3. 宵のひだの長い袖
「こちらは、昨日の夕方から覆っていたものです」
イリスが小さな布を一枚置き、隣へもう一枚を並べた。形も織り方も、よく似ている。ところが窓から離れると、片方だけが彼女の指を薄桃色に照らした。
リコは反射だと思い、光の来る方へ顔を向けた。作業台の脇の影には、細い棚しかなかった。
「この二枚は同じ布から切った見本です。明るい方を今朝、光へ当てました」
「もう片方にも当てれば、同じようになりますか」
「ええ。まだ糸が傷んでいなければ」
窓辺へ移した見本を、リコは目で追った。外の布の列にも日が差している。町じゅうで何を待っているのか、昨日より少し分かる気がした。
「夕焼けそのものを取っておくんじゃないんですね」
「もし昨日へ戻せたら、私の針も随分助かりますね」
イリスは笑い、いま光っている方を持ち上げた。
「受けた光を、糸がしばらく返すんです。しまっておけば弱くなりますし、同じ明るさをずっと保つこともできません。今朝と今夜では、あなたに見える色も違うでしょう」
窓からの陽を遮っても、片方の布の筋はまだ見えた。ただ色を染めた布なら、周りの灯りがなくなれば一緒に暗くなる。こちらは糸から淡い光が出て、すぐ下の指まで照らしている。リコは二枚を並べ直し、ようやくその違いを掌の上で見つけた。
リコは見本を受け取った。手の中にあるのは、やはり布だった。少し張りがあり、折ると、その内側が先に暗くなる。指から離しても、夕方の涼しい風までは来なかった。
*
しずく園の記念布を広げるため、三人で作業台を空けた。
イリスは先に台を拭き、乾いたことを手で確かめた。昨日まで掛けていた薄いショールを外し、椅子の背へよける。顔の脇から落ちた葡萄色の髪を、首の後ろへゆっくり戻した。
自分が普段扱っている荷物が、持ち主の手を離れたあと、こんなふうに迎えられることがある。リコは箱の蓋を机の下へ置きながら、その動きを見ていた。
布は長く、全部を広げるとリコ一人では端が持てない。ナギと両側を支え、イリスの言う順に台へ下ろした。
「この白い所は、ここですね」
図に描かれた端へ、細い指が止まった。
しずく園で見た時より、布全体の光は落ちている。それでも端と真ん中の違いは残っていた。イリスは拡大して見る小さな丸いガラスを取り、引っ張らずに織り目をのぞいた。
「ここは糸が細くなっています。梁へ留めた時に、擦れた場所と合いますか」
リコは主催が添えた掛け方の図を示した。留め具の位置は、たしかに近かった。
「ただ、使い方だけで傷んだと今決めることはできません。外す前の状態も聞きたいので、返事へ質問を添えます」
ナギが、昨日から気にしていた所へ目を向けた。
「真ん中は、同じように擦れていない?」
「ここで見た範囲では。このまま光へ当ててよい部分を分け、変化を見ます。色を足せば、細くなった糸まで戻るわけではありませんから」
イリスは光を当てる場所を紙で区切った。検査のために光へ当てることは、依頼主から了承されている。リコは検査の控えの該当箇所を読み返し、それから窓の側を空けた。
窓を閉めて運んできたものに、今は、光の入る場所を作っている。
待つ間、イリスは別の注文の縫い目を確かめた。布から目を離すことも検査の手抜きではないと、時計に添えられた小さな札が教えてくれた。
*
午前の客が一人、袖に腕を通しながら帰っていった。
「これなら今日は、電灯の紐に勝てそうだよ」
客は袖を引き、イリスは、もう棚の角にも負けないでくださいね、と見送った。リコには、その人が何度ここへ来たのか分からない。分からなくても、二人の声の速さで、長い付き合いなのだと伝わった。
戻ってきたイリスが、説明に使う色見本を出そうと腕を広げた。
小さな四角が一枚、床へ落ちた。
「失礼」
拾おうとすると、今度は薄い巻き紙が二つ出た。ナギが近くの浅い皿を持ち、差し出す。イリスは皿の上で袖を少し揺らした。
糸巻きが一つ落ちた。
続いて、もう一つ。
「袖の中に、店がもう一軒あるんですか」
リコが尋ねると、イリスは落ち着いた顔で、小さい方の店は片づけが追いつかなくて、と答えた。
最後の糸巻きだけが皿の縁を乗り越えた。ナギの手を逃れ、床へ落ち、接客台の脚を回り込む。リコが行く先へしゃがんだ途端、糸巻きは半円を描いて逆へ戻った。
入口にいた客が、黙って靴のつま先を置いた。
糸巻きがそこで止まった。
「今日は、白か」
「前は何色だったんですか」
「前はね、店主が先に帰ってきた。糸はまだ外だった」
イリスまで声を立てて笑った。
リコは糸巻きを拾い、埃の付いた側を示して返した。イリスは使用中の糸と分ける箱へ収め、片方の袖の内側を見せた。小さな仮の袋の口が、ほどけかけていた。
「お客様の服を直す前に、まずここですね」
針に糸を通し、数針だけ縫った。リコがまだ笑っている間に、もう道具は元の場所へ戻っていた。
*
昼前、窓際から戻ってきた記念布の中央は、薄く色を取り戻していた。
イリスが日陰へ運ぶと、リコの掌へ橙が落ちた。しずく園の案内所の梁の下で、何人もが見上げた色だった。けれど、端は同じようには応えなかった。
リコは「直せますか」と言いかけた。その問いだけでは、答えが一つになってしまう。
「残せそうな所は、どれくらいありますか」
イリスは紙を取り、布の細長い形を描いた。
「中央を生かして、来年の案内板の縁へ掛ける飾りにできます。もう一つは、残る部分を分けて小さな旗にする形。今までと同じ長さの一枚へ戻すには、新しい材料を多く足す必要があります」
旗なら風に動く。縁なら、待ち合わせる人が同じ場所を見つけられる。リコは二つの図を並べ、それぞれに自分の記憶を置いてみた。
「私は、縁の方を見てみたいです」
「それも、理由と一緒に書きましょう。ただ、選ぶのは使う方に」
リコはうなずき、主催が書いてくれた、待ち合わせの一行を見せた。イリスはそこを読んでから、縁飾りの図の下へ、取り付ける時に同じ箇所へ力が集まらない形を描き足した。
費用、仕上げまでの日数、返す時の荷の形も添えた。安い方の案にリコが勝手に丸を付けることはしなかった。残す布の範囲が違い、手数も違う。取扱いの方法を説明する一枚を含めて、店から主催へ送る返事がまとまった。
「お返事までは、ここでお預かりします」
イリスはまだ切っていない布を、元の支えへ戻した。覆いの上から札を結ぶと、リコが見た夕焼けはまた箱の中へ消えた。
*
昼休みが終わる前、イリスが店の端の椅子を二つ出してくれた。
リコたちが持ってきた包みの昼食を開くと、紙の端が店の卓に少し足りない。ナギが自分のを横へずらし、リコは焼いた野菜を落とさずに済んだ。イリスは自分の杯へ茶を注ぎ、何も食べずに立ち上がりかけた。
「お昼は?」
リコの問いに、彼女は奥を見た。
「そこにあります。温めるつもりだったんですが」
「冷めているなら、今食べても温める前ですね」
自分で言ってから、リコは変な理屈だったと思った。ナギが笑いをこらえ、イリスはもう一脚を引き寄せた。
「では、温めるつもりのまま食べましょう」
硬いパンを薄く切ったものと、豆を潰した小さな器が出てきた。三人で食べながら、イリスは材料の荷が集まる曜日を話した。町には一つの工房で揃わない色や下地があり、それぞれ受け取れる時間が違う。
「お二人のいる間だけでも、荷の受渡しをまとめられたらと思ったんです。でも、こんな話をしながら食べているから、休んだ気がしないのかもしれませんね」
彼女は自分で笑って、杯を持った。
リコもパンを一口かじってから答えた。
「今の七日間で受け持てる荷は、現地の局へ確認します。それより先の日程が要るなら、私たちの局にも聞いてみます」
ナギはまだ包みを畳まず、舞踏会はいつなのかと尋ねた。
店の暦でイリスが指した日は、到着して二十日目の夜だった。リコは自分の帰る予定と比べた。店にいる人の忙しさには、その向こうまで続きがある。
「その日には、みんなここで服を作るんですか」
「ほかの仕立屋もありますし、借りる人も、自分で縫う人も。私は、直したものも着て来てほしいと思っています」
イリスは杯を下ろした。
「着たいものを見つけた時の顔が、好きなんです。私が作った服でなくても」
リコは昨日の広場で、動く光の上へ足を置いた子供を思い出した。自分の場所を決める、一瞬の真剣な顔だった。
*
午後の配達へ出る前に、リコは局へ送る照会を書いた。
店で必要な作業を全部引き受けるとは書かない。衣装や材料の受取り、決めた先への配送、変更時の連絡。現地局の担当と相談し、どの日まで人を置けるか、ほかの便と重なる仕事は何かを添える。
窓口の担当は、リコが書いた七日間の終わりを指で押さえた。
「ここまでの仕事は予定どおり。その先は返事がそろってから。明日は南の回廊の小口があります」
名前を呼ばれた荷を、リコは一つずつ受け取った。
宵のひだ宛ての袋もあった。その中身をのぞかなくても、店の棚のどこへ置くかを思い浮かべられる。
外へ出ると、風に揺れる布が通りの色を変えていた。ナギは次の宛先を確かめ、リコは借りた道の札を開いた。
これから届ける物を、受け取って仕事を始める人たちの町だった。




