23. 小さい雨粒の大きな空
ネリと妹を門の外で見送り、ルダの台へ戻ると、さっきとは違う人が椅子に座っていた。
店の前掛けをした男性だった。両膝に手を置き、透明な槽へ顔を寄せている。仕事の合間に近所から来たらしく、片方の袖口には粉が白く残っていた。
「まだ、その葉ですか」
「ええ。少し待ってみて」
ルダが答えた。客へ向いた札には、こかげ、とある。葉の裏にいる小豆ほどの生き物は、細い脚を掛けたまま動かない。リコにも背中が見つけられず、椅子の横からのぞいてしまった。
「寝てるのかな」
男性の後ろで、女の子が言った。
ルダは葉へ指を入れず、槽の外から、反対側の低い位置を示した。
「こちらからだと、脚が見えますよ」
女の子が屈む。男性も膝を曲げようとして、座ったままではそれ以上低くならないと気づいたらしい。笑って椅子を立ち、次の人へ譲ってから、女の子の隣でしゃがんだ。
「もっと、右」
女の子に言われ、男性は目だけ右へ寄せた。
「顔も」
「顔もか」
今度は肩ごと動いたので、行きすぎ、と声が掛かった。男性が笑いながら戻る。リコは二人の頭の間から見えた淡い筋を目で追った。
同じ一匹を見ているのに、見つける順番はそろわなかった。
奥で、布紐で袖を留めた手伝いの女性が、戻すための用具を整えていた。展示の案内と片づけを引き受けてくれた人だった。ナギはその道を空け、入口の札の横へ時計を置いた。
終わりの時刻が来ると、リコは新しい客を止めた。まだ中にいた男性は、もう一度葉の下を見てから立ち上がった。
「店へ帰ったら、どんなのだったって聞かれるな」
「見つけるまでの話が、長くなりそうですね」
「肝心の姿より、こっちの膝の方がよく動いた」
膝を二度たたき、男性はルダへ会釈した。
ルダは、今度は店で、と返した。男性は手を上げ、仕事へ戻っていった。
*
生き物の槽が奥へ運ばれると、台が急に広くなった。
手伝いの女性が用具を片づける間に、ルダが自宅の世話場へ戻した状態を確かめている。リコは入口へ入替え中の札を掛けた。後から来た客には、次は水越しに景色を見る見本で、生き物はいないと伝える。
「同じ席でも、違うものになるんだ」
買物袋を提げた女性が言った。まだ時間があると聞き、いったん隣の店へ行くことにしたらしい。
道具店からの台車は、決めた時刻に着いた。
店員が運んできたのは、午前の見本水を収めた専用の蓋付き容器と、別に包んだ空の展示容器、それに小さな箱だった。雨の混入がないことを担当が確かめ、午前は再開せず片づけておいた荷だ。運ぶ人は昼の休憩も取ってから来ていた。
「あのあと、急に呼ばれないかと思いました」
「呼びませんでしたよ」
リコが言うと、店員は空になった食事の包みを、わざと持ち上げて見せた。
ナギが受取の控えを合わせ、台車を用具側で止める。先に客を入れて待たせることはしなかった。
やがてルダが出てきて、奥の確認と片づけが終わったと知らせた。手伝いの女性は使った物を世話側へまとめ、帰る前にルダともう一度話している。次の見本を手伝うために引き留める人はいなかった。
生き物に使った槽と水は奥に残り、拭き終えた台へ、別の透明容器が据えられた。店員が専用容器から見本水を戻す。ナギは側面の金具を確かめ、最後に椅子へ座って、膝が台の脚に当たらないか見た。
箱を開くと、包んだ紙の間から木の屋根が現れた。
「こっちも、帰ってきた」
リコはその下へ、壁に見立てる無地の木片を置いた。水の中へ入れるのではなく、向こう側の乾いた板の上に載せる。家はまだ、普通の小さな家だった。
*
水を通して見ると、屋根が広くなった。
座る人が少し横へ動くと、壁が細くなる。さらに動けば端がゆがみ、家の向こうにあったルダの窓枠が、別の大きな柱のように重なった。
「大きい窓の家だ」
「窓の方が、家より大きいよ」
さっき葉を探していた女の子が戻ってきていた。先に座った祖父らしい男性の袖を引き、自分が見つけた場所を教える。男性は顔だけ横へ寄せ、もう少しと言われて、椅子から落ちそうになる前に腰を戻した。
「お前の所へ行くには、椅子ごと要るな」
立って場所を代わると、女の子は満足そうに座った。自分の見た景色をまだ見てもらえていないと分かり、今度は手で椅子の位置を示した。
列の後ろで、腰の大きな作業ポケットが揺れた。
ナギに修理を教え、この屋根を貸してくれたトウマだった。仕事を区切って来たらしく、ポケットに入っているのは短い定規だけだった。
「私の家は、ずいぶん増築されたな」
「先生が座ると、また変わります」
ナギは客の順番を詰めず、空いた所へ師匠を案内した。トウマは膝へ手を置いて、深くのぞいた。
「ふむ」
上体が右へ動き、左へ戻った。
先ほどの女の子が、その後ろで同じように首を動かした。彼が眉を上げると、女の子も上げた。リコが笑いをこらえ切れず声を漏らすまで、トウマは前を向いたままだった。
「何か、変かね」
「後ろにも、考えてる人がいます」
振り返ったトウマへ、女の子が真顔でうなずいた。
彼も一度うなずき返し、席を立った。
「もう一度、調べてくれたまえ」
女の子はすぐに座ろうとしたが、次は買物袋の女性の番だった。リコが目で示すと、女の子は照れたように笑い、列の最後へ回った。
トウマは立った側からも家を見て、腰のポケットへ手を伸ばした。ナギがその手元を見る。
「何も、足しませんよね」
「いや、今日は見るだけだ」
取り出しかけた短い定規を、トウマは奥へ押し込んだ。
女の子が列の後ろから声を掛けた。
「これ、おじさんが作ったの?」
「屋根と壁はな」
「じゃあ、あの大きい窓は?」
トウマはルダの家を見上げた。ルダが片手を上げると、女の子も上を見る。水の中にあった大きな窓が、普通の窓としてそこにあった。
「あっちは、ずっと前からうちにあるの」
女の子は水槽へ目を戻し、それからもう一度、家を見た。
女性は椅子に座る前に、ルダへ袋を持っていてほしいと頼んだ。さっきは時間が空いたので買物を済ませたのだという。袋から長い青菜の葉が出て、ルダの腕に触れていた。
「魚じゃなくても、こんなに見えるのね」
「外にあるものが、入って見えるんです」
ナギが答えた。
リコは屋根の位置を変えてよいか確かめ、乾いた板の上で少しずつ動かした。家の後ろを、本物の雲が流れる。窓の桟が消えて、青い所だけが壁の上へ載った。
「今、そこ。そのまま」
女性が言うので手を止める。
何が見えたのか、こちら側からでは分からなかった。リコは聞きかけ、その人がルダを呼ぶのを待った。
「洗濯物の端。あなたの向こうの、白いの。屋根に船の帆が付いたみたい」
ルダが次の席へ座った時には、風がやみ、白い布は垂れていた。
二人はしばらく黙って待った。また少し膨らむと、ほとんど同時に、あ、と言った。
リコは手を動かさなかった。
これを一度に何十人にも見せるのは難しい。広場にいた時のような、一斉に上がる歓声はなかった。代わりに、見えた人が次の人を呼んで、その人が同じ所へ顔を寄せるまでの時間があった。
朝の大きな水槽を、もう一度見たかった。
あの白い帆と魚を、この人たちにも見せられたらと思う。その気持ちが残ったまま、目の前でルダが買物袋を返し忘れ、二人で笑うのを見るのは、少し変だった。
*
閉める前に、ナギがリコを空いた椅子へ呼んだ。
「ずっと、屋根を持つ方だったから」
彼が反対側へ回った。リコは鞄を膝から下ろし、顔を水の丸い面へ近づける。
小さな家の縁へ、空が落ちてきた。
屋根の上を雲が越え、遠くの雨具が、家の隣でゆっくり腕を振っている。ナギの手が出てくると、途端に家より大きくなった。
「住むなら、もう少し戸を広げないと」
「その手で、戸をふさがないで」
前にも似たことを言ったと思い出し、リコは笑った。彼も笑いながら指をよける。家の向こうへ、彼の藍色の袖が少しだけ残った。
その景色を、覚えて帰ろうと思った。
最後の客を見送ると、ルダは入口の札を裏返した。水は用具係が専用容器へ戻し、使った容器は別に包む。残水は今日の閉場後に定めた回収先へ渡し、次の場所でまた見せる予定はなかった。
屋根と木片が乾いているのをトウマにも見てもらい、紙で別々に包んだ。
「返すのは、明日でよい。今日の用具と一緒に、棚へ入れておきなさい」
ナギは借用の控えを箱へ添えた。主催の用具係と中央へ運び、夜は展示担当の乾いた用具棚へ預ける。リコは片づけを渡した所で、先に宿へ戻った。ピッパと約束した交替の時間が近づいていた。
*
宿の階段を上がると、紙をそろえる音がした。
ピッパは荷物置場のそばで精算の控えをまとめていた。ポルの水と布の様子を聞き、リコが引き受けると、彼女は紙を鞄へ収めた。
「こちらは、お二人へ。私は最後の控えを受け取りに」
日が傾く前に、その背が階段を下りていった。
リコは籠の留め具を確かめてから、自室へ包みを取りに入った。雨宿りの時にナギが貸してくれた、灰色の木綿布だった。昨日洗い、今日の昼に取り込んで、机へ置いていた。
ほどなくナギが戻った。
模型の箱は棚で受け取られ、中央の午後の回も終わったという。ネリたちが魚を飼育場へ戻し、担当が受け取って状態を見た、と展示担当から聞いてきていた。
「ちゃんと、終わったんだね」
リコは言ってから、籠のポルを見た。こちらの世話は、夕方の分が残っている。二人で水と敷布を確かめ終え、ナギが手を洗って戻るのを待って、包みを差し出した。
「長く借りてて、ごめん。ありがとう」
「助かったなら、よかった」
彼は包みの端を開き、折り目へ指を置いた。
「もう、道具箱の匂いはしないと思う」
「そっちの方が、いいね」
リコは返事を用意できなかった。ナギは布を畳み直していたが、彼女が黙っているので顔を上げた。
「油の匂いよりは、という意味」
「分かってる」
笑うと、彼も笑った。
リコが自分の肩掛けを掛け直すのを見て、ナギが窓へ少し目を動かした。
「今日は、その色がよく見えた」
「夕方だから?」
「ううん。最初に市場を歩いた時も、その橙色だった。あっちの傘も見てたでしょう」
外が橙で、内側が青い傘だった。
値札まで覚えていることは、言っていない。リコは肩の端をつまんだ。自分が水の向こうに見つけた藍色の袖を、急に思い出した。
「よく、覚えてるね」
「目についたから」
そこから先は、聞かなかった。
廊下の窓を通った光が、畳まれた灰色の布へ細く差していた。リコは階下から呼ばれるまで、肩掛けをほどかずにいた。




