2. 干された空の下を歩く
いちばん遠くの洗濯物が、島だった。
リコは窓へ顔を寄せたまま、航路図を持つ手だけを下げかけた。雲の上に白く揺れていたものは、長い布の列だった。その向こうへ屋根があり、屋根の下に、細い窓が幾つも並んでいる。
「あれ、全部干してあるの?」
ナギも前窓の端へ目を向けた。ただ、操縦輪から手は離さなかった。
「港の標識は、その下。オレンジの布の方じゃなくて、柱についてる灯り」
「見えてる。……今、見えた」
図の印と実物を確かめ、リコは到着の合図を返した。ユウナギ織町へ近づくツバメ号の帆が、少しだけ向きを変える。巨大な裾の下へ入っていくように見えたが、港と乾燥用の布の列の間には、きちんと空いた水色の帯があった。
昨日ミナト輪を離れてから、空の色は何度も変わった。
中継港へ着いた時には風が強く、食堂の戸を押して入ったリコの髪が、頬へ全部張り付いた。席の向こうのナギも同じ顔をしていて、先に直せた方が相手を笑うことになった。温かい豆の皿を食べ終える頃、ようやく二人の声も、風より小さく話せる大きさへ戻った。
その夜は係留した船で眠った。点検と充填を受けた風実の控えをしまい、荷物の帯を確かめ、寝台の仕切りを閉じる。ポルは自分の籠の中で、二人より先に寝ていた。ミナト輪でわざわざ取り替えた端布の、同じ角を抱えていた。
朝、リコが起きると、ナギは港の洗い場から戻ったところだった。
「夜中、何か鳴らなかった?」
「港の鐘。風向きが変わった合図」
「ポルの声かと思った。大きくなったなって」
ナギは籠をのぞいてから、あの大きさで港全部を起こせるなら便利だね、と言った。
そんなことを話しながら食べた朝食から、まだ一日もたっていない。目の前の町は、もう知っている朝からは遠かった。
*
港の係員は、荷の受取りより先に、リコたちの靴底を見た。
「初めてなら、赤い手すりに沿って。作業場の水は踏まないでください。滑るし、靴へ色が付くことがあります」
リコは自分の茶色い靴を見下ろした。つま先まで別の色になるところを想像すると、少しだけ惜しいような気もした。けれど濡れた床の奥では、二人がかりで布を絞る人がいる。そこを歩けばよい景色の中へ入れる、というだけの場所ではなかった。
港から借りた台車へ箱を載せ替え、ナギが低い側を押さえた。受入れの連絡どおり、局の荷受け口を通ってから宿へ向かう。担当者へ勤務初日の時刻を確認している間、リコは壁の地図に見入った。
川のように細い線は、水路ではなく布を運ぶ通路だった。線が太くなる所には共同の台があり、その間を別の線が横切っている。人の通る回廊だった。
家や工房の外側をつなぐ木の歩廊で、干し場を横切る所もある。布を広げている間は荷も人も通せず、地図ではつながって見える道が、今は行き止まりになる。
「ここから、こっちへ抜けられるんですね」
指でたどると、担当者は机の上に小さな札を置いた。
「干し場を開けている時間だけ。今日は、こちらから」
札には同じ道が描かれ、一か所だけ赤い紐が渡してあった。リコは地図へ写す代わりに、札を借りて鞄の取り出しやすい所へ挟んだ。
赤い紐は閉じている道を示す目印だった。札を持っていれば通れるという許可証ではない。リコは係員の示した迂回路を、札の線で追い直した。
時刻によって使える道が変わる町なのだと、初めて分かった。
宿では、白い髪を後ろで短く束ねた女性が、ポルの籠の置き場所を先に見せてくれた。奥の乾いた部屋で、客の通路とも台所とも分かれていた。日中の世話を引き受ける人だという。
「いつもの布は、置いていってください。初めての場所ですから」
ナギが籠の端を開けると、ポルは鼻だけを出した。女性は抱き上げず、少し離れた椅子へ腰を下ろす。やがて橙色の耳が両方見えた。
「夕方、戻ります」
ナギの声に、ポルは鈴のように鳴いた。返事かどうかは分からなかったが、少なくとも港の鐘ほど大きくはなかった。
部屋の鍵は二つ渡された。リコは自分の荷を置き、仕事の鞄を持ち直した。袋から少しはみ出た生成りの服が、知らない宿の椅子にある。出発の前より、持ってきてよかったと思った。
*
店までの道は、思ったほどまっすぐではなかった。
明るい方へ曲がると、左右の家の間に桃色の布が渡されていた。向こうの出口が金色に見える。リコはそちらなら近いと思って一歩進み、前に張られた紐に気づいて止まった。
布の下にいた女性が、台車を見て顔を上げた。
「そっちは今、通せないの。あと半刻くらい」
「回廊は、右ですか」
「そう。上から見えるけれど、手を伸ばさないでね」
言われたとおり曲がると、人の通る木の回廊が作業場の外側を囲んでいた。隣の布は、ここから見ると桃色ではなく、濃い赤に近かった。透けるところと重なるところで、同じ一枚が違って見える。
ナギと台車を持ち直し、狭い入口を抜けた。二人が通り終わるまで待っていた老夫婦が、箱の長さを見て道を空けてくれた。
「中身も、そのくらい長い?」
「布です」
「なら、ここへ来て正解だね」
男性は笑い、連れの女性から、うちの障子の紙はまだ届いていないけどね、と返されていた。
何でも布になる町ではない。その当たり前の会話に、リコは少しほっとした。
回廊を下りた先の小さな広場には、色の付いた四角い光が幾つも落ちていた。子供が青から黄色へ跳び、黄色を避けた別の子が、薄い紫で両足をそろえる。上の布が動くと、光の方が先に逃げた。
色の薄い布を透かした陽が、床へ模様を作っている。布そのものは頭の上にあり、子供たちは足元の色を踏み分けて遊んでいた。
「今の、出た」
「光が動いたんだよ」
「だから、出た」
リコは思わず笑った。
ナギが台車を端へ止め、リコを見る。荷物を通す道とは別の、低い囲いの中だった。子供の一人が彼女の靴を見て、青なら一人空いてる、と指した。
リコは一歩だけ青へ入った。次に黄色。橙へ行こうとすると、布が動き、色が彼女の足を置いて先へ滑った。
「出た」
「まだ入ってなかったのに」
子供が腹を抱えて笑い、リコも声を上げた。二歩で負ける遊びを、こんな遠くまで来て習うとは思わなかった。
ナギがこちらへ手を振っている。時間だと思って戻ると、彼は笑いながら自分の靴を示した。荷台の脇まで来た紫の光が、片足だけを染めていた。
「待ってただけで、入れた」
「それは、ずるい」
子供たちからも同じ声が飛んできた。
ナギは一歩よけ、光を次の人へ返した。
*
《宵のひだ》の看板は、布ではなく木に彫られていた。
細い文字の下に、裾が一度だけ折り返された形の飾りがある。入口脇には椅子が一脚、店内には背の低い接客台。その奥の仕切りの下から、誰かの靴が二足見えていた。
「少し、お待ちいただけますか」
声は、手を止めずに話している人の落ち着きを持っていた。
リコは扉を押さえ、ナギが箱を入れる場所を空けた。壁際には光を遮る覆いの掛かった棚がある。窓の側には作業台があり、その上の布だけが、外の明るさを拾って薄く光っていた。
仕切りが開いた。
先に客が出てきて、自分の袖を何度も上げ下げした。続いた女性は、深い葡萄色の長い髪を肩の後ろへ寄せ、客の背中の線を見ている。長いドレスの裾から細い靴がのぞき、薄いショールが片方の腕に掛かっていた。
「その動きで引かれるなら、ここを少し戻しましょう。今日、持ち帰らなくても大丈夫ですか」
客は時計を見て、明朝また来る、と答えた。
約束を記した札を二人で読み、女性はそれを布の端へ留めた。客が出ていくまで送り、それから、リコたちへ向き直る。
「お待たせしました。イリスです」
琥珀色の目が、箱の札へ下りた。
「ミナト輪郵便局のリコです。しずく園からのお荷物をお届けに来ました。こちらは、一緒に運航しているナギです」
ナギが挨拶すると、イリスは用意してあった台を示した。受入れ予定の紙も、すぐ出せるところに置かれている。
リコは箱と書類を順番に渡した。途中の港で開け直してはいないこと、外装に濡れはなかったこと。読み合わせを終えるまで、イリスは布を見ようとしなかった。
「遠くから、ありがとう。検査は明朝、落ち着いた光で始めます」
署名を受け取ると、肩の荷が、目に見えない分だけ軽くなった。
その時、イリスの指が少し上がり、リコの肩掛けの手前で止まった。
「糸が一本付いています。取っても?」
リコがうなずくと、橙色の肩掛けから淡い青が抜けた。いつ付いたのだろう。あの広場か、回廊の入口か。
イリスは指の間に残った糸を見て、港の方から来たんですね、と笑った。
「糸だけで分かるんですか」
「今日は、あそこでこの色を扱っていましたから。毎日当たるわけではありません」
リコは自分の肩を見る代わりに、店の窓へ目をやった。この町に来てから、何度も色を見ている。それでも、分かったことはまだ少ない。
イリスが返してくれた控えには、明朝の時刻が加えられていた。その紙の奥に、何枚もの注文札が立っている。窓から来た風に一枚が倒れ、彼女は話しながら、そちらへ手を伸ばした。
きれいな指先には、小さな針の跡があった。




