1. 扉の前の新しい札
新章です。
新しい札には、まだ誰の指の跡もなかった。
リコは乾ききらない端を持ち、局の窓へかざした。冬の薄い光に、受付の文字が透ける。港から帰ってきたばかりの指は冷えていて、紙一枚の重ささえうまくつかめなかった。
「上下は、そのままで合っています」
向かいの机からピッパが言った。黒い顎丈の髪が頬へ落ち、丸眼鏡の下では、すでに次の束を数えている。仕分け係のすもも色のベストにも、今日は厚い袖が重なっていた。
「乾いたか見てるだけです」
「三度目です」
リコは札を置いた。机の隅に空いた指一本分の場所では心もとなく、横の鞄を床へ下ろす。栗色の毛先が、首へ巻いた布に引っかかった。夏には何でもなかった仕草が、冬には一つずつ面倒になる。
それでも、明日からではなかった。今日、この札を運べる。
ユウナギ織町から帰り、普段の配達へ戻っている間に、旧仕分け堂の整理が仕事になった。前に送った照会には、見られる記録と立ち入れる場所、現地の担当者の返事が順に付いた。古い荷を確かめる冬の予定表に、リコとナギの名前も載っている。
マレが渡してくれたのは、祝い品の目録より先に、今の担当者への紹介状だった。
「玄関でこれを。受け持つ範囲は先方とそろえてあります」
局長の緑のベストの胸元で、丸眼鏡の鎖が揺れた。
「何件、届けられるでしょうね」
リコが尋ねると、マレは書類を閉じずにこちらを見た。
「最初の報告には、会えそうな人が何人いるかをお願いします」
赤い鉛筆が、発送予定の空欄を通り過ぎた。リコは紹介状を鞄へしまい、ようやく乾いた札を厚紙で挟んだ。
出る前に宿舎へ寄ると、ナギが自分の部屋の戸を閉めるところだった。腕に載せた籠で、ポルが白い腹の下へ端布を引き込んでいる。丸い体からのぞく墨色の足が、まだ収まりきらない布を蹴った。
「今日は、そちらへ行くんですね」
宿舎の預かり当番が籠を受け取り、水と餌を置く場所をナギと確かめた。留守の間は彼の部屋で世話を頼んであった。乾いた寝床を好む小さな風綿獣は、二人の行く先より、自分の布の端の方が気になるらしい。
リコが声をかけると、橙の耳だけが一度動いた。
「行ってきます。ちゃんと聞いてる?」
「布は、置いていくって言った方がいいかも」
ナギの言葉を聞いて、預かり当番が笑った。リコは籠に手を入れず、戸口から手を振った。
廊下を抜ける前に、彼が一度だけ部屋の方を振り返った。リコは急がず、肩掛けの留めを直して待った。玄関を出て足音が並んだ時には、札を運ぶ鞄のほかに、船へ持ち込む籠はなかった。
*
コムギ棚へ着いた時には、船の前窓に細かな水滴が付いていた。
白い船体に青い腹、橙の帆をたたんだツバメ号は、朝の野菜箱を積む大船の隣では、小さな使いのように見える。リコは補給の水を受け取り、荷役の人が通り終えるまで桟橋の印の内側で待った。
ナギは、充填に使った接続具を港の担当へ返していた。薄黄のスカーフの結び目が作業着からのぞく。冬の上着を着ても、彼の手は迷わず工具をしまう位置へ戻る。
「この先は、三時間くらい?」
「今日の風なら。それでも、向こうで泊まる」
ミナト輪からここまでの一時間と合わせ、飛ぶのは四時間ほどの予定だった。午前のうちに出れば夕方に仕事もできると思っていたリコは、予定表の余白へ指を置いた。
「着いてから、けっこうありますね」
「門が開く時間と、船を下りられる時間は、少し違うから」
ナギは荷の留め具を一本引いた。水や工具、二人自身を含めた重さは、四百キロの基準に余裕がある。今日は古い箱を積んで帰る予定もない。紹介状と道具と白い受付札だけが、これからする仕事の大きさを隠しているようだった。
出航すると、コムギ棚の段々畑が窓の下へ広がった。冬の土は濃く、かまどの煙が風にほどける。あの煙のどれかはエダの家かもしれない。リコは、帰りの配達表に彼女の名前があるのを確かめ、先の航路へ顔を戻した。
雲の裂け目に、島の底から垂れた根が見えた。手の届かない高さにあるのに、細いものまで風に揺れている。遠くでは荷船の帆が傾き、その先へ灯台の印が一つずつ続いた。
「前は、ここをもっと大きな船が通っていたのかな」
「帳簿にはあると思う。桟橋の幅だけなら、大きそうだけど」
ナギが指す先に、使われなくなった張り出しが見えた。手すりの一部が外され、その手前に柵がある。今の船は、隣の小さな桟橋を使っていた。
リコは胸の中で大船を浮かべた。祝いの包みを山ほど載せて、あの広いところへ着く船。その甲板で誰かが、荷札の端を押さえていたはずだった。
実際に旧仕分け堂の扉が見えたのは、昼食を済ませ、港の宿泊所へ私物を預けたあとのことだった。
高い石壁の窓は、一つおきに板でふさがれていた。入口の上に横長の文字板があり、最初の二文字だけ雨に白く洗われている。リコの想像した大船より、建物の方が大きかった。中で呼んだ声は、ずいぶん遠くへ行ってしまいそうだ。
「ミナト輪からの二人ですね」
扉脇から短い灰髪の人が出てきた。藍の前掛けに、平たい鍵入れを下げている。古い仕分け堂の管理主任だった。リコが紹介状を渡すと、主任は袖の中から自分の控えを出し、名前の下を見比べた。
「ようこそ。札は、無事ですか」
「角も折れていません」
「それは助かります。ここの風は、角から持っていくので」
主任は扉を押さえ、二人を中へ入れた。
冷たい木と、乾いた埃の匂いがした。壁に沿って巨大な引き出しが並び、天井近くまで番号が続いている。奥には荷を運んだベルトが黒く横たわっていた。止まったその上に何も載っていないことが、かえってリコの目を引いた。
引き出しは昔、行き先ごとに荷を分けておく場所だった。荷を載せて動く長い帯も、今は途中を仕切られている。機械が届け先を探し続けていたのではない。ここへ移された箱を、人が棚と帳簿で守ってきたのだ。
主任は入口から続く白い線を踏まずに歩いた。線の内側には照合机と低い棚があり、その先を木の仕切りがふさいでいる。
「今、使えるのはここまでです。奥の棚は足元から直しています」
ナギは依頼された通路の固定部を見た。主任が指した箇所へ屈み、擦れた金具と新しい木の継ぎ目を順に確かめる。青黒い髪が額へ落ちたまま、彼は次の金具へ移った。
リコは手近な椅子を机へ寄せようとして、その下の木片に気づいた。
「これは、抜かない方がいいですか」
「その椅子は、そこにいる間だけ機嫌がいいんです」
主任が別の椅子を出した。
「こちらを使ってください。揃った椅子まで待っていると、春になります」
リコは礼を言って座った。机には、幅も表紙も違う二冊の帳簿が置かれていた。
*
上の帳簿の番号と、下の帳簿の番号は、同じ荷物に見えなかった。
一方には大きな棚の番号と、その中の置き場所。もう一方には港と宛名、古い引受け番号がある。主任が間へ挟んだ薄い移管台帳だけが、両方の数字を横に並べていた。
「別の保管所から来た時、この表に移したんですね」
「ええ。現物は新しい棚番号で管理していました。宛名の控えは、元の港の束に残った。移ったあとでまた移った品もあります」
主任の指が一行をたどった。三つの番号のうち、一つだけ違う筆で書き直されている。
誰もこの建物を忘れていたわけではなかった。扉には鍵があり、屋根には手入れをした跡がある。けれど、ここに箱があると知っている人と、誰が待っていたかを知っている紙は、別々の場所にあった。
「これが見つかったから、届けられる?」
「この行なら、まず連絡先を探せます」
主任は余白へ、小さな紙を置いた。そこには、まだ誰の名前も書かれていない。
リコはペンを持ち直した。最初の宛名を声に出そうとして、入口で作業している人たちを見た。机へ身を寄せ、主任にだけ見える向きに控えを置く。
一行目は、結び直した紐のある箱だった。二行目は、布包み。三行目には「祝」と読める字があり、残りが擦れている。
「ここ、お祝いの品でしょうか」
「申告にはそうあります。傷みの記録も別に」
主任が台帳を開くと、薄い包み紙の切れ端が挟まっていた。朱色の花が、半分だけ残っている。リコは指を伸ばさず、近づいて見た。
贈った人は、たぶん、この花を選んだ。
相手が好きだったのか、店にそれしかなかったのか。どちらであっても、包んだ時には色が濃かったはずだ。リコには紙を手渡すところまで見えるようで、その先にいる受取人の顔だけが浮かばなかった。
「この人たち、今どこにいるんでしょう」
自分に尋ねるような声になった。主任は、連絡先用の白紙をリコの側へ寄せた。
「そこで、あなたたちの机が要るんです」
ナギが通路から戻ってきた時、リコの前には、照合の済んだ三行分の控えがあった。
「三つ?」
「今日は、まず三つ」
言ってから、顔を上げる。広い堂の棚を見れば、少なく聞こえる数だった。ナギは机の脚を見てから、鞄が床へはみ出さない位置に小さな置き台を寄せた。
「ここ、歩く人の足に当たらない」
リコは青い鞄をその上に載せた。椅子を引いても、もう金具が靴へ触れない。明日の朝、自分の座るところができた。
閉める前に、新しい札を扉の外へ出した。
古い運搬札の下には、昔の釘の穴が幾つも残っていた。ナギが主任の示した金具へ紐を通し、風で裏返らない長さに結ぶ。リコは日付の欄を書いた。冬の今日の日付だった。古い年の数字をたくさん写したあとで、自分の使う年が妙に近く見えた。
「少し右」
ナギが手を動かす。
「今度は、行きすぎ」
「字の方が、少し右にある」
リコは札を見て、笑った。受付の二文字のうち、付だけが堂々と場所を取っている。
「じゃあ、字に合わせて」
扉を離れ、二人で確かめた。大きな建物に掛けると、局では持て余した札が小さく見えた。それでも、読みながら入口へ近づける。
明日、ここへ来る人は、古い鍵を探さなくていい。
宿泊所へ戻る道で、リコは手袋を片方だけ外した。指の脇に付いた墨が、拭いても落ちなかった。鞄の中には三つの宛名がある。まだ一つも届けていないのに、朝よりずっと重かった。




