ、今になって分かったんですか」
リコは主任に見せてもらった移管台帳を思い出した。棚の番号と、別の港に残った宛名の控え。その間に挟まった薄い表のことを、順に話した。
「建物を直すのに合わせて整理して、今の連絡先を調べられる品が増えました。昨日まで箱が無かったわけではないんです」
「あったのに、誰の物か分からなかった」
「はい。つながらなかった記録がありました」
セリは一覧から顔を上げなかった。リコも、見つかってよかったですね、とは続けられなかった。
しばらくして、彼女が自分で紙を少し近づけた。
「なら、今の状態を見ます」
さっきまでリコに向けていた声を、今度は木箱の絵へ落とした。
リコは椅子を引き、自分も座った。相手が立っていることに気づいて慌てかけたが、セリもそこでようやく、袋を足元へ寄せて腰を下ろした。
「私の家、大きくないんです」
セリは言った。
「来てしまってから置けないと、また誰かに運んでもらうでしょう。いま使っている物を出すことにもなるし」
「見るだけで、決めなくても大丈夫です」
「見たら、決めなければいけない気持ちになることもあります」
リコは返事をやめた。
旧堂で花模様の紙を見た時、自分も送り主の顔を勝手に思い浮かべた。実物を見れば、と勧める言葉には、見た人なら残したくなるだろうという期待が混じる。セリはその期待を、紙の段階で止めようとしているのかもしれなかった。
「では、先に一覧を持ち帰れますか。確かめて、明日の窓口からお渡しできるようにします」
リコが言うと、セリは机に載った紙の大きさを見た。
「それなら、家で見られます。買物のあとに」
「今日の分、重いですか」
尋ねてから、余計なことだったかと思った。けれどセリは袋の口を開き、葉に隠れた大きな根菜を見せた。
「半分にして売ってくれたんです。半分なのに、これ」
リコは思わず笑った。町の朝市で一株買って船の調理台を占領されたことを、いまなら話してもよさそうだった。ただ、セリはすぐに口を閉じ、書類へ目を戻した。
「見に行くとしたら、どこへ申し込みますか」
リコは旧仕分け堂の入口を描いた小さな案内を出した。新しい札を掛けた扉と、受付の机。広大な奥の棚まで案内図に入れる必要はなかった。
「この窓口でも、予約を送れます。先方の管理の方が、見る日と範囲を返してくれます」
「あなたが、箱を出してくれるんですか」
「私は照会と配達を担当します。品を見る時には、管理の方にも立ち会ってもらいます」
セリは図を眺め、扉の上の四角を指した。
「ここに名前?」
「受付、と書いてあります」
「そう。自分の名前が貼られているのかと思って」
リコは、照会の宛名を机の上で伏せた。外へ聞こえるほど大きな声で呼んだ覚えはなかったが、壁の隣ではまだ鉢の箱の相談が続いている。
「来た方のお名前は外に出しません」
セリは頷いた。
遠くから来る箱より、誰かが知っている自分の家の方が、彼女には近いのだろう。リコは、受付に立てる案内にも宛名を載せないことを、控えの端へ短く記した。
「まだ、受け取る返事ではないです」
「はい。今日は、外観の一覧と見学の窓口を知りたい、という返答を預かります」
読み返すと、セリは初めて、はっきり頷いた。
*
扉まで送った時、袋の底が椅子の脚に引っかかった。
セリが取っ手を持ち替える間、リコは椅子を少し引いた。ついでに荷を持とうとはしなかった。相手が自分の膝で袋を支え、楽な持ち方に直すのを待った。
「明日は、午前には来られません」
「午後で大丈夫です。受付の時刻はこちらに」
リコが紙を指すと、セリはその下へ、自分の覚え書きに使っていた鉛筆で線を引いた。
「では、買物の前に」
そう言って出ていく後ろ姿には、古い荷の受取人という呼び名よりも、赤い上着がよく似合っていた。
机へ戻ると、ナギが、椅子を元の位置へ寄せた。
「木箱を見るの?」
「一覧を見てから。予約の返答をもらいます」
彼は途中から別の机で、港への通常の依頼書を書いていた。会話の全部を聞いていたわけではない。リコは必要な予定だけ伝え、セリの返答を自分の控えへ写した。
引き取るかどうかの欄には、まだ印が付かなかった。
隣の机では、鉢を持っていた客がちょうど帰るところだった。無地の新しい箱を腕へ抱え、割れた鉢のあったところへ、緩衝用の紙を詰めている。
「鉢は?」
受付担当が尋ねた。
「店の人に頼んだ。これは、受け取りに来る時の箱」
扉が閉まる。リコは、空の箱を持って帰る人もいるのだと、当たり前のことを考えた。
夕方、受付を終えた二人は、町の坂をゆっくり下った。
窓口の仕事のあとでナギが確かめたいという道具屋へ寄ったが、目当ての部品はなかった。彼は店主と寸法だけ相談し、注文をせずに外へ出た。
「ここでは、買わなかったんだ」
「使うところをもう一度見たい。似ているだけかもしれない」
リコは彼の空いた手を見た。何も買わないで店を出るのは、自分には少し苦手なことだった。説明してもらった時間が、手の中に何か残っていないと申し訳なくなる。
「さっきの人も、箱が要るかは、まだ分からないんです」
「うん」
「それなのに私、何か一つ持って帰ってもらいたくなった」
ナギはすぐに答えなかった。坂の下から来た台車を避け、リコも道の内側へ寄る。白い布で覆った荷が、二人の前をぎしぎしと通り過ぎた。
「紙は、欲しいと言ったんでしょう」
台車の音が遠のいてから、彼が言った。
「うん。一覧」
「じゃあ、明日はそれを」
簡単に聞こえた。リコは少しだけ、唇を尖らせた。ナギが不思議そうに見るので、首を振る。
「分かってる。明日は、紙を届けます」
宿泊所の窓に灯りが点いていた。通りには、煮えた根菜と焼けたパンの匂いが混じっている。セリの袋にあった半分の根菜も、どこかで火に掛かっているのだろう。
リコは食堂へ向かう前に、鞄から今日の返答を出した。
叔母の名前の下に、セリの希望が二行、続いていた。




