15. 三つの時刻を書く
紙の上では、今日の午後が二度あった。
一枚には補修布の受取り、もう一枚には新作の裾の仕上げ。そのほかに接客の予約が二つある。リコは店の台で三枚を並べ、端に置いてあった重しを一つずつ載せた。紙が重ならなくなると、今度はその全部をどう見たらいいのか分からなくなった。
「場所を取るわね。正直な紙だこと」
イリスが言い、長い袖を肘の方へ滑らせた。彼女の手元には、前から使ってきた注文帳がある。客の肩の傾きや好む色はそこに詳しかったが、店で下地を始める時刻は配達の控えになかった。机の内側の作業札にあった文字を、リコも材料を運ぶ予定と結びつけなかった。
先日の遅れの控えを開くと、夕刻の受渡しだけがきれいに囲まれていた。そこは何度も見ている。ちゃんと確認したつもりの自分の筆跡だから、見るたびに胸のどこかが硬くなった。
「その控えを、閉じてもいい?」
イリスは答えを待った。リコが頷くと、過ぎた日の紙を横へ除け、新しい大判の紙を広げた。
「今日ここへ書くのは、まだ動かせるもの」
リコは鉛筆を持ち直した。縦に三つの欄を取る。客が使う時刻。作業を始める時刻。加工する場所で材料を受け取る時刻。店でする工程か、別の工房でする工程かも担当の名に添える。最初はこの順で書こうとして、届くのが先のほうが読みやすいか迷った。イリスは客の名が並ぶ左端を指で押さえた。
「尋ねる順は、人からでいい。並べる順は、使う人が決めましょう」
そこへ現地局から回された通常便の束が届いた。宛先を照らしてイリスへ渡す封筒と、二人の業務照会への返信とを分ける。ボンゴは昨夜、宿へ寄った二人に片付けた箱を見せ、今朝の便で帰ると言っていた。帰りの航路が空いていることと、こちらへ着く手紙の順は別である。彼へ渡して頼めば返事が早くなる、と考える必要もなかった。
リコ宛ての業務返信には、ミナト輪の仕分け担当ピッパの細い字で、大きな表を増やす前に一枚で試すこと、と書いてあった。下に三角の小紙を折った見本が付いている。変更が起きた行へ挟む目印で、色が分からなくても触って確認できた。
『直した人と、受け取って読み直した人の印は、別の場所に。消すのは両方がそろってから。昼食は欄外へ追い出さないでください』
最後の一行を読んで、リコは声を出して笑った。離れていても、誰の机から来たのか分かる紙だった。
しずく園の主催からの返事は、イリスが店の控えと突き合わせた。以前、梁へ掛かっていた細長い装飾布を、残せる中央部分から縁飾りへ作り直す案。それに記載した料金と、舞踏会の翌日の便へ引き渡す予定まで、了承の文が続いていた。旗にするもう一つの案を採るという記載はない。
「ここ、読んでくれる?」
イリスが紙を差し出したので、リコは業務の箇所を読んだ。残った白っぽい端は返してほしい。光の弱さが全部戻らなくても、元の筋を残したい。短い希望の後に担当者の名があった。
リコはしずく園の梁を思い出した。祭りの日、来客の頭上で光っていた布が、初めて見た時と違う形になってまた戻っていく。その景色を早く見たい。けれど今日、店に着いた返事の印を控えへ写すまでは、遮光棚の包みに手を付けなかった。
イリスが現物を出し、張りを失った端と、桃色から橙へ流れる中央を台に広げた。紙の型を置くと、長い一枚から残せる形が見える。見積りの時に示した範囲へ印を入れ、切る前にもう一度、依頼の紙へ視線を戻した。
「これで、始められる」
鋏の最初の音を、リコは妙にはっきり聞いた。待っていた間は閉じた包みだったものに、戻らない一歩が入る。慌てて嬉しそうな顔をするのは違うようで、彼女は片方の布が落ちないよう支えた。イリスは切り離した端を専用の袋へ納め、依頼主へ返す札を付けた。
「無駄になると思ってた?」
「少し。でも何に使うかは、まだ聞いてません」
「それでいいわ。残してほしいという注文だから」
新しい表に一行が増えた。発送の日、その前の確認、仕上げ台を使う時間。ナギは光の確認に使う見本を横へ置き、布を照らして比べる工程にだけ印を付けた。乾かす時間と、光を当てる時間を同じ余白へ押し込めなかった。
塩色の短髪の染め手コウが来た時、表はまだ半分しか埋まっていなかった。補修工房の濃紺の前掛けに、小さな湿りの跡がある。今日は別の注文で、仕立て直す前に彼の工房へ布を送り、色を整えてもらう段取りを相談する。コウは自分が材料を受け取る欄を読み、一本、鉛筆で線を引いた。
「到着してすぐ、下地を始められるように見える」
「始められませんか」
「袋を開けて、物を照らす。それから水を用意する。量が少なくてもそこは要る」
リコは到着欄を早めようとして、鉛筆を止めた。その時刻には現地局で別の荷の受領がある。
「この便の出発は早められません。前日受けでも、保管できますか」
コウは首を横に振った。今ある棚へ布を増やすと、別の乾いた布と分けられない。沈黙の間に、リコは自分が返事を探しても答えは増えないと知った。イリスが、その注文の客へ受取りを一日延ばす案と、今回は縁だけの補修にする案を尋ねる、と帳面へ記した。
「断られるかもしれませんね」とリコは言った。
「ええ。今日尋ねれば、あの方にも別を探す時間がある」
イリスは町内へ線のつながる電話のある店先へ向かい、同じ町にいる客へ連絡した。声は同じ島の有線の設備を通って届く。離れたしずく園やミナト輪へ、この受話器から直接話せるわけではなかった。そちらの返事は、今朝も船で運ばれてきた。
リコは台のそばに残った。受話口の向こうの声は聞こえない。イリスが何度か短く頷き、それから、分かりました、では取り消した分を精算しましょう、と言った。
戻ってきた時、イリスの手はさっきよりゆっくりしていた。
「その日のうちに、全部を着られるようにしたかったそうよ」
「私が夕方のあとで」
言いかけて、リコは口を閉じた。運べる時間を足しても、乾く時間は増えない。イリスは叱らず、取り消した行へ細く一本引いた。紙には空きが生まれた。空いたから得をしたと言う気にも、空いてしまって損ばかりだと言う気にもなれない、白さだった。
コウが、三日後なら店の小型織機を見る職人を紹介できる、とイリスへ話した。以前から気になる動きがあるらしい。彼女はその日を控え、まだ依頼は出さずに作業の残りを見直した。
新しい注文の一つは高価な飾り付きだったが、急がないと客から聞いていたので、仕上げを後ろへ移せた。逆に小さな補修でも、翌朝の出勤に使う上着は動かせない。リコは金額の大きい札が一つ後ろへ行くのを見て、心の底で少し安心した。するとイリスが言った。
「あちらの飾りも、約束した日にはお渡しするわよ」
「はい」
買える人の楽しみを後回しにすれば、正しい配達になるわけではなかった。リコは高い品の行にも、確認する日を同じ大きさで書いた。
昼前に着いた小さな包みで、最初の一行を試した。外紙の角は乾いていて、封も崩れていない。リコが受領の時刻を記す間に、イリスは工房の札を取り出し、同じ台を使う次の品を寄せた。ところが布を広げると、仮止めの糸が片端だけ外れている。運ぶ間の揺れで抜けたのか、包む前からなのか、外からは分からなかった。
「十分ほど欲しいわ。ここを先に留める」
リコは到着の数字を直さず、作業欄へ小さな三角を挟んだ。後の品はまだ前の工程を終えていなかったので、取り合いにはならない。イリスが糸を切って知らせると、目印は外せた。驚くほど静かな出来事だった。表を作った日に大きな遅れが消えてなくなるわけでも、誰かが礼を言いに来るわけでもない。
その十分の間に、ナギが湯を注いでくれた。リコは紙を避けた窓辺で飲んだ。熱さで舌の先が少し縮む。イリスにも湯飲みを渡すと、彼女は外れた糸を屑入れへ捨て、座るまではしなくても、一口を飲み終えるまで台へ戻らなかった。
午後、翌日の受取窓口を短くする相談をした。イリスは閉店後の縫物が続き、自分の衣装に戻すはずの時間まで削っていた。とはいえ店の都合で扉を早く閉めれば、その時刻を頼りにしていた客が困る。
「明日のハナエさんは、約束どおりお昼に店で試せます。持ち出せるのは、この封をした一包みだけです」
リコは現地局から認められた自分の配送枠を指した。店での試着のあと、既存の配達路に追加できる引渡しは一件だけだった。店の全客を回るとは言わない。ナギも、船の点検を終えた午後の一部なら店にいられるが、採寸や仕立ての説明はできないと答えた。
イリスは包みを開かずに渡せる客へ確認し、それ以外の二人には受取りの候補日を知らせた。一人は翌々日でよく、もう一人は先に支払った金をどう扱うか尋ねた。リコは電話を終えたイリスの表情だけで結論を埋めず、返金と新しい受取日の欄をそれぞれ確かめた。
「全部、表が一枚できたせいで増えたみたい」
イリスが指を伸ばして言った。
「隠れてた分です」
「その言い方をすると、うちが散らかった店みたいね」
「紙は、正直だそうですから」
さっきの言葉を返すと、イリスが負けたように笑った。リコはそこで初めて、遠慮をしている間にも随分と店の人に近づいていたのだと思った。親しくなったから簡単に引き受けていい仕事と、そうでない仕事の境は、前より薄く見えやすい。
表を壁へ掛ける前に、三角の小紙を挟んだ行を確認した。リコが書いた時刻をイリスが読み、工房の返事がある所だけコウの印を写す。未確認の印は一つ残った。見栄えを整えるために外したくなる気持ちが、自分にもある。それをそのまま残し、欄の下に明日の昼休みを囲んだ。
ナギが目を止めた。
「ピッパさんの指示?」
「お願い、だと思う」
「なら、返事が要る」
彼は机の端を空け、短い返信用の紙を置いた。大きな表を写して送る代わりに、一枚で試していることと、使いづらかったところを記す。イリスは三角の目印を予備に幾つか折った。仕立屋の長い指が紙を揃えると、リコの作ったものよりずっと小さく、角がきれいになった。
閉店の札を返したあと、記念布の切り口を覆い、道具を片付けた。窓の外には、午後の残りが一度だけあった。台から離れたイリスは、向こうの椅子の背に掛けた自分用の布へ手を伸ばす。その手を見届けて、リコは書きかけの返事に一行足した。
『昼休みの欄は、残っています』
紙を吹かれないよう、重しを一つ載せた。




