8. 古い色にも値段がある
補修工房の戸口には、洗った小鉢が伏せてあった。大きな染め桶を想像していたリコは、まずその数に驚いた。縁に桃色の残るもの、底だけ青いもの。同じ大きさの鉢が二列に並び、使い古した台の上で朝の水を切っている。
「踏む場所はそこまで。濡れてる」
奥から出てきた男は、塩色の短い髪に、濃紺の前掛けを着けていた。染め手のコウだと名乗り、リコたちの紹介状より先に、運んできた空の布箱へ目を留めた。
「返しに来たのか。底の紙は抜かないでくれて助かった」
リコは箱を指定された棚に置いた。二日前、この工房から出る補修布を別の便へまとめたせいで、《宵のひだ》の仕事を遅らせた。昨日の客回りについて伝えると、コウは集まりに着ていく服を間に合わせられなかった客のところで唇を結んだ。男の手が止まると、水の滴る音だけが聞こえた。
「うちは、布を出す時刻までしか控えてなかった。向こうで何時に使うかは、聞いてなかったな」
リコは、昨日イリスと確かめた札の写しを出した。布の名の下に、下地処理を始める時刻が書き込まれている。コウも自分の控えにそれを写した。リコは便を変える時は、この時刻に間に合うか店へ戻して尋ねる、と伝えた。コウは頷いたが、それで二日前の話を終わりにしてくれたわけではなかった。
「箱が着けば、まだどうにかなると思ってた。染め上がったところまでしか、俺は見てなかった」
彼は空箱を引き寄せ、蓋の裏に残った発送札を剥がした。糊の跡だけが白く残った。
今日ここへ来たのは、今後の小口配送について実際の作業を見せてもらうためだった。滞在中に扱える仕事の範囲は昨日そろい、現地局とも担当を分けている。リコは約束した見学の終わりの時刻を確認してから、工房の中へ入った。
壁際には、指ほどの幅の布が幾つも吊られている。薄い灰に見える二枚をコウが外すと、片方は窓辺でわずかに緑を帯びた。もう片方は紫がかった。
「同じ灰色の注文?」
「同じだったら、今ごろ飯を食ってる」
コウは笑わずに答えてから、自分でも少し笑った。
今日の一件は、小さな襟飾り用の布だった。客が持ち込んだ端切れへ色を足し、もとの上着になじませたいという。残った布でできるなら、その分は安くなる、とリコは思った。材料を新しく買わなくてよいのだから。その考えを声にする前に、コウが端切れの端を指で分けた。
「ここは使える。こっちは糸が痩せてる。この幅いっぱいには取れない」
ナギが台の端へ身を寄せた。いつもなら道具の構造を眺める目が、今は切らずに広げられた細い糸を追っている。
コウは客から試しに使う了承を得ている小片を、一つの鉢へ沈めた。持ち込まれた布本体は乾いた板に残す。液から上げた小片は暗く濡れており、リコには上着の色より濃すぎるように見えた。
「乾かさないと、並べても当たらない」
コウは吊り紐の空いたところに挟み、次の鉢へ手を伸ばした。仕事はそこで一件終わりではなかった。使った匙を洗い、鉢の底を指でなぞり、白い布へ水を落としてから、もう一度洗う。
「まだ付く?」とナギが尋ねた。
「目では分からないくらい。でも次が薄い色だ。付いてから直す方が長い」
リコは札へ何か書こうとしてやめた。いま見ているのは、配送の欄へ一つの言葉を加えれば済む時間ではない。コウの手の動きは速い。それでも洗い桶へ向かう間、彼は色を試すことができなかった。
窓辺の小片が乾くまで、別の注文に使う鉢を準備する。布の山から小さな一枚を拾うたびに、コウは札と照らし、上着の切れ端を確かめた。高価な光布はここには少ない。どれも、町で見かける袖や裾の色をしていた。
「端布なら、もっと手軽だと思ってました」
リコが言うと、コウは鉢の水を捨てる手を止めなかった。
「布は手軽だよ。色の方が手軽じゃない」
借りている場所、乾かす時間、もう一度試す分。見積の紙に並んでいた言葉が、何度も水へ入る彼の指に戻ってきた。リコは昨日、取消になった注文の代金を紙の上で確かめていた。その額の中に何があったか、まだよく見えていなかったのだ。
*
ナギは空の鉢を一つずつ数えるかわりに、コウが朝使った道具の置き場所を尋ねた。
「同じ日に下洗いをする分は、まとめられますか。染める鉢まで一緒にする意味じゃなくて」
「材が同じで、汚れの具合が分かってるならな。客の服を束で突っ込まれると困る」
「一件ずつ包みを分けたまま、何日分か、ここへ集めるのは」
コウはすぐには返事をしなかった。壁の札を二枚外し、台に置いて比べた。一枚は数日先まで待てる。もう一枚は明日の仕事着だ。同じ薄い茶色の布でも、同じ日に回せるわけではなかった。
「こっちは待たせられない。急ぎの手間は今までどおり頂く。まとめた方へ入れて安くなると思われても、困るぞ」
「間に合うかと、いくらになるかは、分けて聞きます」
リコは返した。コウがこちらを見た時、少しだけ声が硬くなったのが自分にも分かった。前の失敗を覚えていることを、言葉の強さで示そうとしている。彼女は札の端を押さえ直した。
「まず、待てる三件だけ。届いたあと、仕事を始められる日も教えてください。帰って、イリスさんと客に確かめます」
ナギが、見積用の紙へ包みを三つ描いた。その下へ一本の線を引き、先でまた分ける。
「同じ色にするんじゃなくて、洗う準備と集荷を重ねる」
「その先で一件こけたら、ほかは先に出す。それなら試せる」
コウは三つの包みの脇へ、自分の鉛筆で短い線を足した。やり方が決まったように見えて、まだ試行だった。一度まとめれば毎回安くなる約束でも、すべて早くなる約束でもない。それでも、別々に戸を叩くたび仕事を止める回数は減らせる。
リコは試行の条件と、合わない注文は従来どおりにすることを控えた。ナギが鉛筆をしまおうとすると、コウがその袖を指さした。藍の布へ、小さな水滴が落ちている。
「その色も頼むか」
「今のままで大丈夫です」
「今のままにする方が、難しい時がある」
コウの口元が緩んだ。リコはナギの袖を覗き込み、乾けば消えそうな水滴を見つけて笑った。ナギは袖を振らずに待った。
帰る前、最初の小片を窓辺から下ろした。乾いた布はリコが思ったより明るく、上着から預かった色見本へ重ねると緑の気配が目立つ。コウは一度首を横に振り、もう一つの試しを並べた。
「これなら見せられる。ぴったり同じにはならない。その違いを好きだという人もいるから、勝手に決めないでくれ」
色の見本は札付きの小袋へ入り、リコの鞄に収まった。彼女は確かめるために袋を一度開け、二枚を混ぜていないか見た。店で違いを伝える時、染めたコウはそばにいない。
戸口を出たところで、ナギの腹が鳴った。コウが顔を上げ、鉢の列の向こうから片手を振る。
「俺の分も、時間どおり食ってくれ」
「コウさんは?」
「次の色を吊ったらだ。戸に札を出しておく」
彼は休憩中と書かれた板を、手の届く位置に置いた。リコは自分たちも長く居たことを思い、礼を短く言って戸を閉めた。
通りの焼き物売りで包んでもらった平たいパンには、玉ねぎと白い豆が挟まっていた。二人は休憩を取る場所を探し、店へ戻る道の途中の腰掛けに座った。鞄を膝に載せると、見本の袋が紙越しに当たる。
「安くする方法を持って帰れたら、って少し思ってた」
リコはパンの端をちぎった。ナギは自分の包み紙を折り、風に飛ばないよう腿の下へ挟んだ。
「まとまれば、少しは変わるかもしれない」
「でも、今日のあの人には、頼んだ大きさでできないって伝える」
「うん」
ナギは慰めを探さなかった。彼のパンから落ちかけた豆をリコが指さすと、慌てて口を近づける。その横顔を見て、リコはようやく自分の分を大きくかじった。温かい中身が薄い皮からはみ出し、手を替える。
「説明が上手なら、残念じゃなくなるわけじゃないもんね」
ナギは今度も頷いた。食べ終わったあと、二人は同じ腰掛けで少し休んだ。工房へ戻ってもう一案出してもらうための時間にはしなかった。
午後、《宵のひだ》へ来た客は、帽子を膝に置いて見積を読んだ。肘に布を当てた薄茶の上着を着る成人の女性で、同じ上着につける襟飾りを注文している。長く垂れる形の下絵を見て、指を一度、膝まで下ろした。
「ここまで欲しかったんだけど」
イリスは客の端布を広げた。傷んだ縁をよけると、下絵の先端は布から大きくはみ出す。
「この布から取れる長さは、ここです。別の布を継げば長くできます。その場合の見積が二枚目」
客は二枚目を見なかった。
「最初に話した額で、長いのは無理?」
リコは、工房で見た鉢の列を思い出した。少しくらい、とコウへ戻って頼む自分の声も、まだ簡単に想像できる。イリスより先に話さないよう、唇を閉じた。
「その額で長い形をお受けすることはできません」
イリスの返事は穏やかで、曖昧ではなかった。客は帽子の縁を二度撫でた。通りから、布を運ぶ車の音が聞こえた。
「短ければ、安っぽくならない?」
「形を変えてみましょうか」
イリスは客の了承を得て、端布の丈夫なところだけを折り上げた。まだ鋏は入れない。二つの折り目が襟元へ寄る、小さな羽根に似た形になった。客の上着へ触れてよいか尋ね、留める位置を鏡で見せる。
リコは色見本を差し出した。試しと洗いに必要な仕事を、客が知りたいところだけ答えた。何度洗ったかを全部聞かせる必要はなかった。急がないなら、小口をまとめる試行の日に合わせた見積を工房から出せることも伝える。値引き額を、その場で作りはしなかった。
「この薄い方なら、畑の帰りにも付けられるね」
客が鏡の中で顎を動かした。イリスは折りを少し開く。小さな羽根の先が上がり、客の顔まで明るくなった。
「いまの形。こっちがいい」
長い飾りの下絵は、接客台の脇に残った。イリスはそれを捨てず、新しい形と見積を確かめる札を上に重ねた。客は、もう一度鏡を見せてほしいと頼んだ。
リコが鏡を持つと、客はいつもの帽子をかぶった。短い飾りは帽子の影に隠れず、襟のすぐ下で、ほんの少しだけ外を向いていた。




