14. 明るすぎる結び目
箱から先に声がした。
「左右どちらでもいい。上だけ守ってくれ」
リコは抱えていた箱を下ろし、声の主が角を曲がってくるのを待った。濃い茶色の巻き毛の下で短い口ひげが上がる。ミナト輪の梱包職人ボンゴだった。からし色のシャツの上に青緑のつなぎを着て、両脇に平たい箱を挟んでいる。朝の通常便で織町へ着いたところだという。リコたちの船に便乗したのではない。
「何が入ってるんですか。ずいぶん軽い」
「箱だ」
「箱の中に?」
「箱だけでは売り物にならないと思うだろう。その思い込みを、今日は包み直す」
広場の脇の実演場所には、低い台と暗幕が用意されていた。貸衣装や光布を扱う店々が、小さな見本を持ち寄る日だった。入口近くの係員が荷物の札を確かめ、ボンゴに台を一つ渡す。ボンゴは再会の抱擁より先に空箱の角を撫でた。旅の間にへこみがついていないか調べてから、ようやくリコの肩掛けを見た。
「二人とも、町に馴染んできたな」
「まだ同じ角を一つ、曲がり間違えます」
「いい角だ。帰りにも会える」
工具袋を持って後から来たナギが、さっそく台の下を覗いた。脚のがたつきはなく、暗幕の裾も床へ引きずっていない。客席の間には灯りが残り、台の後ろだけを暗くできる仕掛けだった。係員は横の灯具の取っ手を動かし、明るさを一度戻してみせた。
ボンゴは空箱を三つ積み上げた。それぞれの蓋は外れ、内部に何もないのが見える。最後に出したのは桃色の細長いリボンだった。見本札には、イリスの店から実演用に貸した物と書かれている。細い端にも糸の光があり、日向に置かれていたのか、まだ明るいのに筋だけが冴えていた。
「こんなに光るんですね」
リコが持ち上げると、ボンゴは片端を額へあてがった。
「包み終わるまで、皆さんには中身が見えない。灯りが落ち、また上がる。そのとき新作の見本布が、箱の中から」
「空箱の実演じゃなかった?」とナギが言った。
「中身も見てもらう。私は包みの将来を考えている」
後ろから来たイリスが、貸出しの紙を広げた。
「見本布を出すところまでね。切らず、結び跡が残るほど締めず。あとでお客さまの布と混ざらないように」
「承知。包みの将来も、借り物の現在を守ってこそだ」
それらしい口上にリコは笑ったが、ボンゴは実際、見本の番号を一つずつ紙と照らしていた。立ち止まった人へ呼びかける声と、薄い布を扱う指の間には、不思議なほど急な切替えがあった。
始まる前の短い時間に、リコはボンゴと台の脇でパンを食べた。中継で一泊した話の途中、彼が明日の帰便の乗船札を出したので、リコは思わず「もう」と言った。
「店を長く閉められん。来週は箱の修繕がある」
「ピッパさんは?」
「局だ。俺の荷札を三回直してくれた。見本箱という荷に、箱だけとは書くなと」
リコは会いたかった顔を思い浮かべた。ミナト輪の仕分け台、鉛筆の音、昼になると空くはずの椅子。織町が楽しくなるほど、留守にしている場所の形まで少し鮮明になる。ボンゴに聞きたいことは幾つもあったのに、口から出たのは局の近くの豆入りパンがまだ売っているかということだった。
「売ってる。俺は昨日じゃなく、その前の日に食べた」
当然のように一泊の分を直してから、ボンゴはリコの包み紙を見た。
「ここのはどうだ」
「こっちもおいしいです。端がよく焼けてる」
「なら持ち帰れない分は食べておけ」
ナギはパンの最後を口に入れ、時刻を確かめた。実演の手伝いは昼休みの残りと、午後の担当に入る前までにしてあった。リコも空の包み紙を畳む。終わりが決まっていると、休みは短くなるだけではなく、仕事がこちらへじわじわ近づいてくるのを防げるのだと、この数日で知った。
人が集まり始めた。イリスの新しい見本布を見たくて来た人も、声に惹かれただけの人もいた。リコは箱を渡す位置を覚えた。昨日の公開練習では、足を置く場所ばかり見ていたナギが、今日は彼女の立つ場所を先に確認した。
「右に一歩。そこなら布が当たらない」
「踊りより分かりやすい」
「こっちは箱のほうが止まってくれる」
客の方へ向いてからも、リコはしばらく口元を直せなかった。
ボンゴはまず、傷のついた箱に厚紙の角当てを入れた。外側を飾る前に、蓋がきちんと合うところを見せる。観客の一人が、古い箱でも使えるのかと尋ねると、彼は底を上にして重なりを示した。
「底が傷んでいるなら別の箱を勧める。これは縁だけだ。あんたの箱は、持ってきて見せてくれ」
次の一言をリコは知っていた。どんな形でも包めると、胸いっぱいに言う時の吸う息が来た。
「さて、ここからは明るい布の晴れ舞台だ」
少し違ったので、かえって可笑しかった。ボンゴは空箱に見本布をゆったり納め、蓋を載せる。リコが渡したリボンを一周させ、残った長い端を自分の額の上へ仮に掛けた。両手が空き、結び目の根元を整えられる。仕立ての手伝いで何度も見た、ひとまず材料を逃がす動作だった。
「灯りをお願いします」
係員が台の照明を落とした。箱の中の布が現れる前に、ボンゴの頭上に大きな桃色の輪が現れた。
額へ掛けたリボンが輪の形を保ったまま、暗がりでくっきり光っていた。箱より先に、梱包職人が見本の飾りになっている。
客席が静かになった。その静けさを成功と取ったらしく、ボンゴはゆっくり頭を下げる。光の輪も丁寧に頭を下げた。誰かが息を漏らし、その隣が吹き出した。リコは口を手で押さえた。輪は二本の端を長く垂らしており、口ひげの左右を、奇妙に威厳のある光が縁取っていた。
「このように、中が見えなくても」
「上が見えてる」と、客席から声がした。
ボンゴは片手で額へ触れた。光の輪が少し歪む。彼は台の後ろの暗幕へ半歩下がった。隠そうとしたのだろう。しかし頭は幕の上へ出ていた。右へ寄れば右に、屈めば低く、客席からは動きが一つ残らず分かった。
リコはもう声を抑えられなかった。ボンゴが幕の陰から指だけ出して、係員へ灯りを戻す合図を送る。その指にも細いリボンが掛かっていて、桃色の線が空中に一画描かれた。
「戻しますよ」
明るくなった瞬間、ボンゴは幕の脇で、片手を上げたまま皆を見ていた。
「……ただいま、結ぶ人間の位置をご覧いただきました」
拍手まで起きた。ナギは台の反対側で膝に手をつき、目を閉じていた。真面目に確認していた人が笑いに耐えられず俯いているので、リコまでまた笑ってしまう。イリスは肩のショールを直しながら言った。
「よく似合うわ。でも箱を待っている方もいるみたい」
「俺も待っている」
ボンゴは額からリボンを外した。結びを強く締めていなかったので、指を一本差し入れると輪はすぐほどけた。彼はもう一度、今度は額へ載せずに箱を結んだ。係員と目を合わせて灯りを落とすと、蓋の周りの淡い光が箱の輪郭を浮かべた。そこで片端を引く。蓋が開き、内側の新作の布が、折り目の間から橙色を放った。
客席の声が変わった。大きく笑ったあとだから、見ている人の呼吸がよく聞こえる。布が波打つように見えたが、それはボンゴが両手を少しずつ離していたからだった。イリスが見本の名札を示し、明るい時の色も確かめられるよう、最後は灯りを戻した。
リコは一緒に拍手して、それから自分が助手だったのを思い出し、空いた蓋を受け取った。
前列にいた女性が残り、結び目をもう一度見せてほしいと言った。リコが蓋を押さえると、女性は自分の手でリボンを引いた。ほどく方向を逆にして、輪が一つ小さくなる。
「これを贈ると、兄は鋏で切ってしまうんです」
「切る前に、ここだと分かる端を出しておこう」
ボンゴは引く側の先だけを二つ折りにした。女性がやり直すと、今度はするりと開いた。光より、この小さな動きのほうに驚いた顔をした。
リコは新しい包みを見ているうち、故郷へ送る菓子を思った。母は紐を捨てない。強く結べば安心だとばかり考えてきたが、食べる前に解く時間まで母へ渡している。そのことを口にすると、ボンゴが「次は二つ結んで、一つを自分で開けてみろ」と言った。
「中身は二つとも食べる?」
「一つは送る」
女性も笑い、自分で結んだ見本をほどいて返した。布を持たずに帰るその背を、イリスは普通の買い物客と同じように見送った。リコは台の上の折り目を指で伸ばす。沢山の人をあっと言わせたものの、あとに誰かの家で使われる小さな部分が残る。ボンゴが実演をしたがるのは、拍手のためばかりとも言い切れないのだと思った。
人が減っても、ボンゴの額には薄い赤みが残っていた。リボンを掛けた跡だと本人は言ったが、そこまで締めていなかったことをリコは知っている。
「ミナト輪へ帰って話すなよ」
「どこをですか」
「俺が隠れたところだ。光ったところまでは話していい」
リコは笑いながら、許された範囲がずいぶん狭いと言った。ボンゴは見本を数え、イリスへ返す分を元の包みに戻している。観客から修繕の相談を二つ受けたが、ここで引き受けられる納期かを確かめるため、連絡先だけを別の紙へ書いていた。明日の便で帰る人に、織町の仕事をいくらでも増やすことはできない。
ナギが、額を照らしたリボンと同じ布の、短い見本端を箱へ添えた。
「向きを見たいときは、これくらいなら目立つ」
リコも箱の取っ手を握ってみた。蓋の側に光があれば、暗い棚から出す時に上下を見つけやすそうだった。ボンゴはすぐ、実物の荷へ付けるには光が消えるまでの時間も汚れ方も分からない、と首を振った。
「今日は、この空箱だけにしよう。明日の運び出しには上向きの札も付ける」
小さな輪を一つ、取っ手の根元に残す。さっきは舞台をさらってしまった明るさが、箱を床から持ち上げる手のそばに納まった。イリスが持ち帰りを認めたのも、その短い見本端だけだった。
午後の担当に戻る時刻になった。リコはボンゴへ手を振り、ナギと広場を離れた。振り返ると、職人は一人で台の布を畳んでいる。呼び込みの姿より少し小さく見えたが、来客が置き忘れた椅子も、楽しそうに片手で持ち上げていた。
「明日の便、見送りに行けるかな」
「担当と重なる。港で会えるとは約束できない」
「じゃあ、今晩もう一度挨拶しよう」
ナギは頷いた。通りには昼の灯りが満ち、店の前へ干した長い布が互い違いに風を受けていた。リコがまだ笑っていると、隣から不意に小さな声がした。
「結ぶ人間の位置」
今度は二人とも、足を止めなければならなかった。
夕方、受渡しを終えた二人は、昨日約束した公開練習へ二十分だけ戻った。教える男性に挨拶すると、足形のない場所で一度やってみようと言われる。リコはナギの靴を見る代わりに、最初にどちらへ動くかを伝えた。全部は合わなかった。それでも、止まった所からやり直すのに、昨日ほど長くかからない。
途中で隣の組が笑い、リコまで実演の光る輪を思い出した。ナギの口元も緩んでいたが、今は二人とも、光る梱包職人の話をしなかった。短い音楽の終わりに、互いへ礼をする。
「ここまで」とナギが時刻を確かめた。
「うん。宿で、ボンゴさんに挨拶しよう」
リコは続けたい足を止め、鞄を肩へ戻した。次にこの広場で踊る時のことを、まだ口にはしなかった。
絵がズレてしまったけれど・・・まぁ・・・




