23. 光が薄くなるまで
桃色の袖が、さっきより遠くに見えた。
リコは広場の端の椅子で、踊る人の列を眺めていた。同じ場所を回ってくるたび、光の強かった襞が、布そのものの色へ少しずつ戻っている。金色は蜜に似た薄さになり、葡萄色の裾は、歩く向きによって明るい筋を残した。
日中に受けた光を返し続け、糸の蓄えが減ってきたのだった。布の色が洗い落ちたわけでも、服が今夜だけで傷んだわけでもない。光が弱まるにつれ、灯りに照らされて見える色の方が、リコの目へ戻ってきた。
曲の合間に、灯り係が柱のところへ来た。合図を交わして、通常の会場灯を一つ増やす。足元はもともと見えていたが、今度は隣の人の顔にも明るさが届いた。光布の強い色に隠れていた刺繍が、服の上へ現れる。
「こうなるんだ」
リコが言うと、隣のナギは布と灯具を交互に見た。
「店で見た見本より、たくさんあるから」
「一枚ずつ弱くなってるのに、会場全部が変わるね」
誰かが消えた灯りを取り戻そうとしているわけではなかった。演奏は続き、さっきまで桃色を照り返していた顔が、普通の灯りの下で笑った。リコは自分の帯へ目を落とした。深い青と細い橙は、最初から光っていなかった分、いまもよく似た姿で腰にあった。
ナギの言葉を思い出すと、指で縁に触れたくなる。そのたびに触れば、彼に何を思い出したか分かってしまいそうで、リコは腕を下ろした。
ハナエが踊る場所の外側を通った。青灰色の上着の袖は下ろされ、左手には飲み物がある。向こうに知人を見つけたらしく、片腕を軽く上げた。その腕がすぐ元へ戻らず、袖の先が一度だけ揺れた。
「綺麗に直ってるね」
リコが言うと、ナギはハナエの方を見た。
「本人が楽そうだ」
声をかけるほど近くはなかった。二人は曲が終わると茶の器を持って立ち、ハナエの歩く向こうを見送った。それから、少し空いた長椅子へ移って腰を下ろした。リコは膝の布を整え、踵をほんの少し前へ出す。靴を脱ぎたいほどではないが、座り直すと、足の裏が温かかったことに気づく。
ナギも隣へ座った。いつもの作業着より、襟の影がはっきりしている。リコがじっと見ていると、彼は自分の胸を見下ろした。
「何か付いた?」
「ううん。今日、違う服みたいだなって」
「いつもの上着だけど」
「知ってる」
リコが笑うと、ナギは何を言われたのか考える顔になり、それから会場へ向き直った。どこかがきちんと伝わったような、まだその手前のような沈黙だった。
*
イリスを見つけたのは、二人分の杯を返しに行った時だった。
入口から少し離れたところで、灰に赤みを含んだ長い裾が止まっている。薄いショールを肩へ戻す手を見て、リコにはすぐ分かった。向かいに、落ち着いた灰青の上着を着た成人の来訪客がいた。
イリスはいつもより少し顔を上へ向けている。相手が何か話し、彼女が短く答えた。よく聞こえない。リコは近くまで歩いて確かめたりせず、返却台に杯を置いた。
布をたくさん運んだ日でも、誰かのために空けておいた席が、必ず埋まるわけではない。今日は、その人が来ていた。それだけを確かめると、リコの方まで、息が抜けた。
「待たせた?」
近くを通った時、相手の声が聞こえた。
「少し。でも、一曲は踊ったわ」
イリスはそう答えた。来訪客は、よかった、と笑い、空いた席の方へ手を向ける。彼女は頷いて、自分からそちらへ歩き出した。
リコは道の脇へ寄った。目が合うとイリスが足を止め、リコの帯へ一度視線を下ろした。
「楽しんでいる?」
「はい。まだ帰りたくないくらいです」
「それは、困るわね」
イリスは笑った。客へ似合うと言う時とは違う、自分もここにいる人の笑い方だった。リコは隣の人へ会釈し、相手も返した。名前を聞く流れにはならなかった。
「あちら、今なら二つ空いています」
リコが席を指すと、イリスは礼を言った。それから、そばを通る係員へ杯を頼んだ。飲み物を運ぶ側へ回らず、椅子の前で裾を軽く持ち、座る。来訪客が少し椅子を寄せると、彼女もそちらへ顔を向けた。
それより先の会話は、音楽に混じって聞こえなくなった。
リコがナギのところへ戻ると、彼は片側へ寄って席を空けた。さっきより隣へ座りやすい隙間だった。
「来てた」
「うん。見えた」
ナギはそう答えた。二人とも、それ以上は言わずに広場を見た。
新作の晴れ着を着たユラが、知人らしい人と何かを比べていた。裾の灰色の組紐を指で示し、相手の袖にも触れてよいか尋ねる。光の弱まった部分は、仕上げ前に見た欠けた線のようには見えなかった。全部の布が弱い光へ向かっていて、その中で、光らない飾りの輪郭だけが変わらずにある。
ユラは相手と顔を見合わせると、曲の方へ戻っていった。会場灯の下を横切る時、葡萄色の広い裾が一度開いた。リコは、あの布が仕事場の狭い見本袋に入っていた時のことを思い出した。いまは布の端をつまんで話を聞く必要はなく、持ち主の歩く広さで見られる。
「私たちが、ずっと見てるって気づいてないね」
「見られるために、歩いてるわけじゃないから」
ナギが答えた。その声が何だか可笑しくて、リコは横を見た。
「じゃあ、私は?」
「今、こっちを見てる」
答えに困った顔で真面目に言うので、リコは声を出して笑った。周囲の笑い声に混ざり、誰もこちらへ振り向かなかった。
「母さんに、何て書こうかな」
口をついて出たのは、いつもの手紙のことだった。母からは、食べた物も教えてほしいと言われている。今日のことは、食べ物の隣に、ずいぶんたくさん置く物があった。
「踊ったって?」
「それだけだと、すぐ終わっちゃう。練習でナギがお辞儀した話は、書く」
「そこは、全員でやったところまで書いてほしい」
リコは頷いた。深く頭を下げた三人を描くなら、後ろに止まった奏者も要る。下手な絵でそれを伝えようとしている自分を想像して、また可笑しくなった。
「この帯のことも、書く」
ナギがこちらを見た。リコは、彼が言ってくれたことを母へそのまま書くかどうかは言わなかった。書いてしまえば、帰省した時の母の最初の顔まで思い浮かぶ。今はまだ、自分の中で何度か思い出してからにしたかった。
「青いところ、絵ならナギの鉛筆じゃ足りないね」
「また、青って書く?」
「今度は、色をつけたい」
明日買物をするかまでは決めず、リコは会場へ目を戻した。手紙の紙を広げる時にも、今夜の続きを少し楽しめそうだった。
時間を見ると、もう初めの紹介の列から随分経っていた。会場の端を歩く人は減り、ゆっくり話す人が増えている。椅子の下へ置かれた小さな袋や、空の杯の数が、夜の長さを示していた。
「最後まで、いる?」
リコが尋ねると、ナギは一度時計を見た。
「明日の返却、朝は早いから」
分かっている返事だった。それでもリコは、すぐに、じゃあ帰ろうと言えなかった。せっかく座れたところなのに。もっとも、立っていたら立っていたで、やっと曲に慣れたところなのにと思っただろう。
ナギが、二人の間に置いた手を引いた。
「まだ、聴きたい?」
「うん」
リコは答えてから、帯を見た。
「帰ったら着替えるでしょう。そうしたら、今日が終わっちゃう気がする」
口にしてしまうと、子供のような言い分に聞こえた。けれどナギは、それを笑わなかった。
「明日も、その帯はあるけど」
「そういうことじゃないの。あるのは、嬉しいけど」
言い返してから、彼が分からないのではなく、言えるところを探しているのだと思った。ナギは広場を見たまま、少し考えた。
「僕も、今すぐ出たいわけじゃない。一曲聴いてからなら、宿に伝えた時間に戻れる」
「踊らないで?」
「座って聴くのも、やってみたい」
リコは背を椅子へ預けた。曲が始まる前、奏者が弦のあたりへ手を入れている。短い音が一つ鳴り、別の音が応えた。その支度まで見てから帰るなら、急に切り上げる感じはしない。
「じゃあ、次の一曲。終わったら帰ろう」
「うん」
自分で終わりを決めると、残った時間が少なくなったかわりに、帰るかどうかを考え続けなくてよくなった。
ナギが長椅子の端へ寄りすぎているのに気づき、リコは少し間を空けた。隣の人が立ったので、彼も楽に座り直せる。服を着た人の輪郭と、椅子の上の位置。それだけのことなのに、二人で一つの場所にいる感じがした。
次の曲は、練習で何度も繰り返したものよりゆっくりだった。低い音が先に進み、そのあとを明るい音が追う。足を出す場所を考えないで聴くと、同じ旋律にも、知らない曲のような長さがあった。
広場の向こうで、イリスが何かを言って笑った。来訪客が答え、二人の杯が椅子の間の小さな台へ置かれる。リコはその一瞬を見て、それから奏者の指へ目を戻した。
ナギの靴先が、小さく拍子を取っていた。リコも片方だけ合わせる。踊りの時ほど正確でなくてよかった。途中で合わなくなっても、そのまま聴いていられる。
最後の音が伸び、広場の上へ薄く残った。拍手が起こった時、リコは自分の手が温かいのを感じた。
「行こうか」
今度は自分から言えた。
入口の係に挨拶をして出ると、外の道は思ったより涼しかった。会場の明るさが戸口の形になって足元へ落ち、その先は普段の町の灯りだった。リコは裾を持ち上げ、段を一つ下りた。ナギがすぐ横で待ち、道へ出てから並ぶ。
まだ音楽は聞こえていた。角を一つ曲がると、低い音だけになった。
「帰ってるのに、まだ聴こえるね」
「宿まで、どうかな」
二人は耳を澄ませたまま歩いた。聞こえなくなった場所を、言い当てる必要はなかった。干し場の布はすでに取り込まれ、夜の窓の幾つかに、人の動く影がある。
宿では夜番の人が帳面を閉じ、予定の時間に戻った二人へポルの籠を渡してくれた。事前に払った夜の預かり分と受戻しを確かめ、ナギが籠の端を開ける。白い丸い体は眠ったまま、橙の耳だけを動かした。
「よく寝ていましたよ」
リコは小さく礼を言った。賑やかな場所から帰った声を、籠の中まで持ち込まないようにした。
廊下で部屋が分かれるところまで、ナギは籠を抱えて歩いた。リコは鍵を出し、振り向く。
「おやすみ。楽しかった」
「僕も。おやすみ」
部屋へ入って帯をほどくと、青い布は思ったより長かった。腰に巻いていた形からゆっくり戻り、椅子の背へ落ちる。リコは折り癖を整え、明かりを消す前にもう一度だけ見た。
窓の外に音楽は届かなかった。靴を脱いだ足には、まだ曲の終わりが残っていた。




