10. 仕立屋のための一時間
イリスが腰へ当てていた縫いかけの服が、片側だけ手を離れ、膝から床へ滑り落ちた。
店を開ける少し前だった。リコは今日の受渡しを確かめに来て、入口から声をかけたところで、奥の採光窓の前にいるイリスを見つけた。いつものドレスの上へ別の布を当て、鏡に背を向けたり、斜めに戻したりしている。落ちた布を拾おうとすると、鏡の中で目が合った。
「ごめんなさい。まだ早かった?」
「大丈夫。そこへ置いていただける?」
リコは指定された丸椅子へ布を載せた。長い裾の途中だけが粗い糸で留められている。縫ってある方は、持ち上げると緩く弧を描いた。留めただけの方は、少し重そうに垂れる。
「新しい注文ですか」
「私の。去年から、ずいぶんよく待ってくれている服よ」
イリスは腰に当てていた部分を畳んだ。リコにはその色の名前がすぐに出てこなかった。薄い灰に、葡萄の皮の内側のような赤みが混じっている。強く光る布の間へ置けば見落としそうなのに、イリスの長い髪と並ぶと、目が離れなくなった。
「舞踏会で着るんですね」
「着られたらね」
イリスは、畳んだ服を作業台の下の箱へしまった。客の布を置く場所と混ざらないよう札を上にする。その動作が慣れていて、リコは、服が長く待っているという言葉を冗談だけでは受け取れなかった。
戸の外で、ナギが荷車を止める音がした。リコは受渡し票を開き、今日扱う包みを確認した。二人は順番に行く場所が違う。ナギが港の確認へ向かう間、リコは現地局の担当者と町内の小口を回る。昼に一度、局で控えを合わせる予定だ。
イリスは受取の欄へ印をつけた。朝から昼までの採寸の客、その間に出す荷物。どの札にも相手の都合が短く添えられている。夕方にだけ、一時間分の空白があった。
「ここは、予約を取らないの?」
「もともと取らない時間なの。仕立ての手を止めないようにと思って」
イリスは空白の横を指の腹で撫でた。
「でも、戸が開いていると、相談を聞くでしょう。せっかく来てくださったんだもの。十分だけのつもりでも」
リコは頷きかけ、手を止めた。自分も、帰り際に少し聞いてよいかと何度頼んだだろう。イリスはいつも一度目を合わせてくれたので、声をかけてよい時間と、声をかければ応じてもらえる時間を区別せずにいた。
「今日、閉めておいたら。今の服を進めるためでも、休むためでも」
イリスは帳面から顔を上げた。リコの提案をすぐ採らず、今日受け取りに来る客の札を数える。
「先に、受取の方へ伝えなくてはね」
*
最初の配達先では、工房の年配の職人が予定より早く包みを用意していた。リコは時刻を確かめ、今の便で運ぶことについて、受ける店側にも控えがあるのを見た。一つの早さに、何人もの承知が要る。前の失敗を思い返して立ち止まるより、今は紙の印を追う方が手が動いた。
道の途中の菓子屋から、焼いた果実の匂いがした。リコは昼に買おうと思い、店の木札を覚えた。町に来てから何日か経つのに、道を覚える時の目印が、仕事先の看板ばかりになっている。
午前の最後に《宵のひだ》へ戻ると、入口に仮の掲示が出ていた。今日は夕方の一時間、接客を休む。その前の受取りと、翌日の相談の開始が書いてある。普段より長く閉めるわけではなく、曖昧になっていた作業の時間を、客にも見えるようにしたものだった。
リコはイリスの頼みで字の読みやすさを確かめた。表へ出て、少し離れ、荷物を抱えていたら見落とさない位置を探す。通りの人の目線に自分の顔が入ると照れたが、掲示を胸の前へ下げずに持った。
「それなら見える」
向かいの店の客が言った。イリスが礼を返す。その人は掲示の内容を読んで、頷きながら歩いていった。
次に来た女性は、夕方しか寄れないと残念がった。イリスは予約の受取りでないことを確認し、明日の朝なら短い相談を受けられると答えた。女性は一度考えてから、明後日の方がよいと選んだ。リコはその間、掲示の端を持ったままだった。
戸を閉めることは、紙を掛ければ一度で終わる仕事ではなかった。誰も怒らなくても、次の約束を作り直す声は必要だった。それを全部二人で引き受けると言うことは、リコにもできない。午後は決めた配達があり、イリス自身が客へ話す分も残る。
「これを出すだけで、少し大げさな気持ちになるわね」
イリスが言った。
「店を休む方が?」
「たった一時間を、自分に取り置く方」
掲示の紐を結んだあと、イリスは一度、作業台の下へ視線を向けた。
昼、リコは覚えておいた菓子屋へ寄った。小さな果実焼きを自分とナギの分だけ買う。イリスは甘い物が好きだろうか。贈り物の箱なら落ち着いて選べるのに、いざ何か渡したい相手には、知らないことが多い。次の休憩で聞いてみようと思った。店主が紙へ包む間、焼き台の端ではみ出した果実の汁が飴色になるのを眺めた。
現地局の休憩場所で包みを開くと、ナギは二つの形をじっと見てから、片方を選んだ。
「どうして、そっち?」
「果実が出てない。持って食べやすそうだから」
「私の方は?」
「多そう」
リコは笑い、果実のはみ出した方を持った。甘い汁が紙に付くのも、その時は気にならなかった。
「イリスさん、今日、自分の服を縫うかもしれない」
「そうなんだ」
「来てくれるといいね。舞踏会」
ナギが頷き、食べかけの菓子を包み紙へ戻した。
「本人の時間が空くといいね」
同じことを言ったようで、少し違った。リコは口の端の汁を拭い、午後の自分の予定を思い出した。イリスの休みを祝うと言って、夕方の一時間をずっと一緒に過ごそうとしなくてもよいのだ。
閉める直前の店は、いつもより静かというほどではなかった。イリスは最後の客へ襟の位置を見せ、リコは空箱の引渡しを済ませた。ナギが受領の控えを鞄へ入れる間に、通りから別の客が顔を出す。掲示を見て、すぐに引っ込めたので、イリスが翌日の開店時刻だけ伝えた。
そのあとで、ようやく戸の札が裏返った。
イリスは接客台に残った二枚の控えを確かめた。明日尋ねることを一枚にまとめ、もう一枚は今日の受領済みの束へ入れる。リコが最後の荷物の番号を読み、イリスが店の札と照らした。片づけた台の上には何もなくなったが、壁際の棚には明日の仕事がちゃんと残っていた。
「これを全部隠さないと、休めない気がしてしまうのよね」
イリスは棚を見て言った。ナギは空箱を持ち上げ、通路の外の返却場所へ寄せる。
「見えていても、今やらなくていい物なら」
「ええ。分かってはいるの」
最後の一言には、客へ説明する時とは違う硬さがあった。ナギが黙り、リコも棚の布を覆う手伝いは申し出なかった。イリスはしばらく立ってから、自分で接客台の灯りを消した。採光窓のそばはまだ明るい。影になった台が、今日はもう使わない場所として店の中に残った。
ナギは宿へ戻り、昼の世話を頼んでいた担当の女性からポルを受け取ることになっていた。リコも今日はまっすぐ宿へ帰る。自分たちの財布から世話代を払う時に、籠の端布が乾いているか見ておこうと話す。仕事が終わったからといって、夜の用事がすべて消えるわけではなかった。
リコが肩掛けを直していると、イリスが箱から自分の服を出した。
「私、来てほしいです」
リコは、朝より短く言った。イリスは粗い糸の端を指に巻き、ゆっくりほどく。
「ありがとう」
「一曲だけでも。踊らなくても、見に来てくれたら」
「私にもね、来てほしい人はいるの」
イリスは顔を伏せたまま言った。リコの方が、知らない箱を突然開けてしまったように動けなくなった。
「誘っていないんですか」
「仕事が片づいたら、と言っているうちにね。その言い方なら、自分に返事をしなくてすむでしょう」
窓からの光は、まだ針穴がよく見える明るさだった。イリスは服を膝へ広げ、未完成の裾を揃えた。その手は客の服を扱う時と同じに見えるのに、次の一針までが長い。
リコは、郵便なら届けますと言いかけた。相手の名も場所も知らず、本人が誘うかも決めていないのに、その先の用事を持ち出したくなる。
「私も、誘うのは得意じゃないです」
代わりにそう言うと、戸口で待っていたナギがこちらを見た。リコは彼の顔を見返せず、肩掛けの留め具に指をかけた。何を言ったか、イリスの前より彼の前の方が急にはっきりしてくる。
イリスは笑わなかった。針山から針を抜き、窓の近くへ少し椅子を寄せる。
「では、今日はこの一時間を頂きます」
リコは鞄を持ち直した。挨拶をすると、イリスは針を持っていない方の手を上げた。戸を閉める直前、服の隣に、小さな便箋が一枚置かれているのが見えた。
*
イリスは、戸口の足音が遠のいてからも、しばらく裾を見ていた。
この数日、荷の数や時刻を確かめていたリコは、今日は空いたままの欄へ印をつけて帰った。イリスは誰かを呼び戻したくなった。留めてほしい箇所は、服にも店にも幾つもある。一人にならない理由には事欠かない。
便箋を引き寄せると、最初の一行は難しくなかった。困るのはその先だ。舞踏会の案内だけなら、通りの掲示に書いてある。時刻と場所だけを書いて出せば、店から配る知らせと変わらない。
イリスは、ずっと着る機会を待たせてきた服へ目をやった。仕上げなかったのは客のせいだけではない。完成していなければ、それを着てどこへ行くかも決めなくてよかった。
彼女は書きかけの紙の端を押さえた。短い言葉を一つ加え、そのあとに何も付け足さず、ペンを置く。宛名を書いた封筒は、手の下にあった。書き直すための新しい封筒を探すことなく、便箋を折った。
糊の乾くまで、掌を軽く載せた。封じてしまうと、紙の中の言葉は外から見えない。店には、誰にも見せなくてよい物が一つ増えた。
明朝の通常便へ出す封書の場所に置き、必要な郵便料金も確かめる。戻ってきた返事をどこで読むかまでは考えなかった。来るとも、来ないとも、まだ決まっていない。
残った時間でイリスは、自分の裾へ針を入れた。下からすくった糸を、強く引きすぎないよう指に渡す。膝の上で、灰と葡萄の間の色が、小さく揺れた。




