18. 空いた窓にも風が来る
イリスが売上の箱から硬貨を出していた。
窓の下へ光が戻った朝だったが、店の小さな織機はまだ動いていない。リコが初めて来た時から、木枠の下の踏み板だけが少し斜めに見えた。壊れていると断じるほどのものではなく、使うと時々、途中で重くなると聞いていた。
「四十八リン」
イリスは硬貨を数え、紙に包む。今日来る職人の調整料と、見積もられた小さな交換部品の代金だった。昨日のうちに依頼を決めてあり、リコが到着した時には、店の予約からその時間が外されていた。
「あの取りやめになった枠、ですね」
「ええ。埋め直す前に使わせてもらうの」
布を補修する注文が取消になった白い欄には、今日は人の名が入っている。納品を早くしてほしい客を、もう一人そこへ受けることもできたのだろう。リコがそう思っていると、イリスは箱の残りを見て蓋をした。払うのが惜しくない顔ではなかった。
そこへ、袖の釦を直してもらったという客が来た。先日払った分の受取りは済んでおり、今日はついでに裾の小さなほつれも見てほしいと言う。広げてみれば短い箇所だった。
「針を出しているついでに、ここも。すぐでしょう」
穏やかな声だった。悪く思って言っていないのが、リコにも分かった。イリスはほつれを見てから、今日の作業に加えるなら料金が要ると答えた。
「この前のと一緒にはならない?」
「先日の分は、釦の付け直しでいただいています。こちらは一度縫い目を開き、糸が弱っている範囲を確かめたいの」
客は口を閉じた。店の空気が、ほんの少し硬くなる。リコは自分が縫えるなら、と考えかけた。縫えないから助けられないのではなく、誰が縫っても仕事の時間は必要だった。
イリスは、今日は見積だけにして持ち帰ってもよいと付け加えた。客は少し考え、舞踏会が終わってから預けることにした。急ぎでないなら、その方がよいという本人の判断だった。それでも戸が閉まる時、二人の声は最初ほど柔らかくはなかった。
「嫌な言い方だったかしら」
イリスが小さく尋ねた。
「……そうは、聞こえませんでした」
リコはすぐに相手が納得したとまでは言えなかった。イリスも返事をもう一つ求めず、調整料の包みを会計の引出しへしまった。
待つ間、イリスは織機の脇に挟んでいた細い見本を外した。同じ幅の布が三枚、片端だけ波打っている。
「こういう小さなものなら、何度か試せば合わせられたから」
彼女は親指で波を伸ばした。指を離せば元に戻る。リコは、その試す時間が昨日の表に書いてなかったことに気づいた。仕事の途中へ紛れ込み、済んだら何も残らない種類の時間だった。
「もっと前に頼めたのかもしれないわね」
「でも、今日、頼めました」
口に出してから、その返事で惜しさまで塞いでしまいそうだと思った。イリスは頷くだけだった。リコは見本を畳まず、職人に見せられるよう平らに並べた。何度も試した物があれば、今日どこから始めるか分かるかもしれない。
扉のベルが鳴ると、イリスは一度だけ深く息を吐き、迎えに立った。お金を払えば何も案じなくてよくなるのではないのだと、リコはその後ろ姿を見た。
来た職人は、白髪を短く刈った年配の女性だった。胸元に布の巻尺を下げ、木の薄い箱を片腕で抱えている。補修工房のコウから紹介を受けた人だとイリスが迎えた。女性は挨拶が終わると、織機を動かす前に普段どこが重くなるか尋ねた。
「いつもではなくて、この辺り。急いでいる時ほど引っかかるの」
「急いでいない時の動きを、見せて」
イリスはゆっくり踏み板を押した。木枠の内側で、縦糸を分ける細い枠が上がる。張ってある糸を交互に持ち上げ、その隙間へ横糸を通して一枚の布にする仕組みだった。足で枠を動かし、手で糸を渡す。今は途中で片側が止まり、力を足すと追いついた。カタンという音が、少し遅れて二つ重なった。
ナギは手を出さず、横からその動きを見ていた。彼の工具袋は閉じたままだった。職人に船の整備をしていると伝えてから、外側の取付けを見せてもらってよいか尋ねた。
「枠を持つ木部は見られます。糸の上がる順と、この調整は、僕には判断できません」
年配の職人は彼を一度見て、頷いた。
「台の緩みは、一緒に見よう。ここから中は、織り方に合う順があるから」
部品を外す前に、イリスが掛かっていた試しの糸と見本を退けた。通路へ部品が出ないよう、リコは空いた敷布を台の脇へ用意する。船の修理ならナギへ全部任せられると思っていた自分が、店では職人の手元ばかり見ていた。
女性は摩耗した小さな連結部を、持参した見本と並べた。片方だけ穴の縁が丸く減っている。ナギは顔を近づけ、触ってよいと聞いてから持ち上げた。
「ここを詰めたら、ほかが先に上がる?」
「そう。だから、重い所だけ滑らかにすればいいとも限らない」
彼は質問をもう一つした。リコには用語の半分しか分からなかったが、分からないと告げるナギの声は聞き取れた。手を貸せる範囲が小さくても、そこで彼が小さくなるわけではない。職人は見本部品を使って答え、彼へ外側の留め具を渡した。
リコはその間に、窓辺の荷物をイリスの指示どおり移した。手を伸ばせば届く棚にまとめてあった、今は使わない紙の芯と、空の包み。窓を開けるのに避ける物が多く、採光のための窓なのに、人が近づく場所が細くなっていた。
「ここへ、椅子を置いてもいいですか」
イリスは手を止め、通路と台の幅を見た。
「針を持って通る時に、背へ当たらない位置なら」
リコは椅子の脚を置き、店の入口から作業台まで一度歩いた。客が座った膝を思い浮かべ、もう少し窓へ寄せる。自分が座ると、風は首の後ろをゆっくり通った。舞踏会の帰りまで夜が暑いのではと案じていたが、季節は少し進んでいる。
昼近く、昨日光の仕上げを待つと決めた客が、連絡日を自分の控えへ書き直してもらいに寄った。急がせに来たのではなく、持ち帰った紙の数字を一つ読み違えたかもしれない、と気になったらしい。
リコは控えを並べ、次に連絡する日と、受け取れると確定した日が別であることを伝えた。客は分かったと言い、織機の作業が続く横で少し待った。
「あの椅子、座ってもいいかな」
「どうぞ」
リコが答えるより早く、イリスが言った。最初に店主へ座ってもらうつもりだったので、リコは少しだけ拍子を外された。それでも客が腰を下ろすと、椅子はそこに必要だった物らしく見えた。膝に帽子を載せ、窓からの風を額に当てている。
イリスがもう一脚を奥から出した。リコが受け取ろうとすると、そのまま自分で窓へ運ぶ。
「最初に座る権利まで、予約してなかったわね」
「そのつもり、だったんですけど」
「私も一緒に座ればいいのよ」
隣り合うには少し狭いので、斜めにして座った。二人の間へ小さな台を差し込む場所まではなく、イリスは湯飲みを自分の手で持った。客は外の雲を見ながら、昨日ほど厚くないと話す。イリスはそれでも布を見てから返事をすると答えた。
リコは立ったまま、自分にも椅子を勧められるのを待っていた。期待に気づき、可笑しくなった。接客台の脇には別の座れる場所がある。彼女はそこへ行き、持ってきた昼のパンを袋から出した。ナギは職人と区切りを相談し、手を洗って隣へ腰を下ろした。
「見てると、やりたくなる?」
リコが尋ねると、彼はパンを割る前に少し考えた。
「なる。でも、今やっていいかは別」
「やっていい所、あったね」
「脚の方。あそこが揺れたら、中だけ直しても残るから」
彼は嬉しそうだった。難しい部分を任されなくて残念、という顔を予想していたので、リコはまた自分の勝手な見立てに気づいた。パンの端を折って、皿の上へ寄せる。
年配の職人も持参の昼食を出し、作業はしばらく止まった。店の外を荷車が通る。止めている機械のそばで人が食べている景色は、誰も急いでいないからといって、働いていない景色には見えなかった。
午後の確認で、二つに分かれていた音が近づいた。
イリスは試しの糸を掛け直し、小さな帯状の見本を織った。店の補修や意匠のための織機だから、大きな布が一度に出来るわけではない。リコの手の幅ほどの織り目が、少しずつ生まれる。光のない糸でも、前後に渡るたび面が変わって見えた。
「まだ、こちらへ力が寄る癖は残っているね」
職人が言った。イリスは二度踏み直し、体を機械の正面へ戻した。長く重いところを避けて使っていた手が、直した後の動きへすぐには戻らないのだった。
ナギが確かめたのは台の留め具と、脚の揺れだけだった。内側の調整は職人が記し、次に同じ重さが出た時は無理に踏まず連絡するよう、イリスへ伝えた。後日すべてを一人で再現できると、彼は言わなかった。
イリスは四十八リンの包みを渡し、領収の紙を売上の帳面へ挟んだ。仕事が一つ片付いて、箱の中の金は減る。リコの目がついそちらへ行くと、イリスは隠さず蓋を閉めた。
「この布を何枚織ったら戻るか、考えるのは私の方ね」
そこで笑ったが、冗談にして消せる数字ではないのだろう。注文を断った朝の顔も、リコは覚えている。今日ここへ金を使ったことを、誰にでも褒めてもらえるわけではなかった。
職人が去ったあと、イリスは試し織りを外した。端の揃いを眺め、明日の見本にすると札を付ける。仕上げ台の予約までまだ少しあったので、窓辺の椅子へ腰を下ろした。
リコは台の隅から、道具箱を持ち上げようとしたナギへ声をかけた。
「その前に、座らない?」
「ここに?」
「ここ以外でもいいけど」
彼は店の中を見回し、接客台の脇へ工具袋を置いて、昼に使った椅子を引いた。リコが隣へ座ると、窓から入った風が一拍遅れて届く。イリスの肩のショールの端が、椅子の背でそっと持ち上がった。
「明日は広場の条件が決まるのよね」
リコは頷いた。決まれば伝える場所が幾つもある。その前にナギへ言いたいこともあった。だが今は、彼が持ってきた試し織りを二人で覗き込む。青い糸が一本だけ違う所を通っている。
「そこは、私」とイリスが言った。
織機を調整したあとの最初の見本で、店主が糸を一本取り違えていた。彼女はほどきに戻らず、脚を楽な位置へ伸ばした。
「休んでから直すわ」




