16. 直さないところを決める
休みの日のハナエは、袖を下ろしていた。
昼の約束に合わせ、ハナエが宵のひだの戸口へ現れた。灰の混じった髪をいつもの丸い形に留めていたが、手には桶も帳面もない。市場で買ったらしい細長いパンを、布袋の口から覗かせている。いつも働く姿を見ていたせいで、リコは挨拶に「お疲れさまです」と言いかけ、途中でこんにちは、と言い直した。
「今日は、休み」
気づいたハナエが笑った。
「はい。お待ちしていました」
「ここへ来る前に、焼きたてが買えたの。帰りは反対の通りを見ていくつもり」
リコは預かっていた包みを接客台へ置いた。イリスが汚れのつかない敷布を広げる。昨日整理した表にも、この昼の試着と夕方の受取を動かさず残してあった。ナギは船の点検で別行動だった。
古い青灰色の上着を出すと、ハナエはまず右の袖へ腕を通した。そこは手を加えていない。次いで直した左側へ手を入れ、指先で縁を撫でた。まだ最後の仕上げをする前なので、イリスが仮止めの位置を確かめながら肩へ布を落ち着かせる。
「左、上げてもいい?」
「ええ。いつもの動きでお願いします」
ハナエは持ってきた紐で袖を上げ、腕を前へ伸ばした。桶を押すように手を動かし、次に肘を曲げる。リコは一緒に左腕を動かしかけて、膝の上に戻した。自分が動けるかを調べているのではない。
「ここが、もう引っかからない」
彼女は肘の内側へ軽く触れた。
「よかった。少し手首を回せますか」
ハナエは手を二度回し、鏡の前で横を向いた。仕切りの向こうでは別の客が布見本を選んでいる。洗い場なら声をかけられるたび仕事の方へ向きそうだと、本人がここでの試着を選んでいた。今は自分の肘を確かめる時間があった。
「代わりのは丈夫だけど、これより肩が張るのよ」
遅れた間のことを、リコは聞いていた。着る物がなくて働けなかったわけではない。その事実に甘えたくなった時の後ろめたさも残っている。彼女がもう一度謝る前に、ハナエは袖の紐をほどいた。
「今日は買物だけだしね。下ろして歩いてみる」
腕に沿って布が落ちた。新しい左袖口は整い、右側は使われた柔らかさを持っている。どちらかだけを隠す必要がないように、ハナエは手を体の脇へ下ろした。
リコは、襟の折り目へ目が行った。長く同じ位置で折られた筋が一本、右側へ浅く伸びている。袖が整った分だけそこが目立つ。綺麗にするなら、最後にそこも伸ばすのだろうと思っていた。
イリスが聞いた。
「襟の折り目は、どうしましょう。触って確かめても?」
了承を得て指を添える。ハナエは小さく頷いた。
「ここが首へ当たらないの。寝かせ直すと、初めのうちは落ち着かなくて」
それから少し間を置き、笑いも説明も付けずに言った。
「それに、この形が好き。このまま残してほしい」
リコは自分の橙色の肩掛けに触れた。使い込んだ縁は手に馴染み、洗って干したばかりの日より、二日目のほうがうまく首に掛かる。その感覚を知っていて、人の服だと目立つ筋を直す場所に数えていた。
「私、伸ばすものだと思ってました」
「伸びているのが好きな人もいるでしょ」
ハナエはそう答え、布袋からパンの端を押し込んだ。リコの勘違いを、大切な話の入口にはしなかった。襟が好きな理由をもっと知れば、上着までよく分かるような気がしたが、その続きを求めるのは配達ではない。
注文の控えに、左袖口の動きを確認、右袖はそのまま、と書いた。その下へ、襟の折り目を残すという今日の希望を加える。袖口を直す注文だけでは分からなかったことが、本人の一言で紙に増えた。
最後の縫い留めが済む夕方の短い受取時間にハナエが寄る約束を、もう一度確かめた。彼女は買物のあとで一度家へ戻るつもりだと言う。リコは遠回りにしてしまわないか尋ねたが、本人は夕方に近いほうが涼しいから、その時間でよいと答えた。
「舞踏会も、この上着ですか」
「そのつもり。仕事場じゃない所で着ると、どう見えるかしら」
リコは似合うと言おうとして、まだその景色を見ていないことに気づいた。それでも、想像するのは嬉しかった。
「袖を結ばないところ、今日初めてちゃんと見ました」
「この袖も、たまには休みよ」
ハナエは紐を自分の袋へしまった。
ハナエが買物へ出たあと、リコも店を出て、許可された一件の引渡しを済ませた。封済みの包みを受取人へ渡し、札の名と実際の受領を確かめる。そのあと店へ戻る途中、淡い土色の上着を腕へ掛けた女性に声をかけられた。昨日、窓口が短くなると聞いて、早めに来たのだという。
「これくらいのものなら、すぐ染まりますか」
リコは、自分は郵便の者なので、店で確かめてほしいと答えた。女の人は恥ずかしそうな顔をしたが、責められたとは思わなかったようで、並んで歩き出した。上着はハナエのものとよく似た丈だった。脇がほつれてはいないか、持ち主は道の途中でも時々裏を返している。
「今の色、もう分からなくなるくらいにしたいの」
リコは反射的にその布を見た。柔らかい土色は、今日の空によく合っていた。
「この色も」と言ってから、言葉を飲み込んだ。
「え?」
「いえ。どんな色にしたいんですか」
「赤。暗い所でも赤と分かるような」
女性はすぐ答え、言ってしまってから、派手すぎるかしら、と笑った。リコは首を振った。さっきハナエの希望を聞いたばかりで、今度はその答えを別の人へ持っていくところだった。
店へ入ると、女の人はイリスの差し出した椅子へ座り、上着を膝へ広げた。イリスは触ってよいかを尋ね、縫い目の内側と表側の色を比べる。リコには同じ薄茶に見える所にも、日を浴びた面とそうでない面の違いがあった。
「この布なら赤くできるかもしれません。ただ、下の色が残って、見本と同じ明るさにならない可能性があります」
「もっと濃ければ?」
「濃くすれば何でも隠せる、とはお約束できないの。縫い糸だけ違う色に残ることもあるので、目立たない所で試させてください」
コウの工房へ出す試しの費用と、その後の染め直しを分けて説明した。着たい日は翌月なので、今週の舞踏会に間に合わせる注文ではない。それが分かると、イリスも肩を少し下ろし、赤い見本を三つ出した。
女性は一番明るいものへ手を伸ばした。すぐ隣の深い赤へ移し、また戻る。その間、リコはどれも綺麗ですねと口を挟みたくなった。手を止められるのが嫌なのか、決めるのを待ってもらいたいのか、自分にはまだ分からない。
「一度、離れて見ても?」
女の人が尋ねたので、リコは見本を持つ役になった。窓から差す光を背にせず、胸の前へ三つ並べる。相手が片目を細めると、買物のついでの軽さが消えた。
「真ん中。明るい方へ行きたいけど、これが好きだわ」
「では、この赤を目標に試しましょう」
イリスが採る小片の位置を示すと、女性はそこもきちんと見て頷いた。リコは上着が変わる理由を知らないまま、新しい注文の行を作った。
女の人は代金の一部を置く前に、財布の中を確かめた。折った買物の紙と、小さな硬貨を三つ脇へ分ける。
「試して、気に入らなかったら、そこでやめてもいいんですね」
「ええ。試しにかかった分だけいただきます。本染めに進む返事を待ちます」
聞き直してから払う人を、リコは急かしたくなかった。思い切って赤を選ぶ時の顔と、硬貨を数える顔は、同じ人のものだった。イリスは今預かる分を控えに書き、その上へ本染め未了承と記す。
女の人が出ていく時、リコは母が初めてミナト輪へ行った時の話を思い出した。島では買えない赤い靴。少し大きくて、布を入れて帰ったと、母は笑っていた。使いやすい靴を選ばなかったことまで含めて、母の買物だった。
「赤、見に来てもいいですか」
思わず聞くと、女の人は一瞬だけ驚いたあと、出来たら着てくるわ、と答えた。見たいと思ったのは仕事の確認のためではなかった。
客が帰ってから、イリスはハナエの青灰色と、今預かった土色の上着を作業台へ並べた。片方には、襟を押さえ直さない札。片方には、試染めの了承を得た札。同じくらいの大きさの襟が、別の方向を向いている。
「この色もいいのにって、私、言いそうになったんです」
リコが話すと、イリスは土色の上着のポケットを確認しながら、そうね、とだけ返した。
「変えたあとの顔を、まだ見たことがないからね」
「イリスさんでも?」
「お客さまが鏡の前で驚くと、私も驚くわ。縫ったのは私なのに」
袖に入っていた小さな紙片を見つけ、次に本人が来るまで分けて保管する。中に何が書かれているのかは、リコからは見えなかった。イリスはそのまま小袋へ入れ、預り物の札へ記した。
ハナエの上着へ最後の針を入れる間、リコは返信や受領控えを片付けた。布の赤を見比べたばかりなので、注文表の赤い印ばかり目へ入る。自分ならどんな服を頼みたいだろう。あの深い青の帯を、まだ買っていない。手持ちの生成りの服なら、新しく一着を仕立てるよりずっと手が届く。値札の数字も覚えていたが、それを買ってどこへ行くかを考えると、鉛筆の先が止まった。
窓の外を、点検から戻ったナギが通った。扉を開けて、店へ預けていた自分の荷だけを取りに来る。リコが立つと、彼は机の紙を見て、終わりそうかと聞いた。
「あと一件の受領で」
「じゃあ、宿で。ポルの水は替えておく」
彼の背が戸口から消えてから、リコは口を開きかけていたことに気づいた。一曲のことでも、帯のことでもなく、ただ少し待っていて、と言いたかった。しかしその少しで何を話すかは決まっていない。
約束した時刻にハナエが来た。仕上がった袖をもう一度通し、留めを指で確かめてから料金を支払う。リコは受領の印をもらい、今度こそ一件を閉じた。ハナエは包まなくてよいと言って、その場で上着を着た。
「紐は今日は、使わないから」
そう言った本人の手が、襟をいつもの折り目へ戻した。外は涼しくなり始めていた。リコが戸を押さえると、ハナエは店に並ぶ赤い見本へちらりと目を留める。
「ああいうのも、いいわね」
そして青灰色の袖を揺らし、買物の終わった通りへ出ていった。作業台には、これから色を変える上着が、まだ柔らかな土色のまま残っていた。




