7. 夕方を買う人たち
宿の食堂でパンを割ると、昨日は感じなかった湯気が指に触れた。
リコは半分を食べ、残りを皿へ戻した。昨夜、二人分の食事を頼んでおいてくれたナギは、向かいで水を飲んでいる。何を話すか、一緒に確かめた紙は、もう鞄へ入れた。
「最初の宿までは、私とイリスさんで行くね」
「うん。こっちの朝の受渡しは、僕が局の人と回る」
客へ謝りに行くために、ほかの荷を遅らせるわけにはいかない。昨夕のうちに現地局へ事情を伝え、担当を組み直してもらっていた。リコは空いた皿を片づけ、宿の預かり係へポルの籠を渡した。
ポルは白い鼻先を籠の縁へ出した。撫でようと伸ばした指へ、湿った息が当たる。いつもの動きが、今日は少しだけ長く感じられた。
*
遠方から来た客の宿には、入口に帰りの荷が二つ置いてあった。
客は、濃い茶色の襟を整えながら階段を下りてきた。成人の男性で、昨夕は羽織っていなかった上着に細かな織り模様がある。リコはその服を見て、ほかにもよいものを持っている、と考えかけた。
男性は店主へ挨拶すると、先に口を開いた。
「今日は、この上着で行きます。昼には親類が集まるので」
新しい服を着たかった場所は、もう待てない時刻に近づいていた。
リコは昨日の便の変更を説明した。午前に出せた材料を午後へ回したこと。店で作業を始める時刻を確かめなかったこと。イリスは、自分の作業札だけにあった準備時刻と、同じ台を使う順番を伝えた。
「いまから光る布を仕上げても、今日の夕方以降になります。代わりの布も、お昼には間に合いません」
イリスは無理な約束を出さなかった。
男性は二人の顔を順に見て、それから自分の袖を撫でた。
「昨日、もう少し早く分かっていれば、別の店で飾りだけでも探せたかもしれませんね」
イリスは謝った。リコも頭を下げた。
「明日の帰りの便は、変えられません。服だけ後から送っていただく案はありますか」
イリスは、最終の試着をせず送る場合に残る不確かさと、返送して調整する場合の扱いを説明した。その費用を男性へ押し付ける案ではなかったが、手間がなくなるわけではない。
男性は少し考えた。
「やはり、取りやめます。ここで着るために、頼んだので」
リコには、服そのものは後でも使えるのではないか、という言葉が浮かんだ。それを口にしなかった。男性は代替案を聞いた上で、自分が買いたかったものを決めていた。
イリスは遅延による取消として、預り金と、まだ受け渡していない品の扱いを注文時の条件で読み合わせた。取消の費用を男性へ負担させないことを確かめ、その場で預り金を返し、二人の控えに印を付けた。
最後に男性は、旅行中の天候がよかったことを短く話した。怒ったまま終わらせまいとしてくれたのか、ただそう思っただけなのか、リコには分からなかった。
宿を出ても、足取りは軽くならなかった。
*
共同洗い場の裏では、ハナエが乾いた紐を巻いていた。
灰色の混じる髪を丸く留め、今日は袖の広い薄手の仕事着を着ている。昨日の知らせで青灰色の上着を受け取れなくなった人だ。リコを見ると、巻いていた紐を隣の籠へ置いた。
「少し早く来たのね。水を替える前だから、今なら話せる」
イリスは今日の夕方以降なら試着できると伝えた。別の日の持参も、局の配達枠に入る時刻なら相談できる。ただし、リコがここで何時でもと約束してよいものではなかった。
「夕方は、もう別の仕事を入れたよ。次の休みでいい。その日なら、ゆっくり腕を動かせる」
ハナエが示した日は、九日先だった。
リコは聞き間違いかと思って顔を上げた。そんなに待たせてよいのか、という言葉が口元まで出た。
「仕事着は、ほかにもあるからね」
ハナエは自分の袖を引いた。
「この日に必ず着る服なら困る。今回は、私の休みに合わせてもらった方が楽だよ。洗い場へ試着に来られても、落ち着かないし」
イリスは日付を書き、昼の試着と、その後の調整の時間を相談した。店へ取りに来るという最初の形は、ハナエが希望して残した。
「こちらから持ってくれば親切だろうと、思っていました」
リコが言うと、ハナエは巻きかけの紐を取った。
「店に行くのも、用事のうちなんだよ。帰りに何か見られるし」
その何かを、リコは聞かなかった。昨日、相手の用事を組み替えてしまった自分が、今日の予定まで埋める必要はなかった。
「では、その日のお昼。私も、控えを合わせます」
「今度は、途中で変わったら教えてね」
「はい」
ハナエは紐を巻き終え、端を輪へ差し込んだ。二人を送り出す時には、濡れていない手を上げてくれた。
*
三人目は、紙店の奥にいた。
黒髪を短く切った若い女性が、積んだ紙の端をそろえている。成人になってから数年ほどに見えるが、手の迷わなさはリコよりずっと落ち着いていた。袖の内側に青いインクの跡がある。
「ユラさん。お仕事の前に、すみません」
イリスの声で、女性は指の粉を払った。
店の主人へひと言伝え、窓際の小さな机へ来る。昨夕に本人へ遅れを知らせていたので、何の話かは分かっている。それでも新作の見本袋を見た時だけ、表情が先に明るくなった。
葡萄の実を薄く透かしたような布だった。
ユラの袖に付いたインクとは、違う紫だった。
「届いたんですね」
「はい。そこは、昨日お伝えしたとおりです。ただ、仕上げの台を空けられず、お約束の試着には間に合いませんでした」
イリスは見本だけを取り出した。注文の布を、仕事場へ無造作に広げはしない。リコは便をまとめた経緯を話し、そのために昨日の時間を空けてもらったことを謝った。
ユラは見本から指を引いた。
「昨日は、棚の片づけを代わってもらいました。店を早く出るつもりだったから」
今日なら仕上がる、と言えば済む話ではなかった。
リコは昨日から、同じ夕方を、違う形で三度失っていた。
「次の試着を、明日以降で選んでいただけます。舞踏会までの最終受取りを優先するなら、途中は店から伺える時間もあります」
イリスが具体的な時刻を示した。早い仮合わせ、光らない飾りも含む別の仕上げ、取消。どれを選んでも、遅れたことの扱いが変わらないよう、費用も添えてある。
リコは、待てるなら同じ服を、と言いかけて止めた。
ユラは紙の上の時刻ではなく、布を見ていた。
「これが着たくて、毎月少しずつ残したんです。舞踏会は、まだ先ですよね」
「はい」
「じゃあ、これを待ちたい。昨日着られなかったのは嫌だったけど、嫌になったのは服じゃありません」
イリスは黙ってうなずいた。
リコも、何か返事をしなければと急がなかった。ユラは見本へ指を近づけ、今度は店主の許可を得て、端へ触れた。
「紙は、少し角が違うだけでそろわなくなるんです。服も、一か所急がせたら別のところがずれますか」
「ずれることがあります。だから、遅れた分を縫い目へ押し込めたくありません」
「そうしてください。着た時まで、昨日のことを思い出したくないから」
新しい日付は、ユラの仕事が空く時間から決めた。舞踏会の日までに受け取る約束と、途中で変更が必要になった場合に連絡する先を、別々に書いた。
ユラは自分のペンを使った。青いインクが、注文の続きへ細く伸びた。
*
店へ戻ると、接客台の札は一枚少なくなった。
取消の分は捨てず、精算済みの控えと一緒に別へ綴じた。予定どおりに売れたことにはならない。イリスはその仕事に取ってあった布を確かめ、今すぐほかの客へ売れる品ではないと言った。
「私が、代金を払った方が」
リコの言葉に、イリスは手を止めた。
「ここで決めないでください。局へも、経緯を出します。あなたの財布で一件消したら、次に何を変えるかまで消えてしまう」
柔らかい声ではなかった。
リコはうなずき、局へ出す報告に、便の変更と再確認をしなかった時刻を書いた。作業開始の札が工房の中だけにあったことも、イリスが自分の言葉で添えた。
代金の問題を曖昧にするためではなく、誰がどう扱うかを、正しい場所へ渡すためだった。
午後、ナギが現地局から封書を持ってきた。
到着翌日に出した照会への、ミナト輪の返事だった。マレの署名の下に、舞踏会後の返却と整理が終わるまで応援期間を延ばす条件が書かれている。現地局の担当者も、配達枠と帰りの準備日を添えていた。
初めから許されていた七日間より、長くこの町で働ける。
リコは喜びかけ、さっき書いた報告を見た。
「その返事は、昨日のことより前に出たものだよ」
ナギが言った。
リコはうなずいた。許された期間が、昨日の判断まで認めてくれるわけではない。報告は予定どおり出し、担当を続ける条件は現地局と改めて確認する。
局での話を終えると、明日からも二人で小口便を担当することになった。変更は工房側の受取りと作業開始まで確かめる。当面は店と局の控えを一緒に読む時間を取り、店の注文まで郵便士が引き受けたことにはしない。
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宿で部屋とポルの預かりを延長した時には、もう夕食の匂いがしていた。
空室と担当の都合を確かめ、費用を二人の私物の帳面へ書く。宿の女性は、長くいるなら籠の布も一度洗って替えましょうと言った。ナギは予備を持っていると答えた。
リコは夕食を、朝よりゆっくり食べた。
取消した男性が、どんな顔で親類の集まりへ行ったかは分からない。ハナエは九日先の休みに来る。ユラは、まだあの紫を待っている。
食後、鞄から明日の控えを出した。
いちばん上には、北回廊の工房、とある。明日は補修布が作られるところで、店へ出せるまでの仕事を見せてもらうことになっていた。
ナギが空いた椅子を引いた。リコは控えの半分を彼の方へ向け、明日の最初の時刻を指で示した。




