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13. 踊る前に足を置く

 最後の包みを受け取ったタエは、紙挟みを胸に抱えたまま、広場の方を向いた。


「今なら、間に合うわよ」

「何にですか」

「練習。一曲なら、見るだけでも」


 リコは受領の印を確かめ、控えを鞄へしまった。今日の担当はここで終わる。運ぶ荷物も、次の客も、いまはない。広場の奥では、何度か聞こえた短い曲が、同じところからまた始まっていた。


「見に行こうかな」


 ナギにではなく、独り言のように言った。彼は仕事の控えを折ってから、広場を見た。


「靴を履いたままでいいのかな」

「その靴で歩く場所よ。泥だけ落としてね」


 タエは二人の足元を見て笑い、次の用事へ向かった。

 広場の練習場所には、床へ小さな足形が貼られていた。ぶつからないよう間を空けて二列に並び、真ん中に進む向きを示す線がある。まだ本番の飾りはない。楽器を持った二人が椅子に座り、短い曲を繰り返していた。片方が途中で指を止め、隣へ何か言うと、同じ小節を今度は少しゆっくり弾く。


 リコは先に覚えておきたかった。自分が誰かを誘う時に、足の置き場所まで相手へ任せるのは悔しい。誰か、のところを曖昧にしたまま、ナギの隣から半歩離れた。

 教えているのは、灰の混じる髪を後ろで結んだ成人の男性だった。軽い長ズボンと踵の低い靴で、人の足元を見てから顔を上げる。初めて来た二人へ、荷物を置く棚と休む場所を示した。


「ここは見本。踏んだまま待つ場所ではありませんよ」


 そう言われる前から、ナギは一つの足形を熱心に見ていた。自分の靴先を印に近づけ、少し引き、踵を揃え直す。足形より靴が長いので、どこを基準にするか迷っているらしかった。


「足の大きさまで合わせなくていいんだって」


 リコが言うと、彼は真剣な顔のまま頷いた。


「向きが知りたくて」


 曲が始まった。リコは教える人の動きを見ながら、一つ、二つ、と歩く。ナギは印から次の印へ足を出し、ちょうど合ったところで顔を上げた。音楽はすでに、その先へ行っている。

 彼は一歩急いだ。リコも遅れを取り戻そうとして一歩進み、二人は向かい合ったまま止まった。


「進んだ?」

「進んだ」

「私も」

「それは見えた」


 リコは笑い、笑った拍子に次の音を逃した。ナギが動くのを見て同じ方へ避け、また向き合う。今度は二人とも足を止めた。横を踊りながら通り過ぎた組が、笑いをこらえて道を空けてくれる。

 教える男性は音楽を止めず、二人の外側へ来た。


「いまの方角は覚えなくて大丈夫。曲に戻る時は、空いた場所からでいいです」


 彼は自分で一度列から抜け、数拍待ち、何でもなかったように戻った。取り逃がした音を全部拾いに行かなくても、踊りは続いていた。

 リコは足形のない場所へ動いた。ナギも印の前から退き、彼女の横に立つ。


「床、見すぎた」

「私、ナギが動いた方へ行ってた」


 互いの足より先に顔を見て、また笑った。


 *


 次は、曲の最初と最後の挨拶だった。手本の女性が裾を軽く持ち上げ、相手へ礼をする。長い布を踏まない程度の、ほんの小さな動きだった。

 ナギは自分の藍の作業着の両脇を摘まんだ。裾は短く、持ち上げるほどではない。それでも布を左右へ均等に引き、手本と同じ深さまで頭を下げた。薄黄のスカーフの先が前へ垂れ、床の足形を指す。


 リコは笑うのを止められなかった。


「そこ、上げなくても足は出るよ」


 ナギは摘まんだ布を見て、両手を離した。


「全部やるのかと思った」

「丁寧なご挨拶だ」


 教える男性が言い、自分の短い上着の両脇を摘まんで、同じように深々と礼を返した。後ろで待っていた人まで、それを次の手順だと思って頭を下げた。顔を上げたリコの前に、三人分の後頭部が並ぶ。

 楽器の音がぴたりと止まった。


「まだ終わってませんよ」


 弾いていた女性が言った。教える男性は上着の裾を持ったまま顔だけ向ける。


「こちら、丁寧に始まりすぎました」


 今度は奏者も笑った。リコは頬に手を当て、息を整えた。ナギは肩を揺らしていたが、下を向いて隠れてはいなかった。


「これなら、挨拶だけ覚えて帰れるね」

「曲より長くならないようにはする」


 彼が答えたので、リコはまた笑った。

 休憩の短い間に、二人は棚の前へ戻った。リコは水筒の蓋を開け、口をつける。喉は乾いているのに、飲み込むたび、さっきの一斉の礼が浮かんで困った。ナギは自分の水筒を持ったまま、床の印を遠くから眺めている。


「あの形、左右を入れ替えると分かりにくい」

「まだ見てる」

「今度は、踊らない時に見てる」


 リコは水筒を下ろした。ナギは本気で覚えようとしていた。こちらに付き合って見物しているだけのつもりなら、あんなに足を置き直さなかっただろう。そう思うと、最初に半歩離れた自分の方が、少し奇妙に見えた。


「ナギは、踊るの、面白い?」


 彼はすぐには答えず、曲に合わせて進む二人組を見た。片方の人が大きく踏み出しすぎ、相手が笑って何かを言う。二人は歩幅を変え、そのまま広場を回っていった。


「一曲の終わりまで行けたら、気持ちよさそうだなとは思う」

「終わるだけなら、立ってても曲は終わるよ」

「それはさっき、一度できた」


 ナギが答えた。リコは水筒を落としそうになり、両手で持った。

 楽器の高い音が伸び、低い音がそれを追った。誰かが上手く回るたび、小さく拍手する人がいる。できない場所を見せているのは自分たちだけではなく、できたことを少し見せびらかす楽しみも、この練習にはあるようだった。


 リコは、手順を全部覚えてからナギを誘う自分を思い描いていた。分からないことを先に片づければ、誘う言葉そのものも軽くなると思っていた。でも彼も、同じ曲の終わりまで行きたがっている。自分が一人で仕上がるのを待たせる理由はなかった。


「一緒に試してみる?」


 声を出してから、付け足した。


「練習の、一曲」


 ナギは彼女を見た。


「うん。誰が先に動くか決めたら、さっきよりは進みそう」


 リコは頷いた。ほっとしたことを足の話に隠して、空いた場所へ先に歩いた。


 教える男性に声をかけると、手を置く位置を見せてくれた。相手に握らせるため、掌を上へ向ける。引っ張って歩かせるほどの力は要らない。リコはナギが差し出した手を見てから、顔を見た。


「このままでいい?」

「いいよ」


 指を重ねると、思ったほど冷たくも熱くもなかった。工具を扱う人の手を、勝手にもっと硬い物のように考えていたらしい。触れた感触に気を取られて、リコは曲の始まりをもう少しで逃すところだった。


「最初、僕が前へ」

「うん。私は後ろ」


 口に出すと、動けた。足の置く場所は決められた形そのものではない。リコの歩幅に合わせ、ナギの一歩が短くなる。次に横へ移る時、彼女が早く動きすぎ、二人の腕が引っ張り合うようになった。

 リコはそこで止まった。ナギも手の力を緩める。足を踏んではいないが、これ以上進めば誰かの踵へ乗りそうだった。


「ごめん。待って」

「待つ」


挿絵(By みてみん)


 ナギは、そのまま本当に待った。後ろを通る組が過ぎてから、二人は少し外側へ寄る。リコは、どこで速くなったかを足元で一度試し、相手へ戻った。


「横は、先に言ってもらっていい?」

「横」

「いまじゃなくて」


 ナギの口元がほどけた。音楽の一回りを待って、もう一度始める。前へ、横へ。二人とも言葉を頼りにしていて、踊っているというより、壊れやすい物を間に持って運んでいるみたいだった。

 それでも、何歩か続いた。


 リコの視界の端で、足形が後ろへ移る。白い印を正確に踏めたのかは分からない。ナギの肩の向こうに、さっき水を飲んだ棚が見え、その次には広場の入口が来る。同じ場所を回っているだけで、景色が少しずつ変わった。


「下を見なくても、できるね」


 言った途端に、リコが下を見た。


「見た」

「確認しただけ」

「それ、僕も言いたかった」


 笑うと息が合わなくなり、一拍遅れた。ナギは取り戻そうとせず、彼女に合わせてその場で小さく歩いた。教える人が横を通り、二人の進む先に空きがあることだけを手で示す。リコはそちらへ目を向けた。

 曲の終わりは、思ったより早く来た。最後の音を聞いてから手を離す。ナギが今度は服の裾を摘ままずに礼をしたので、リコも同じ深さで返した。顔を上げると、二人とも笑っていた。


 教える男性は、横へ動く時の歩幅を小さくすると楽だと、次に試すことを一つだけ示した。二人で一度、その場のまま横へ動いてみた。


「もう一度?」


 リコが聞くと、ナギは入口の時計を見た。


「今日は、ここまでにしようか。宿の人からポルを受け取る時間がある」


 彼女は少し残念で、すぐには水筒をしまわなかった。もう一曲と頼めば、ナギも応じたかもしれない。宿へ知らせる手間を増やしてまで踊りたいのかと考えると、そうでもなかった。ただ、この手をもう一度取る理由を、今日のうちに置いていきたかった。


「次の公開練習、いつですか」


 教える人へ尋ねると、翌日も同じ時間に短い回があると分かった。二人は明日の受渡しの予定と照らし、終えてから二十分だけ戻ることにした。そのあとは宿へ帰る。教える男性は、初めから最後まで居なくても構わないと答えた。


「明日、ここで」


 リコが言うと、ナギは床の同じ足形を見ないで頷いた。


「うん」


 荷物を取って広場を出る頃、後ろから曲がまた始まった。リコの足は最初の拍を覚えており、歩きながら横へ出したくなる。隣を荷車が通ったので、普通に歩いた。


「本番は、もう少し速いのかな」

「今日、途中でゆっくりにしてくれてたね」


 ナギは答えた。リコはその横顔を見た。本番も一緒に、と言えば、この道で言えてしまう。荷物の相談をする時と同じ声でも、たぶん聞いてくれる。そう思うのに、さっきの「練習の、一曲」という付け足しが、まだ口の中へ戻ってきた。

 彼女は、今日は言わなかった。


 夕方の店先には、昼に干した布が取り込まれずに一枚だけ残っていた。誰かが窓から手を伸ばし、端を引く。光を受けた折り目が畳まれていくのを、リコは歩きながら見た。ナギの靴音はすぐ隣にある。もう一度踊る日は、明日と決まっていた。

爆発しろ!

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