25. 夕焼けを届けてください
畳まれた夕焼けは、思っていたより薄かった。
祭りの二日後の朝、リコは港へ下る前に、主催の作業室へ寄っていた。茶色い上着の男性が、机の端から布を広げる。案内所の梁へ掛けてあった飾りだという。細長い布には、桃色から橙へ移る筋が走っていたが、端の一帯だけが、日を避けた紙のように白い。
「夕焼けの布です。暗くなる頃には、この縁ももう少し明るかったんですが」
リコは手を伸ばす前に、触ってよいか尋ねた。
うなずかれて指を添えると、普通の布より少し張りがある。持ち上げた所を、ナギが横からのぞいた。
「光を受けて、あとで少しずつ放す糸を織ってあるんだ。だから箱へしまっておけば、だんだん暗くなる」
橙の染料で色を付けるだけの布とは違い、蓄えた光で布自身が短い間、夕暮れ色に明るくなる。外の空や時刻を夕方へ変えるのではなく、梁へ掛けたこの一枚が光を返すのだ。
「しまった夕方が、出てくるんじゃないんだね」
「そこまでできたら、雨の日にも困らないね」
ナギが笑い、布を机へ戻した。
「ただ、ここだけ色が違う理由は、僕には分かりません」
男性も白い所を見た。
祭りの前に光へ当てた場所と時刻、終わってから畳んだ順は分かる。どこをどう直せばよいかは、本人にも分からないという。端を引っ張って伸ばしかけ、途中でやめた。
「昨日、これを外す時にね。隣の人が、来年はこっちの色を目印にして帰ってこよう、と言ったんです」
明るい所を、男性の指が押さえた。
「全部を新品にしたいわけじゃない。残せる所があるなら、残してもらいたいんですが」
リコは折り目を見た。飾っていた時には、向こうへ隠れていた線だった。
花や案内を外した広場を、昨日歩いた。あれだけ人の声があった場所に、今朝は荷車の車輪がよく響く。この布まで畳まれると、祭りがもう一枚、机の上へ収まってしまう気がした。
「織町の職人へ、見てもらう相談からですね」
男性は、一枚の送り先を出した。
ユウナギ織町。《宵のひだ》という仕立屋だった。布の修繕と染め直しを扱う店だと、取引のある人から教わったらしい。
「直せるかと、その費用を聞きたい。来年のことだから、今日、返事がなくても構いません」
相談票の希望欄には、夕焼けをもう一度、と書いてあった。
リコが読むと、男性は少し照れたように布を畳み始めた。
「注文書には、曖昧ですかね」
「どこを残したいかも、一緒に書きましょう」
二人で白い縁と、明るさの残る筋の位置を図にした。勝手に洗ったり染めたりせず、まず店へ、現物を送る時の扱いを尋ねる。布は返事が来るまで主催側で保管し、リコが今日持ち帰るのは、宛先と依頼主の確認が入った相談票だけになった。
男性は布を包みへ戻した。結び目を締めすぎないよう、最後に指を一本抜く。
「来年は、私も少し見て回りたいですね」
リコは新しい相談票を鞄へ収めた。
「その分の時間も、今度の案に入れてください」
*
港では、ツバメ号の橙色の帆が乾いていた。
ナギが、昨日予約した充填の控えと残量計を見比べている。風や光から得た力を蓄える風実は、船を浮かせるための部品だ。漏れを直した古い棚ではなく、港の設備で確かめたものが、帰るための力を持っていた。
リコは荷物の一覧を広げた。
二人とポル、籠、水と食料、私物、局の道具、持ち帰る記録。四百キロの枠へ数え直し、籠の通気口を包みで塞いでいないかも見る。来た時に積んだ透明な容器六個は、しずく園の飼育場へ納めた品だった。受取の記録だけを持ち帰る。
荷受け口から、人が一人下りてきた。
ネリだった。飼育係の黄土色の前掛けは今日はなく、畳んだ上着を腕へ掛けている。夜の世話を交替したあと、少しだけ顔を出せるという。
「最後に戻った子も、いつもの所で落ち着いています」
リコは礼を言った。展示が終わったからといって、あの葉の裏にいた小さな背まで、箱へしまわれたのではなかった。
「妹さんとは、また会えそうですか」
「ええ。次は、妹の用事についていきます」
ネリは籠をのぞき、乾いた布へ埋まった白い体を見て、声を低くした。ポルの橙色の耳が片方だけ出ている。
「こちらは、もう帰る準備ができたんですね」
「一度、入れておいた布を全部出してからでした」
ナギが答えた。
ネリは笑ったが、籠を開けたり、耳をつついたりはしなかった。
風を確かめる合図が来た。
リコは鞄の留め具へ手を掛け、ネリに向き直る。
「また、何かあったら届けてください。相談だけでも」
「次は、仕事の話じゃないかもしれません」
「それも、待っています」
ネリは、少し考えてからうなずいた。
係留が解かれ、桟橋の人が離れていく。リコは席の帯を確かめ、窓から手を上げた。ネリも手を上げたが、船が小さくなるまで立ち続けることはせず、港の道へ戻っていった。
広場には、大水槽の支持枠が残っていた。取り外した日よけの向こうに、いつもの屋根が見える。
来た時には、どこからどこへ荷を下ろすのかも分からなかった町だった。今は一つの屋根を見つけるたび、そこへ戻っていく誰かの姿が浮かんだ。
*
約三時間の航路の先で、ミナト輪の港が見えた。
しずく園の屋根の重なりとは違う、輪を描く町の縁。その内側へ入ると、リコは来る前には気づかなかった、郵便局の小さい庇を見つけた。
荷を下ろし、船の状態を届けてから、ナギはポルを宿舎へ連れていった。自分の部屋の寝床へ戻し、落ち着くまで見るという。リコは記録の入った鞄を持って局へ向かった。
「お帰りなさい」
局長のマレが、緑のベストの前を押さえて椅子から立った。留守中、アカリの町の提出や見直しを進めてくれた人の顔を、久しぶりに近くで見た。
「戻りました。こちらは、終えた分です」
リコは鞄から綴りを出した。
生き物の受渡し、借りた物の返却、会場変更の連絡。現地の署名と局の報告を合わせる。マレは最初の相談票を取り出し、終わりの紙と並べた。
「最初の数とは、違いますね」
「はい。昼の回をなくしました。小さい所は残せましたけど、全員が来られるようにはできませんでした」
マレは、変更の理由が書かれた頁を読んだ。
リコは続きを急がなかった。声を上げた子供も、帰りの船に間に合わないと案内を畳んだ客も、同じ祭りへ来ていた。
「こちらにも、変更の控えが届いています。向こうの報告と合わせて、この依頼を閉じましょう」
マレが、机の空いた所へ綴りを移した。
リコはそこへ新しい相談票を重ねず、手元に残した。
「もう一つあります。これは、次の相談です」
夕焼けの布のことを話すと、マレは別の受付用紙を出した。織町の店へ照会し、返事と現物の扱いがそろってから便を組む。リコたちの次の長い出張を、今日ここで決める話ではなかった。
「先にお昼を食べてきてください。その間に、宛先を確かめておきます」
言われて初めて、リコは机に置いた鞄が軽くなっていることに気づいた。
全部を下ろしたわけではない。それでも、もう抱えなくてよい紙があった。
*
翌日の仕事が一段落すると、ナギが手帳から折った紙を出した。
「これも、覚えてる?」
青い丸のそばに、葉を広げた植物がある。
しずく園の切手交換会で、収集家に見せてもらった古い切手の写しだった。鉛筆だけの図なので、丸の脇には小さく、青、と書いてある。原物は持ち主の台紙に残し、図を比べてよいという許しだけを持ち帰っていた。
「ポストに似てるって言ってた方」
リコが答えると、ナギはうなずいた。
マレに声を掛け、二人で局の奥の通路へ行った。壁際の古いポストは、初めて出航した日にも、同じ所に立っていた。口の下に、根のように枝分かれした模様がある。
ナギは紙を触れさせず、横へ持ち上げた。
リコも、ポストの模様と紙を順に見る。線が分かれる所と、曲がる向き。大きさの違う図の中に、よく似た流れがあった。
「似てるね。でも、こっちには青い丸がない」
「周りの線も、そのまま同じではない。僕の写しが粗い所もあるし」
ナギは消しゴムを出さず、紙の余白へ今日の日付を書いた。違って見えた所も、言葉で残す。
取扱いを教わった旧仕分け口なら、この奥の保管室の壁にある。二人が今見ているのはそれではなく、通路に置かれた古いポストの外側だった。模様が似るだけで、使い方まで分かるはずはなかった。
「古い仕事の飾りかもしれないね」
「誰が、何のために付けたんだろう」
窓口の方から、次の荷を呼ぶ声がした。
ナギは図をしまう前に、裏へ交換会の場所と日付の記録が残っていることを確かめた。詳しい人に尋ねる時、見た物と想像した物が混ざらないようにする。
二人が通路を空けると、紙の束を抱えたピッパが通った。祭りの仕分けを助け、先に通常便で帰ってきた同僚は、仕事の台を指した。
「懐かしんでいるところをすみません。今日の分は、こちらです」
「昨日帰ってきたばかりなのに」
「昨日の分より、こちらが新しいので」
ナギが小さく吹き出した。
リコは鞄を掛け直し、いつもの台へ戻った。
*
母のスイからは、帰局を待っていた便りがあった。
故郷のコトリ島で、共同かまどの仕事と住民の連絡を引き受けている母だ。封筒には今も、取次ぎ先になる他の島の住所が先に書かれていた。
リコは休憩の時に封を開けた。
季節が変わる時期の荷物について、誰が受取りに行き、どれだけ待ったかを、島の人たちで記録したという。局へ渡してほしい写しは別に包まれ、母の手紙はその外にあった。
今年の豆は、早く煮えるものと遅いものが混ざっています。
こちらの話を読んだら、あなたが食べたおいしい物も教えてください。
リコは、飼育場で飲んだ茶の湯気を思い出した。市場で二人で割った菓子と、皿へ落ちた実も。
書こうとすると、仕事の順番より先に出てくるものがあった。
写しの包みは、仕事へ戻る時に窓口へ預けた。母への返事には、その夜、菓子を割った時のことを書いた。翌朝の便へ出す前に読み返すと、落ちた実の行がいちばん長くなっていた。
その週の半ば、しずく園から通常便が着いた。
ネリの封筒には、リコとナギの名が並んでいる。二人そろっている昼休みに開くと、薄い板紙が一枚出てきた。
絵だった。
低い台の前に、椅子が一つ。座った人が何かを指し、その隣に屈んだ人が首を傾けている。向こうの透明な槽には葉が一枚描かれ、その裏へ小さな丸が半分だけ隠れていた。
「こかげだ」
リコが、祭りで呼び名を直した小さな生き物の名を言った。
ナギは絵の下の字を読んだ。
妹は、もう少し顎を上げていたと言っています。
でも、あの時はこんな顔だった気がするので、このまま送ります。
リコは椅子の脚を見た。一本だけ、少し斜めだ。会場図なら直していたかもしれない。隣に屈んだ人の、前掛けのない服が、その脚へ少しかかっている。
仕事の時にネリが描く図には、水を運ぶ道と、片づける順があった。
この絵には、帰らなければならない時刻も、次に見る槽も書いていない。見ていたものと、その隣にいた人だけがいた。
「少し、飾ってもいいかな」
リコが聞くと、ナギはうなずいた。
本人たち宛ての絵なので、局の掲示板ではなく、あとで宿舎の自分の部屋に置こうと思った。ナギも見たい時には持ってきて、と言う。
「今なら、二人で見られるよ」
リコは昼食の包みを横へずらした。
ナギが隣の椅子を引く。窓から入った風で板紙の端が上がり、二人で片方ずつ押さえた。
絵の中では、二人ともまだ、同じ一匹を見ていた。
これで第2章完結です。ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。




