22. 郵便の話をしてもいい
手を差し出す前に、ナギがリコを見た。
頷くと、彼の掌が上を向く。公開練習で触れたことのある手だった。それなのに自分から指を重ねる間、リコは曲の始まりより、そこまでの小さな距離ばかり見ていた。
「最初、前へ出るね」
「うん。私は後ろ」
言葉にしてある一歩から始めた。
紹介の時より音が近い。椅子に座って聞いていた低い楽器が、今は足の裏からも響いているようだった。右手の向こうを金色の袖が通り、次には光らない白い襟が来る。相手の顔の方を見ていると、すぐ脇にいた人が、いつの間にか別の位置へ動いている。
ナギは一歩を大きくしすぎなかった。リコも早く先へ行こうとせず、彼の肩が動き始めるところを見た。うまく進めた分だけ嬉しくて、何かを言いたくなる。何を言えば今の嬉しさになるのか分からず、口を開いた。
「明日の箱、三つだよね」
ナギがすぐ頷いた。
「うん。中の衣装は貸す側が確認してから閉じる。受取りは朝の枠」
「返す紙も、三枚?」
「箱ごとの札と、まとめた控え。全部を一枚ずつにしたら、多くなる」
会話は滑らかだった。足よりずっと滑らかに進んでしまう。リコは彼の手を持ったまま、自分に可笑しくなった。
「せっかく誘ったのに」
「何?」
「私から、箱の話をしてる」
ナギは一度口を閉じた。返事を間違えたのかと考えている顔に見えたので、リコは首を振った。
「違う。ナギが悪いんじゃなくて」
「嫌なら、別の話にする」
「嫌じゃない。それが、余計に困る」
彼が笑った。次の横への一歩は、笑いながらでも進めた。
郵便の話なら、二人は沢山持っている。雨の中で包みを濡らさない工夫、荷札の小さな間違い、乗船前に食べ損ねた昼食。今夜ここへ来るまでに一緒に過ごした時間が、リコの言葉になるとその形を取った。別の人のように洒落た話をしようとしても、何もない所から急には出てこない。
「箱の話、してもいい?」
リコが聞くと、ナギは少し首を傾げた。
「もうしてる」
「そうだけど」
「していいよ。今、運びに戻るわけじゃないから」
彼女は笑った。広場の入口の受領台は、ずっと後ろにある。三箱という言葉を口にしただけでは、そこで結んだ仕事の終わりはほどけなかった。
曲の中ほどで、少し速く回る組が近くへ来た。
リコは相手の裾の動きにつられ、横への歩幅を大きくした。ナギも続こうとして、二人の足が同じ方へ寄る。靴の先が触れるより前に、彼の手が少し緩んだ。
「止まろう」
リコも足を止めた。周りの組が通り過ぎるのを待ち、二人で外側の空いた所へ寄る。誰かが眉をひそめるかと思ったが、すぐ近くの人は、軽く目を合わせて行き過ぎただけだった。
「踏んでない?」
「大丈夫。私、大きく動いた」
「横は、どれくらいが楽?」
ナギは自分の靴を半歩ずらし、その幅を彼女が見られるようにした。リコも同じくらい動かしてみる。
「これなら」
「じゃあ、その幅で」
彼は周りの速い組へ追いつこうとしなかった。音楽が戻ってくる所を待ち、もう一度目を合わせた。リコは頷き、彼の指を取り直す。
再び始める一歩の前には、さっきほど長い沈黙がなかった。
広場の床の継ぎ目が足の下を横切る。どこから始めたかを覚えていなくても、いま空いている方へ進めた。リコが顔を上げると、ナギの上着の襟越しに、夕方の薄い空が見えた。彼の髪の端が風に動く。仕事の時には同じ景色を横並びで見ることが多く、こうして彼の向こうに町があるのは、まだ少し珍しかった。
「緊張してる?」
リコが尋ねると、ナギは頷いた。
「最初よりは、動けてるけど」
「私も」
「足が合わなくなるのが気になる?」
それもあった。けれどそれだけなら、練習の時にもっと緊張したはずだった。リコは掌へ意識を向け、彼の顔を見る。
「今日の一曲が、すぐ終わりそうで」
ナギは返事の前に、彼女が横へ進むのを待った。
「まだ、終わってない」
当たり前のことを言われたのに、リコはそれでよかった。終わったあとのことばかり考えていると、いま動かせる足まで止めてしまう。相手を引かない程度に指へ力を戻し、次の音を聞いた。
音が一つ長く伸びた。周りの人の裾が遅れて揺れ、二人も少しゆっくりになった。教える人の言葉を思い出すより早く、ナギの一歩がそれを伝えてきた。リコは自分の体がうまく返事をしたことに驚いた。
声を出すとその動きを逃しそうで、言わなかった。
曲の終わりに互いへ礼をした。ナギが裾を持たなかったことを面白がる余裕は、今日はなかった。顔を上げ、彼が笑っているのを見て、自分も同じ顔をしていると分かった。
手を離すと、片方の指先だけが少し涼しかった。
リコはその手をすぐ袋に掛けず、広場の外側へ歩いた。次の曲を待つ人が中央へ入り、さっきまで二人のいた場所へ別の衣装が来る。一曲を踊った跡は床に残らない。残っていないことが、寂しいようでも、誰かのために空いたようでもあった。
「最後まで、踊れたね」
「一度止まったけど」
「止まって、続けられた」
ナギが言い直した。リコは少し強く頷いた。失敗を差し引いたら短くなる一曲にしたくなかった。
席へ戻る途中、甘い焼き生地の匂いに、二人とも足が遅くなった。リコは今度こそ、食べたいと言った。ナギはそれならと売台を見た。丸く薄い生地の上に、煮た果物を少し載せたものが並んでいる。
「同じのでいい?」
「私は端がよく焼けた方」
「あれだね」
ナギは売り手へ伝え、リコが自分の分を払うのを待ってから同じ物を一つ買った。二人ともそれぞれ冷たい茶を添え、空いている広場外側の椅子へ向かう。皿を持って人の間を抜ける方が、踊りの横の一歩より慎重になった。
リコは座って、皿を膝に載せた。帯の結び目は当たらない。イリスに高さを聞かれた時に自分で決めてよかったと、こんな時にも思う。ナギはその隣で、生地の端を折ろうとして果物を少し動かしてしまった。
「待って」
彼が自分の皿へ小さく言った。
リコは吹き出しかけ、口に入れる前でよかったと手を止めた。
「今の、留め具に言う時と同じ」
「これは留まらない」
ナギは素直に小さな匙を使った。リコも真似をする。薄い端はまだ温かく、噛むとぱりりと音がした。楽器の音に紛れるくらいの、自分の近くの小さな音だった。
ナギの肩の向こうで、金色の服を着た男性が椅子の背へ片手を置き、息を整えていた。隣では誰かが笑い、その笑いに別の人も加わる。初めて見る人同士の間にも、知っている人のような時間が少しずつ出来ている。
「また、こういうのに来たい」
リコは皿の上を見ながら言った。今夜をまだ終えていないのに次が欲しくなるのは、早すぎるだろうか。
ナギは会場を見回した。
「織町のは、また時期を合わせないと」
「うん。でも、ほかの所でも。踊るのじゃなくてもいいし」
楽しい場所へ行きたいと口にすると、故郷のことを忘れているように思われるのではないか。その心配を誰に向けているのか、リコ自身もよく分からなかった。母は食べた物を手紙に書いてほしいと言う人だったし、ナギも、ここにいていい理由を要求したことはない。
「知らないもの、見に行きたい」
今度は顔を上げて言った。
ナギは頷いた。
「僕も行きたい。展示室の、あの窓の多い車も、実物を見てみたくなった」
「食堂じゃなかったとしても?」
「食堂なら、なお見たい」
リコは笑った。行けると決まった旅の話ではない。ただ、見たいものを一つずつ言うだけで、地図の知っている範囲が少し狭く感じられた。
「でも、明日は三箱」
「それから、朝ごはん」
「そこは抜かないんだね」
「抜くと、配達が終わってから大変だから」
二人で生地の残りを食べた。仕事の話をやめるために、楽しいことを探し直す必要はなかった。彼となら、三箱の続きへ、見知らぬ車や夜の食べ物を置ける。
皿を返して戻ったナギが、椅子へ座る前に、リコの腰の辺りへ目を留めた。彼女は結び目がほどけたのかと思い、手を添えた。
「大丈夫?」
「うん。ほどけてない」
ナギは座ったが、まだ言うことがありそうだった。リコは先に何か尋ねるのをやめた。向かいの灯りが布の細い縁へ載っている。光を放たない橙色も、この灯りの下ではちゃんと見えた。
「その帯の色、好きだ」
短い言葉だった。
リコは続きを待ちそうになった。暗い所でも見つけやすいとか、汚れが目立ちにくいとか、何かの役に立つ理由が付いてくるのではないかと。ナギはそれ以上、説明を足さなかった。彼が好きだと言った色を、リコ自身も昨日の鏡で好きだと思った。
「ありがとう」
そう返した時、思っていたより小さい声になった。聞こえたのかと彼を見ると、頷いていた。リコは嬉しい顔を隠すために茶を飲もうとして、器を取り上げるまでの間に笑ってしまった。
ナギも少し笑った。二人の椅子の間は、さっきから変わっていない。膝の上で結び目の端を一度だけ整え、リコは茶の器を両手で持った。
次の曲が始まった。
こんな青春を送りたかった




