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2. 中身のないお祝い箱

 箱を開いた主任の手が止まったので、リコも息を止めた。

 金色だったらしい細い縁。花の形にくり抜かれた仕切り。そこへ入っているはずの物は、一つもなかった。


 底に残った茶色の染みを見て、ようやく何の箱か分かった。菓子の箱だった。丸い菓子が六つ入る仕切りだけが、贈り物の形を保っている。


「中は、先に取り除いています」


 主任は付属の紙を指した。以前の保管担当が、傷んだ食品を処分した日と、その時の状態を書き残していた。今日初めて封を切った箱ではなかった。


「甘い物だったんですね」

「申告では、果物の菓子です」


 リコは空のくぼみを見た。昨夜、宿泊所で食べた焼き菓子を思い出す。果物の皮が少しだけ苦くて、もう一つ食べようか迷っている間に、食堂の皿が下げられた。その程度の時間しか、食べ物を待たせた覚えがない。

 箱の蓋には、細い筆で短い祝いの言葉が書かれていた。宛名を覆う紙がずれかけ、リコは指で戻した。


「外の形だけなら、写していいんですよね」


 主任が頷く。リコは六つの丸を描いた。五つまで描いて、最後の一つが入らなくなる。紙の端から描き直すと、丸は少し小さくなった。

 その向こうで、荷台が止まる音がした。


「いい丸だ。包むなら四隅に余裕が要るが、絵には要らんか」


 ボンゴが覗き込んでいた。濃い茶色の巻き毛に、朝の風で飛んだ小さな藁が付いている。からし色のシャツと青緑の作業つなぎ。その上へ厚い上着を羽織っても、《くるり包み店》の職人だとすぐ分かった。


「それ、何ですか」


 彼が背負っている平たい包みを、リコは指した。


「箱だ」

「そこまでは分かります」

「まだ箱ではない箱だ」


 ボンゴは胸を張ったが、主任が荷の搬入口を指すと、素直に向きを変えた。通常貨物便で届いた材料は、先に受け取って運んできたらしい。肩から下ろした紙の束が机へ載るまで、荷物は本当に箱には見えなかった。


「ここの包み方を見せる複製です。現物の方は、予定の照合をお願いします」


 主任は入口寄りの見本台を示した。ボンゴが腕まくりを始める隣で、リコは菓子箱の蓋を最後まで写した。

 古い箱は保管台へ戻り、新しい厚紙は明るい机へ広がった。


 *


 次に見た陶器は、底の方から細いひびが上がっていた。

 保存担当が閲覧できる状態にした皿で、リコは縁を持ち上げず、敷かれた台ごと覗いた。淡い黄色の線が輪を描いている。欠けたところへ白い指を添えれば、輪がつながりそうだった。


 そう思った自分の手を、膝へ戻した。


「使えるかどうかは、また別に見るんですか」

「その相談を受ける担当へ回します。今の一覧には、ここから見える傷を」


 主任が光の向きを変えた。窓からの光がひびを横切ると、それまで一本に見えた線が二つに分かれた。

 リコは線を足した。傷を詳しく書くほど、贈り物が寂しくなるようだった。けれど、薄く描いてしまえば、これを見る人には無かった傷が現れることになる。


 机の向こうで、ナギが布包みの台を据えた。二人で運ぶ予定の品では、彼はいつも先に、どこを持つかを尋ねた。今日は台だけを主任の指示で動かし、紐には手を掛けなかった。

 衣装の箱には、織町でイリスから預かった照会の写しが添えられていた。夕焼けの布を仕立てる彼女の店にも、状態を見られるかという問い合わせが来ていたものだ。


 箱の外底の端に、古い取扱札があった。箱を宙に持ち上げ続ける必要はなく、保存担当が用意した台の支え越しに、文字が見える。主任は一覧と番号を合わせ、薄い紙の上へ位置を描いた。


「底というのは、こちらだったんですね」


 リコはナギへ言った。織町で同じ言葉を読んだ時には、蓋を開けるまで分からないと思っていた。


「読めるところだけ、イリスさんへ返せる」


 包みの端から見える布は、折り目と表面で色が違っていた。身に着ければ光るのか、普通の布なのか、ここからは判断できない。リコが記すのは、見える色と擦れの位置だった。

 ナギは寸法を読み、リコが書いた数字をもう一度見た。主任が、その写しを店へ送れる範囲にまとめる。どんな衣装だったかを確かめる仕事には、まだ別の人の手が要った。


 部屋の隅から、乾いた、威勢のいい音がした。


「出来たぞ」


 ボンゴの声だった。


 見本台には、ひと抱えある四角い箱が載っていた。折り目には細い色線が入り、上には布の蝶結びまで付いている。


「新しいのに、昔の形ですね」

「昔の形だからな」

「そうでした」


 ボンゴは蓋の角を順に見せた。薄い板に厚紙を張り、折り返しを内側へ重ねている。結び目を解くと、蓋だけがきれいに上がった。

 その下に、もう一つ箱があった。


「これが中身を守る箱だ」


 その蓋を開ける。

 また箱があった。


「こちらは、内側で動かないための箱」


 ナギが自分の手を見た。最初の蓋と次の蓋を持たされている。ボンゴは三つ目を持ち上げ、机に重ねようとして、台の端がもう無いことに気づいた。


「少し預かってくれ」


 リコも蓋を受け取った。

 四つ目の箱は、最初に見た菓子箱ほどの大きさだった。五つ目は握り拳ほど。ボンゴがそこから引き出した最後の箱は、親指の先へすぽりとかぶさった。


 彼は腕を広げた。


「そして、大切な物が、ここに」


 親指の箱が取れなかった。

 ボンゴは一度だけ指を曲げた。小さな箱も、律儀についてくる。


「ボンゴさんが、入っています」


 リコの声を聞き、ナギが横を向いた。肩だけが少し動いた。


挿絵(By みてみん)


「これは、密着性の説明だ」

「外れるところまで、説明してください」


 主任まで静かに言ったので、リコは蓋の陰へ口元を隠した。

 ボンゴは真面目な顔で手首を回し、最後には親指の箱の継ぎ目を緩めた。小さな紙が開いて、指が顔を出す。


「包む形を戻せば、開く」


 今度は本当に説明になっていた。ナギが笑いながら頷く。


「いちばん小さい箱にも、開ける順番があった」

「なかったら、もう少し困っていた」


 ボンゴは白状し、六つの箱を並べ直した。大きいものから小さいものへ続く列を、主任が少し離れて眺めた。


「これなら、触ってもらえますね」

「いくらでも。ただ、いちばん小さいのは指を入れる前に聞いてくれ」


 リコは蓋を返した。現物の机に戻る前、もう一度、開いた見本の底を見た。そこには何も無い。何も無いのに、さっきから四人も集まっている。


「これ、ほかの人にも見てもらえたらいいですね」

「呼ぶか」


 ボンゴはすぐに入口を見た。


「今日は、これから作業があるので」


 主任が控えの束を持ち上げる。ボンゴは入口から目を戻し、畳める箱から順に片づけ始めた。


「では、次の機会の練習だ」

「私たちが、最初のお客ですね」

「最初は、箱を持たなくていい客を想定していた」


 リコは自分の腕に残っていた最後の蓋を返し、二人で笑った。

 片づける前に、ボンゴは一番外側の箱をもう一度広げた。裏の線は、表の華やかな色と違って、細く正確だった。


「この折り方は、今はしないんですか」

「するぞ。材料が厚くなると、ここを少し変える。昔の通りにすると、蓋が開きにくい」


 リコは指先の箱を見た。彼も同じところを見て、片眉を上げた。


「大きい方は、ちゃんと変えた」

「小さい方も、次は」

「分かっている」


 主任が仕事の控えを取りに行くと、ボンゴは大きな蓋の花模様を少し塗り足した。元の記録で擦れていた箇所は白いまま残し、その脇の新しい色だけを濃くしている。


「自分の見本には、見て楽しいところも要る」


 リコは塗りたての色へ顔を近づけた。古い形を確かめるために作った箱が、もう彼の店の窓に並びそうな顔をしていた。


 *


 午後には、もう笑い声は響いていなかった。ペンが紙を擦る音と、番号を確かめる小声が、広い堂の入口に集まっていた。

 台帳には、初めに留め置かれた荷と、後の時代に移された荷が入り交じっていた。同じ棚だから同じ年の荷とは限らない。菓子箱の隣に長く残った陶器も、その隣の道具箱も、それぞれ違う日にここへ来ている。


 リコは発送年を足して引いたりはしなかった。一人の待った時間を、隣の人の時間へ重ねるのは奇妙な感じがした。ひと棚の遅れを全部集めたら、百年どころでは済まないかもしれない。

 そんなものを、誰が抱えて帰るのだろう。


 窓の明るさが落ち、主任が机の灯りを点けた。台帳にあった宛先のうち、今の住所資料と結びつきそうなものへ、小さな印を付けていく。コムギ棚の町に連絡を取れそうな家があった。以前と同じ家名でも、住む人まで同じとは限らない。


「まず、照会ですね」


 リコは新しい封筒を出した。

 受け取ってください、と書く前に、確かめたいことがある。宛名の人と関係があるか。問い合わせに返事をする窓口はどこか。相手がその紙を開くのは、買物から帰った時かもしれないし、食事の前かもしれなかった。


 長い説明を一度書いてから、リコは行を二つ減らした。


「ここへ来なければ返事ができないみたいに読めます」


 主任に見せると、先方の町の受付でも照会を受けられる、と書き足してくれた。

 その一行が、リコには気に入った。


 見本台の端で、ボンゴが小さな箱をもう一度畳んでいた。今度は指にかぶせず、底をつまんで開いている。


「同じ日に、何人かへ届けられるでしょうか」


 リコが尋ねると、彼は手を止めた。


「箱の大きさによる。船の大きさにも」

「そうですけど。お祝いの荷物ですから」


 続きを言おうとして、空の菓子箱の方を見た。あれを待った人は、中の菓子をもう食べられない。蓋に書かれた言葉だけで十分なのか、箱ごと要らないのか、まだ聞いていなかった。


「先に、相手が分かってからですね」


 ボンゴは小さな箱を開き、平らにした。


「呼ぶなら、俺にも教えてくれ。今度は蓋を持つ台も用意する」


 リコは頷いた。翌日の業務便に載せる照会をまとめ、端に紐を掛ける。最後の封筒が、新しい札と同じ白さで机に残った。

 夜、宿泊所の食堂には、果物を煮る甘い匂いがしていた。


 リコは皿を受け取ると、今日は最初にひと匙食べた。口の中で熱い皮がほどけ、思わず目を細める。向かいへ座ったナギが、同じ鍋からよそった皿を慎重に吹いていた。


「熱いよ」

「見れば分かる」


 けれど彼も、少しだけ顔をしかめた。

 リコは笑って水差しを寄せた。明日の封筒は預けてある。今は、皿の上にあるうちに食べたかった。

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