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21. 夕焼けを着て集まる日

 最後の受領印は、リコが思っていたより小さな音を立てた。

 タエが紙挟みを開き、届いた衣装の包みと控えを合わせる。数と宛名に違いはない。会場の担当者が包みを所定の棚へ納め、その後の相談を受ける窓口を指した。時計はまだ十五時半になっていなかった。


「これで、二人の分は終わりです。あとはこちらで」


 リコは礼を言い、控えを受け取った。舞踏会の途中に届ける品を持っているわけでも、ここで最後まで待機するよう頼まれたわけでもない。なのに、すぐ立ち去ってよいのかと、足が少し余った。

 ナギは既に空の手車を返す場所へ向いていた。彼も振り返って、棚の札を一度だけ見た。リコはその横へ並ぶ。


「終わったね」

「うん」


 二人の声は、まだ配達の声だった。

 広場の向こうでは昼の子供向けの催しが終わり、家族連れが飾りを持って帰っていく。大きな紙の鳥が一羽、子供の頭より高く揺れていた。夕方の舞踏会へ切り替える時間には、入口の綱を閉め、係員たちが台を動かす。リコが手を貸そうかと思うより先に、次の人が台の反対側を持った。


 朝に店で試着したユラは、新作を受け取って帰っていた。最後の動作確認で、灰色の組紐は足に引っかからなかった。昼にはイリスの指示に沿って、自宅で着る前に光を受けさせるという。発光の具合を調べた日の光が、今日まで閉じ込められているわけではない。店から運んだ光布も、会場側の採光場所で当日の光を受け、使う時刻へ備えていた。


 リコはその長い布を見上げた。今日は照らすための陽がある。雲を気にする時と違って、ただ眩しいと思えた。


 宿へ戻り、仕事の控えをしまうと、急に何を先にしたらいいのか分からなくなった。

 水で顔を洗い、手も洗う。服を着る前に髪を整えようとして、窓に映った自分の前で櫛を止めた。いつものはねを押さえすぎると、自分の髪なのによそよそしい。肩へ落ちる栗色の毛先を指で戻し、あとはそのままにした。


 生成りのワンピースは椅子の背へ用意してあった。昨日仕立ててもらった帯を手に取る。二十八リンの紙は机にしまってあり、今は布だけがそこにある。深い青を腰へ回すと、部屋の小さな鏡では結び目の先まで映らなかった。リコは横へずれ、腰をひねり、最後には笑って諦めた。昨日、店の鏡で見た形を覚えている。


 帯を締めすぎていないか、椅子へ腰を下ろして確かめた。息も、腕も、いつもどおり動く。立って裾を揺らそうとして、荷物に当てそうになりやめた。踊る場所はこの部屋ではない。

 青い郵便鞄へ手が伸びた。


 いつもの癖だった。代わりに財布と手巾だけ入る小さな私物の袋を持つ。橙の肩掛けは畳んで置いた。自分が郵便士でなくなるわけではないのに、役目の分かる物を外すと、何の用で外へ出る人なのか、自分へ問い直されるようだった。

 踊りに行く。


 口の中で言ってみたら、ひとりの部屋なのに頬が熱くなった。


 廊下の端で、ナギが待っていた。

 洗った襟シャツに藍の上着。青黒い髪は水で整えたのか、いつもより額がよく見えた。仕事の時に折っている袖が下りていて、それだけで腕の長さが少し違って見える。工具袋は持っていなかった。


 彼がリコを見て、言葉を出す前に姿勢を直した。リコも同じように背を伸ばしてしまう。礼をするにはまだ早い気がして、二人ともその場で止まった。


挿絵(By みてみん)


「支度、できた?」


 ナギが尋ねた。


「できた。ナギも、できてるね」

「……見てのとおり」


 言った本人が笑ったので、リコもようやく笑えた。


「その袖、下ろしてるの初めてじゃないのに、初めてみたい」

「今日は、油を付けたくないから」

「それだけ?」


 彼は自分の袖を見て、それから彼女へ視線を戻した。


「揃えておきたかった」


 リコは頷いた。何を揃えたかったのかを、聞き直さなかった。

 出る前に、夜番の女性へポルの籠を渡した。日中の担当との引継ぎは済んでいる。追加の預かり料を用意した私費で払い、水と端布の場所を確認した。ポルは籠の中で丸くなり、橙の耳を一度だけ動かした。ナギが覗き込むと、鼻先を布へ押しつける。


「もう寝るつもりかな」

「私たちは、これからなのに」


 女性が小さく笑い、二人へ行ってらっしゃいと言った。


 広場へ向かう道には、同じ方へ歩く人が増えていた。

 新しい靴を少し慎重に運ぶ人。普段の上着へ、襟元だけ明るい布を当てた人。昼に見る時より背中が伸びている人も、いつもと変わらない足取りの人もいる。リコは、どこかで配った案内を持っている手を見つけたが、渡したのは私ですとは言わなかった。


 ナギと並ぶ幅を、服の裾の分だけ少し広げる。何度も歩いた道なのに、手車を通せる隙間を探さなくてよい。知っている店の窓に二人が映ると、リコは見たい気持ちと見られたくない気持ちの間で視線を迷わせた。


 会場の入口には、あらかじめ案内された利用料が掲示されていた。それぞれ八リンを払い、客の札を受け取る。受付の人はリコの顔を見覚えていたらしく、さっきはどうもと言ったが、受領控えの場所を尋ねたりはしなかった。


「こちらからどうぞ。上着を預けるなら右手へ」

「ありがとう」


 リコは客の声で返事をした。

 舞踏会の広場へ一歩入ると、夕方の空の色と、布の光の色が重なっていた。糸の筋から放たれる明るさは空そのものほど強くない。その代わり、人が動くたびに近くで形を変えた。棚に畳まれていた光が、今日は人の肩や背へ渡っている。


 最初の曲の前に、二人は端の席で水を飲んだ。

 宿で軽く食べておけばよかったと思うほど、焼いた生地の匂いが近くからしていた。けれどリコが顔を向けると、ナギは同じ方を見ている。


「踊ってから?」

「その方が、落とさないと思う」


 彼は帯ではなく自分の上着を見て言った。リコは頷き、しばらく水だけで我慢することにした。舞踏会へ来たから空腹まで上品になるわけではなかった。

 楽器を置いた場所の後ろには、昼の間に片付けられていた薄い布が、幾重にも掛かっていた。風が通ると、向こうの人影が見えたり隠れたりする。舞台を壁で閉じてしまわず、空の色まで背景に入れるらしかった。


 調弦している人が一本の音を鳴らすと、リコの隣の席で、膝の上の指が動いた。見知らぬ男性だった。指はしばらく音を追い、間違ったところで止まる。連れの女性がそれを見つけ、もう一度と、自分の手を膝へ載せた。二人は座ったまま、短い曲を指で分け合っている。


 リコは面白くて見ていたが、目が合うと少し慌てた。男性は隠さず、次の二音を弾く真似をした。リコが自分の指で続けると、一音余った。ナギも同じ余った音を二度叩いたので、女性が声を上げて笑う。


「それじゃ、長くなっちゃう」


 知り合いではない四人の間に、短い曲が一つ出来た。席を立ったら名前も覚えていないままかもしれない。それでもリコは、ここへ入ってから張っていた肩を少し下ろせた。

 ナギが水を一口飲み、器を膝に置く。


「今のなら、足を間違えないね」

「指は間違えたけど」


 彼が笑う顔を、リコは近くで見た。明日も仕事で会う人なのに、今日は笑わせたのが少し嬉しい。

 向かいの椅子に、ハナエが腰を下ろした。青灰色の上着の左袖口は整い、襟には本人の選んだ折り目がある。手を振り合うと、彼女はリコへ、今日はよく見えるわね、と言った。


「何がですか」

「顔。いつも鞄の中か、紙を見ていたから」


 リコはそうだったのかと笑った。ハナエはそれ以上話し相手をこちらへ固定せず、隣の席の女性へ空いているか尋ね、少し椅子を近づけた。誰と話すかも、今日は本人の時間だった。


 ユラが入口へ現れた時、リコはすぐに見つけた。葡萄色の光が足元へ流れ、灰色の組紐が動きの端をくっきり区切っている。いつもの短い黒髪はそのままで、インクの付いた袖は今日はなかった。彼女はリコに一度回って見せようとして、後ろに人がいたのに気づき、片手だけを上げた。


「あとで!」


 その声に、今日は待つのも楽しいとリコは思った。


 貸衣装の紹介が始まった。

 十二人が二つの列になり、金色と桃色をまとって進む。広場の床を照らす普通の灯りは残され、その上へ衣装の細い光が重なった。腕が上がると金色が開き、体が向きを変えると桃色が裏へ回る。下見の時、何もない床に立っていた男性が、今は金色の列で顔を上げている。


 リコは拍手した。揃った景色を見たいと思った最初の気持ちが、ちゃんとここへ届いていた。ナギも隣で手を叩いている。自分たちの服が違うからといって、その美しさから離れた場所へ置かれたようには感じなかった。


 列の一人が礼の時に少し早く屈み、隣が半拍遅れてついていった。糸の光まで順に傾く。ぴたりと揃わない所で、リコはかえって一人一人の顔を見た。見せる人も楽しんでいる。短い紹介の曲が終わると、広場のあちこちから拍手が上がった。


 係員が紹介の列のための間隔を解き、自由に踊る曲の案内をした。光の衣装を着た人がそのまま相手を待つ横へ、落ち着いた色の上着が入り始める。ハナエは席で一曲見ていると隣へ話し、ユラは連れの人と空いた方へ歩いた。誰も一つの列へ並び直させなかった。

 その時、イリスが入口から入ってきた。


 薄灰色の長い裾に、葡萄の皮の内側のような赤みが差している。客へ当てる布とは違い、今日は彼女の動きに沿って揺れた。肩の薄いショールを直す仕草は店と同じだったが、手には採寸の紐も注文札もなかった。

 目が合うと、リコは手を振った。イリスはすぐ近くまで来て、青い帯を一度見た。


「その位置にしたのね」

「はい。座っても、ちょうどいいです」

「ええ。よく分かるわ」


 イリスの目がリコの顔に戻り、微笑んだ。彼女は知人へ挨拶するため、広場の端へ向かった。招いた相手がもう来ているか、リコからは分からなかった。

 楽器が次の曲の音を合わせた。


 ナギが水の器を返しに行き、戻ってきた。もう一度仕事があるか確かめる顔ではなかった。リコも客の札を私物の袋へしまう。二人の間には、これからすることだけが残った。


「約束の、一曲」


 彼女が言うと、ナギが頷いた。


「うん。行こう」


 広場の灯りの中へ、二人並んで歩いた。


二人の距離が縮んできましたね

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