4. 仕事着ではないあなた
配達の袋が空になっても、リコは肩を少し傾けて歩いていた。
南の回廊を回る午前の便は、最後の糸の包みを渡して終わった。受取人は小さな店の奥で染料を量っていて、手を洗うまで待ってほしいと言った。リコは時刻を確かめ、隣の家の受渡しを先に済ませて戻った。待つことが、仕事を止めることだけではなくなっていた。
戻った店では、女性が乾いた手を広げていた。
「ちょうどよかった。これで次の色に入れます」
糸が何色になるのか、リコには分からない。二つ目の小さな包みが必要だと聞き、同じ番号を読み合わせてから渡した。
相手の顔を見る余裕がある午前だった。
局へ控えを返し、ナギと宵のひだへ向かう。彼は別の通路で集めた空の運搬箱を戻してきたところで、手帳の端に少しだけ埃が付いていた。リコが指で示すと、ナギは紙ではなく、布でその端を払った。
「今日は、午後の荷が出るまで空くって」
「何時から?」
「二時。それまでは休憩」
二時まで待つ、と言われるより、休憩、と聞く方が嬉しかった。
リコは鞄をまっすぐ掛け直した。
*
店の入口で、イリスが深い緑の上着を窓へ向けていた。
袖の先が少し丸く、胸の前に細い紐が二本ある。客に渡す服かと思ったが、掛け札には試着用とあった。まだ取付けていない留め具の候補が、脇の皿に三つ並んでいる。
「これ、着ると、どんな形ですか」
リコが尋ねると、イリスは彼女の肩から袖口へ一度目を走らせた。
「羽織ってみます?」
「配達の途中じゃない時に?」
「今が、その時ではありませんか」
時計を見るまでもなかった。それでもリコは、入口の外にナギの荷物が残っていないか確認してしまった。彼は二人とも空だと分かるよう、両手を少し上げた。
試着の仕切りへ入り、肩掛けを外す。
薄い上着を羽織ると、いつもの橙色が鏡から消えた。胸の前に郵便鞄の紐もない。顔と髪は見慣れているのに、肩から下だけが先に休みの日になったようだった。
リコは紐を結び、ほどき、もう一度結び直した。いつもの結び目は、仕事の手袋でもほどけるよう大きくしている。同じ大きさにすると、この服には少し強すぎた。
「お手伝いしましょうか」
外から声がした。
「自分で、もう少し」
答えると、イリスは待ってくれた。鏡の前で迷うことも、誰かを困らせる遅れにはならないらしい。
指を二回動かし、少し小さい結び目を作った。
*
仕切りを出ると、ナギは客用の椅子へ腰を下ろしていた。
リコを見て立ちかけ、すぐ座り直す。何の手助けをするのか決まらない時の動きだった。
「どう?」
「肩、上げられる?」
リコは両腕を上げた。袖は突っ張らない。
「うん。荷も持てそう」
自分で言ってから、鏡の方を見た。せっかく鞄を外したのに、もう荷物を持たせている。
ナギは縫い目を目で追った。
「脇に余裕がある。擦れる所の縫い方も――」
「ナギ、それ、私が訊きたかったのと、少し違う」
彼は口を閉じた。
リコは怒っていなかった。けれど何でもよいと笑ってしまうと、知りたかったことが、そのまま消えてしまいそうだった。
「動きやすいのは分かった。色は、どう思う?」
今度は返事に時間がかかった。
ナギが自分の袖ではなく、リコの顔を見る。その目が少し下がり、緑の襟へ戻った。
「いつもの肩掛けと違うから、最初、見直した」
「似合わない?」
「そういうことじゃない。ここにリコがいるのは分かるんだけど」
彼の言葉が、途切れた。
イリスはどちらの代わりにも答えず、留め具の皿を脇へ寄せた。リコはその静かさに少しだけ照れ、上着の裾をつまんだ。
「私も、そうだった。自分なんだけど」
鏡で見た時より、もう一度ナギに見られた時の方が、この服を着ていることを意識した。
*
昼の客が来たので、リコは上着を外して仕切りの中へ戻った。
誰かが仕事用の前掛けを受け取り、襟へ当てて幅を見ている声がした。光るものを買う人ばかりの店ではない。その声を聞いているうちに、リコの中で少し固くなっていたものがほどけた。
上着には値札があった。普段の食事が何回もできる額だった。買えないと決まったわけではないが、今日ここへ入って決めるには、知らないことが多い。自分が休みに何を着たいかさえ、さっきまで考えていなかった。
イリスが戻ると、リコはそのまま伝えた。
「今すぐ買うつもりではなかったんです。見ていたら、着てみたくなって」
「それで構いません。着てから、ほしくないと分かるものもあります」
イリスは上着の紐をほどき、形を戻して掛けた。
「持ってきた服はありますか。仕事をしない時の」
「生成りの、普通のワンピースなら」
「では、それに当てる色を選んでみましょう。新しい一着がなくても、鏡の中は変わります」
机に数本の帯が並んだ。
淡い赤、灰がかった緑、深い青。リコは最初、橙へ近いものを選びかけた。郵便の色なら見つけてもらいやすいし、知らない人にも自分の役目が分かる。
「その日に仕事をしないとしても、同じ色を選びますか」
イリスの問いに、手が止まった。
仕事をしない日にも、自分の色はあるのだろうか。コトリ島で着ていた服は、似合うかより先に、汚してよいかを気にしていた。ミナト輪へ来てからは、局の肩掛けを身に着けるのが嬉しかった。
机の深い青は、空の高い所とは違う。日が落ちる直前、港の水を入れた桶に映っていた色に似ていた。縁に、細い橙の線が一本通っている。
リコはそれを取った。
「こっち」
言ってから、どうして、と聞かれるのを待った。
イリスは、腰へ当ててみて、とだけ言った。
*
店の薄い見本布を胸から膝へ掛けると、生成りの服を着た時に近い色合わせになった。
帯は光らなかった。
窓へ近づけても、日陰に入っても、深い青のままだった。今朝届けた糸の袋や、明日使う荷札とは何の関係もない色が、腰で一度折り返されている。
「夕方でも、見つけやすいと思う」
ナギが言った。
リコは彼を見た。
「また、配達の話?」
「この細い線の方。暗い青の上にあるから、近くへ来たら分かる」
「近くへ来ないと、分からないんだ」
言ってから、リコの方が先に顔を熱くした。ナギはその意味を考えたらしく、あ、と小さく声を出した。
イリスは針山へ針を戻していた。笑ったかどうか、リコには見えなかった。
帯を外す前に値を尋ねると、二十八リンだった。同じ布は巻いてあるから、気に入れば必要な長さで仕立てられるという。見本はそのまま店へ残す。
「少し、考えます」
リコは布を返した。迷っていることを隠さずに言えたので、店を出なければならないような気持ちにはならなかった。
イリスは青い帯を、ほかの色と一緒に皿の脇へ置いた。
「考える時は、お財布と、着たい日を両方見てくださいね」
ナギが壁の舞踏会の案内へ目をやった。
リコもそちらを見たが、二人ともまだ何も言わなかった。
*
休憩の残りには、広場の端の店で焼きたての小さな菓子を買った。
八つ入りの方が一つずつより少し安かったが、午後も歩く鞄へ入れて運ぶつもりはなかった。二人で二つ、別の形を選んだ。リコの方は果物が入っていて、ナギの方には刻んだ木の実が付いていた。
「選ぶの、さっきより早いね」
ナギに言われ、リコは果物の丸い頭を見た。
「これは食べたら終わるから」
「服は、また着るね」
「うん。だから、もう少し迷ってもいいかなって」
店の主人が包み紙を差し出した。リコは菓子の粉を膝へ落とさないよう、受け取って広げた。
ナギは一口食べてから、自分の選んだ方も少し渡した。リコは果物の入った側を残すよう割り、交換した。
向こうの広場では、楽器の音を合わせる人たちがいた。一本の低い音の上へ、高い音が二つ重なる。まだ曲になっていないのに、椅子へ座っていた女性が足先で拍子を取った。
リコも靴の先を一度だけ動かした。
ナギがそれを見たので、彼女は慌てて菓子の包みを畳んだ。訊かれれば、音に合わせただけ、と答えられる。それを訊かれなかったことが、かえって小さく残った。
午後の便へ戻る時、鞄はまた肩へ掛かった。鏡で外した時の軽さを、体がまだ少し覚えていた。
リコは回廊の曲がり角で振り返った。店の窓は遠く、青い帯が置かれた机までは見えなかった。




