5. いつもの袖口
運搬箱の縁に掛かった袖を見て、リコは一瞬、自分が引っかけたのかと思った。
青灰色の布から、白い糸が短く出ていた。糸の先は古く丸まり、その脇には薄くなった場所がある。箱を持ち直す前に、袖の主が先に腕を引いた。
「ごめんね。これが、今日の用事なの」
灰の混じった髪を後ろで丸く留めた女性だった。日に焼けた首筋に、ほどいた細い紐を二本掛けている。女性が上着を脱ぐと、イリスは接客台から針山を片づけた。
「ハナエさん。左ですね」
「いつもの方。今度は桶へ持っていかれる前に来たよ」
共同洗い場で働いている人だと、イリスが紹介した。リコが名乗ると、ハナエは昨日、南の回廊で見かけたと言った。大きな袋ではなく、二度戻ってきた橙の肩掛けを覚えていたらしい。
「あそこは手を拭く間がいるでしょう」
「はい。私も、昨日、教わりました」
ハナエは笑い、上着の袖を伸ばした。
右の袖口にも使った跡はあったが、左ほど薄くない。左右を並べると違いがよく分かる。リコは、両方を新しい布にすればそろうのに、と思った。
イリスは、まず上着をハナエの肩へ戻した。
「仕事の時と同じにしていただけますか」
ハナエは首の紐を一本取り、袖を折って上腕で留めた。手が迷わない。次に椅子の背を水桶に見立て、左腕へ抱き寄せる動きをした。
「ここ。いつもここが桶に当たる。深く抱えれば濡れにくいんだけど、そうすると、この辺がね」
リコが擦り切れた場所を見ようと近づくと、ハナエは体を少し横へ向けた。糸が薄くなった部分は、桶の縁を支える位置に重なる。長い仕事の話を聞くより、その一度の動きの方が、袖の違いをよく教えてくれた。
「もう少し短くしたら、当たらなくなりますか」
リコが尋ねると、ハナエは留め紐をほどいた。
「短いと、今度は下ろした時に寒いんだよ。朝の水場は、まだね」
袖口が手の甲の手前まで落ちた。ちょうどその長さになるよう、昔から直しながら着ているのだろう。切れば簡単に見えた部分に、残したい長さがあった。
*
イリスは左袖だけを裏返し、内側の縫い目を見た。
「薄いところを当て布で支えて、外側をここまで替えます。紐を留める輪も少し移しましょう。右は、どうしますか」
「右は、まだ働けるから残して。左右一緒に休まれたら、私が困る」
ハナエは右袖を軽く叩いた。
リコも笑ったが、同時に、自分なら左右を替える話から始めたと思った。二つ並べた姿はきれいになる。そのために、使える片方まで手放すことになるとは考えていなかった。
色見本を袖へ重ねる。いちばん近い青灰色でも、窓へ向けると少し明るかった。
「完全に同じにはなりません。縫った後、境目を目立ちにくくすることはできますが」
「働きものの方だけ、おしゃれになるね」
ハナエは見本を左腕に巻いてみた。イリスが当て布の厚さを二種類示すと、柔らかい方で肘を曲げ、それからもう一方を試した。
「こっち。桶に当たっても、硬い段ができない方がいい」
値段も、その場で決めた。新しい上着を買うほどではないが、布の小ささだけを見ていれば高く思えたかもしれない。古い糸をほどき、弱いところを残さず、動く腕へ縫い直す手間が含まれていた。
ハナエは了承すると、小銭入れを一度だけ開いて閉じた。支払いは受取りの時にする。
「明日の夕方に渡せる予定です。試着の時間も、少しいただきます」
「洗い場の片づけが終わったら来るよ。遅くならないうちにね」
イリスは注文札の上へ、左袖口、と記した。その下へ、右はそのまま、と書き足す。ハナエは読み、うなずいてから上着を脱いだ。
リコは、残す方にも文字が必要なのか、とその筆先を見ていた。
*
ハナエが帰ると、イリスは袖口へ小さな刃を当てた。
一目を切り、次を針先で起こす。布ではなく、糸だけがほどけていく。リコは空箱を返してからも、少し離れてその手元を見ていた。新しい服を縫う時なら、伸びていく線を追える。今は線が減っているのに、手元は進んでいた。
「ずっと同じ方が傷むのに、直しに来るんですね」
「傷まない服を探しているわけでは、ないのでしょうね」
イリスはそれ以上、ハナエの事情を語らなかった。針先で短い糸を拾い、皿へ移した。
リコの肩掛けにも、鞄の紐が触れる場所だけ色の違うところがある。局の色を着るのが嬉しくて、最初はそこばかり払っていた。使っていればつく跡だと分かってからも、雨に濡れた後はなるべく早く干す。
ハナエが袖を下ろす時の手つきには、それよりずっと長い時間があった。
「見ていると、自分の肩が上がってきます」
リコが言うと、イリスはようやく顔を上げた。
「では、いったん下ろしてください。私の分も」
二人で肩を落とした。イリスの首元から小さな息が漏れたので、リコは笑いそうになり、先に自分の背中を伸ばした。
奥では、ナギが返却用の箱を寸法別に分けていた。布に触る用事ではないので、油の付く道具は鞄にしまったままだった。彼も一度、両肩を回した。
「誰も号令は掛けてないよ」
「同じところが固くなってたから」
皿の上には、細い糸が少し増えていた。
*
昼前、現地局の受渡し控えに、店宛ての荷が二つ載ってきた。
一つは、北回廊の工房で仕上がる補修用の小片だった。ハナエが選んだ厚さと色のものを、明朝の便へ出せるという。もう一つは新作の光布で、こちらは乾かすための天候待ちだった。予定では翌々朝。明日の空の具合がよければ、早められる可能性がある。
イリスは光布の控えへ、二着分、と書き添えた。店には既に、縫う前の服の形と、光らない部分が用意されている。一着は町の客、もう一着は島の外から来ている客の注文だった。
「遠くからの方は、明後日のお昼に着たいそうです。明日の夕方には、代わりに使える布も当てて相談する約束をしています」
予定どおりに光布が届かなければ、光らない別の仕上げを選べるようにしていた。その約束も控えに残っていた。リコは、値の張る服ならただ材料を待っているだけでよい、というものでもないのだと思った。
「明日の夕方が、受取りや相談で重なるんですね」
「ええ。ハナエさんも、その時間です」
リコは受渡しの欄を読み合わせた。
それから、控えを持ったまま窓の外を見た。北の回廊へ向かう小舟と、南から来る荷の舟は、中継の荷受け場へ別々に寄る。光布が早まったら、そこでまとめて引き取れば、空の箱を一回分減らせる。
工房の荷を空から集める小舟と、荷受け場から店先まで運ぶ手車で、町の配送はつながっていた。リコがまとめようと思ったのは、店へ向かう最後の荷だった。
「荷がまとまれば、入口で受け取っていただく回数を減らせると思います。まだ、便は決まっていませんけど」
「決まったら教えてください。ここも、客と手元を交互に見ているので」
イリスは笑い、奥へ戻った。
その机には、小さな別の札があった。外した左袖と、当て布の型の隣に置かれている。イリスはそこへ何かを記し、仕上げ台の角へ留めた。リコのいる接客台からは、裏側だけが見えた。
配達の控えには、客へ渡す夕刻の欄があった。彼女はそこへ丸を付けた。
*
午後の配達で、リコは共同洗い場の外を通った。
水を落とした布が長い竿へ上がっていく。干す場所は誰でも勝手に使うのではなく、空いた区画の札を裏返して、次の人が受け取っていた。ハナエは上着を着ていなかったが、薄い仕事着の袖を同じように上げていた。
リコに気づくと、片方の肘を上げて挨拶をした。手が濡れているので、その代わりらしかった。
「さっきは、どうも。店、混んでた?」
「午前の相談は終わりました。ハナエさんの袖、糸をほどいていましたよ」
「あれが、やり直す時にいちばん目を使うんだってね」
ハナエは濡れた手で目元へ触りかけ、途中で止めた。その指から落ちた雫が、石の上で三つの点になった。
若い働き手が桶を持ち上げ、少し傾けた。ハナエが底を支える。二人で置き直してから、抱える位置を確かめている。リコは自然と、左の肘を見ていた。
確かにそこへ、重さが来ていた。
「腕、大丈夫ですか」
「今日は半分持ってもらったから、大丈夫」
ハナエは隣の働き手へ目を向けた。相手が、半分より多かったよ、と返し、二人とも笑った。
リコは次の荷の時刻を確認して、洗い場を離れた。角を曲がる前、ハナエが右腕へ桶を持ち替えようとして、左へ戻すのが見えた。本人にも可笑しかったらしく、首を小さく振っている。
長く身に付いた動きは、新しい袖口が来たからといって変わらない。その動きの方へ布を合わせる人が、店の奥で針を持っている。
夕方、控えを返しに寄ると、ほどかれた左袖は机の上へ平たく置かれていた。片方だけを見れば、服の一部には見えなかった。ハナエの腕が入れば、またあの形へ戻る。
「明日の朝、北の工房から出る分を確認してきます」
リコが言うと、イリスは礼を言った。
店先を出る時、窓の向こうの光布が風で揺れた。華やかな色の下で、青灰色の袖は動かずに待っていた。




