20. あなたと一曲、踊りたい
十五時半。
リコは翌日の担当表に記された数字を読み、受領の欄からもう一度そこへ戻った。店から会場へ届ける衣装は、午後の決められた枠で搬入する。受取担当が品と控えを確かめたら、二人の仕事はそこで終わる。以後の連絡を受けるのは会場の担当と現地局だった。
「当日の変更があれば、今ここに書いた窓口へ。二人を広場で探すことにはしません」
現地局の担当者が言い、タエの控えにも同じ数字を書き入れた。リコは相手の名前を復唱した。仕事を終えたあとに予定を入れたいと申し出るのは、配属された頃よりずっと言いやすくなっていた。それでも、何の予定かまでは聞かれていないのに、顔が熱くなりそうだった。
今日は貸衣装の三箱が着く。そちらの受取りは会場側の保管担当が行い、リコたちは割り当てられた別の荷を回る。何もかも自分で見届けなければ、明日遊びに行けないわけではなかった。
ナギは表を折り、手帳へ挟んだ。
「これなら、宿へ戻ってから来られるね」
「うん」
それから彼が何か言うかと、リコは一瞬待った。ナギは鞄を肩へ掛け直しただけだった。時刻が決まれば、その次のことも自然に決まるようなつもりでいた自分に、少し腹が立つ。自然に決まるまで待つなら、これからも二人で時刻ばかり確かめ続けられそうだった。
午前の配送は、いつもの順に進んだ。
見覚えのある窓から手が伸び、空になった糸の箱を返してくる。戸口に受取人の姿がなければ、勝手に隣へ預けず、決められた連絡先を確かめる。リコが覚えた町は、舞踏会の前日にも普通に品を待っていた。
最後の工房で少し待つことになった。ナギが荷台の傍へ立ち、リコは受取人が手を洗う音を聞いていた。店の奥に小さな鏡が掛かっている。自分の顔が細く映っているのに気づき、目を逸らした。仕事の顔と、明日のことを考える顔を、器用に替えられるものでもない。
「何か、付いてる?」
ナギが鏡を見た。
「付いてない」
「そう」
彼は念のため自分の頬を袖で拭いた。リコは笑ってしまい、違うのに、と言った。
「何が?」
「あとで話す」
そう口に出すと、あとで、という場所が一つ出来た。消してしまわないよう、リコは受領した控えを鞄へ収めた。
午後の担当を終えて店へ向かう道で、ナギがさっきの話を尋ねた。覚えていたのだと驚くほど、自分では何度も言う練習をしていた。
通りの端には、布を運び終えた手車が寄せてある。そこを避ければ二人並んで立てた。リコは足を止め、青い鞄の紐を肩から少し浮かせて持ち直す。重くもないのに、落ち着く位置が見つからない。
「明日の舞踏会」
「うん」
「ナギと、一曲踊りたい」
そこで息が切れた。練習をしたから、と続けそうになる。仕事のあとの時間が二人とも空いているから、という理由もある。どちらも間違いではないが、そのために彼を選んだのではなかった。
「一緒に踊ってくれる?」
ナギはリコを見た。驚いた顔ではなく、何かを確かめるような顔だった。彼の口が開くまでの間、通りの向こうで布の竿を片付ける音が二度した。リコは、その二度をいつまでも覚えていそうだと思った。
「僕も、リコと踊りたい」
言ったあと、ナギは少しだけ息を吐いた。
「あの練習の続きを、本番でやってみたかった」
リコは頷いた。それだけではあまり嬉しくなさそうに見えるだろうと思い、もう一度、今度は返事をした。
「私も。練習だからって言わないで、誘いたかった」
「今日は言わなかったね」
「すごく言いそうだった」
ナギが笑った。リコも笑うと、ようやく足の裏に通りの固さが戻ってきた。二人が急に違う人になるわけではない。鞄も、彼の工具袋も、今日の埃を付けたままだった。それなのに明日の一曲が、仕事の隙間に置いた予定とは違うものになっていた。
「紹介が終わったあとの曲で、いい?」
「うん。着替えて、客の入口で会おう」
「宿から一緒に行けるよね」
ナギが言い直すと、リコはつい笑った。先に別々の入口へ辿り着く想像をしていたらしい。宿の廊下の端で待ち合わせ、一緒に歩くことにした。遅れた時に慌てて走らなくて済むよう、出る時刻にも少し余裕を置く。
言いたいことが言えたあとで話す時刻のことは、不思議なくらい楽だった。
宵のひだでは、イリスがユラの衣装の組紐を確かめていた。新しく縫い留めた灰色の線が、葡萄色の裾に沿っている。明日の朝、本人が最後に試してから受け取る予定だった。
「明日の搬入、十五時半までに受領確認を終える枠になりました」
リコが仕事の報告をすると、イリスは注文表と合わせた。それが済んでから、リコは棚を指した。
「あの帯を買いたいです。最初に当てた、青い方」
イリスは一度彼女を見て、見本を出した。細い橙の縁が深い青を区切っている。何度か棚にあるか確かめていたから、手に載せた時には、久しぶりというより、やっと持った感じがした。
「二十八リン。必要な長さで作る分を含めて、前にお話ししたとおりです」
「はい」
「服へ合わせてからでいいわよ」
手持ちの生成りのワンピースは、宿で洗って乾かしてあった。リコは仕事の荷を置き、一度取りに戻ることにした。ナギは先に宿へ戻るので、一緒の道を歩く。さっき約束をしたばかりなのに、どちらもそのことへ触れなかった。照れなくなったわけではない。ただ、触れなくても約束が消えないと分かっていた。
宿の担当女性へ、明日の夜にポルを預かる相談をした。夜番の人が受けられる時間と、追加の料金を二人で確かめる。籠はいつものものを使い、水と寝床の端布も渡す。昼から夜まで一人に任せたことにはせず、日中の担当との引継ぎをお願いした。
「帰ったら、声をかけて。寝ていたら籠ごと静かに運べばいいから」
女性が言うと、リコは二人の私費から料金を用意した。ポルは今、その籠の端で、許された布を前足に抱えていた。人が一曲の約束をしたくらいでは、暮らしを変えられるはずもない。ナギが水皿を整えると、丸い白い体がわずかに向きを変えた。
「こっちの支度は早いね」とリコが言った。
「着替えがないから」
「ナギは?」
「洗った襟シャツと、藍の上着。いつものだけど」
「見たい」
言葉が先に出て、二人の間が静かになった。リコは服のこと、と付け足さず、ワンピースを取りに自分の部屋へ向かった。
部屋で畳んだ服を広げると、荷造りの時にはただの予備だった一着が、明日着る服になった。リコは窓へ掛け、裾に指を通してみた。ここへ青を一筋添える。その想像だけで、何度も同じ所を撫でてしまう。
財布を机に出し、仕事で預かった金が入る袋とは離して置く。二十八リンのほかに、入場の八リンと夜番へ払う分も要る。帰り道に菓子を幾つも買うつもりで残した金は、少し減らすことにした。減るのが惜しくないわけではない。けれど今日は、帯を買わなかった自分より、買って腰へ結んだ自分を見たかった。
母への書きかけの手紙が、机の隅にあった。配達の道と、織町の食べ物まで書いてある。その下へ、明日は舞踏会へ行く、と足した。誰と踊るかまで書くと、母がどんな顔で読むか想像してしまう。リコはペンを置き、インクが乾くのを待った。書くか書かないかは、明日帰ってから決めてもよい。
戸を開ける前に、服の包みを一度抱え直した。大切な荷を届けに行く時と似た動きだったが、今回は受け取るのも自分だった。
店へ戻ると、イリスは短い時間を空けて待っていてくれた。
リコは仕切りの内側で着替え、仕事の肩掛けを畳んだ。生成りの布は、旅のために詰めた時の折り筋が少し残っている。店で見た新作のような艶はない。鏡の前へ立つと、自分の髪の栗色がいつもより近く感じられた。
イリスは青い帯を腰へ当て、鏡を通して尋ねた。
「この高さで、いい?」
「もう少し、下が好きです」
指一本ほど下げると、上半身の生成りが少し長く見えた。深い青が、自分の体のどこにあってほしいかを選ぶ。採寸の数字だけでは決まらないところへ、自分の返事が要った。
「結び目は前?」
「脇へ寄せたいです。手に当たらない方」
「踊る時にもね」
イリスの口元が上がったが、それ以上は聞かなかった。リコは訊いてもらったら話すつもりだったのに、その気遣いに今度は少しもの足りなくなる。
「誘いました」
自分から言った。
イリスは帯を持つ手を止めなかった。
「そう。返事は?」
「一緒に踊りたいって」
「よかったわ」
その一言を、今日はそのまま受け取れた。リコは鏡を見る。嬉しいという顔を隠そうとすると、顔のどこもかしこも余計に動いてしまう。イリスが長さを決めた印を付ける間、彼女は笑うに任せた。
端の処理を待つ間は普段の服へ戻り、店の椅子へ座った。窓の風は少し涼しかった。イリスは取り決めた時間の中で仕上げ、ほかの注文の縫い糸を勝手に後回しにはしない。リコも針山や札へ手を伸ばさず、買った物を待つ客の席にいた。
呼ばれて再び鏡の前へ出ると、帯は自分の腰の長さになっていた。二十八リンを自分の財布から払い、受け取った控えを私物の方へしまう。仕事の領収書と間違えないようにしただけなのに、少し誇らしかった。
「襟が片側だけ内へ入っているわ。直してもいい?」
イリスの問いに頷くと、布の縁が指先で軽く引き出された。触れていた時間はほんのわずかで、そのあと彼女は鏡の前を空けた。
リコは一歩下がった。横から見て、もう一度正面へ戻る。帯は光らず、外の空が暗くなっても深い青のままだった。細い橙の線は、歩くたび結び目の先で少しずつ角度を変えた。
裾をそっと揺らした。誰かに見せるためというより、自分がそうしたかった。もう一度揺らすと、思っていたより長く布が動いた。
「これ、好きです」
鏡の中のリコが言った。




