22. 世話する人の順番
「ネリさん、もう少し、こちらにいてもらえませんか」
呼んだのは、中央の受付から来た係だった。袖の腕章を押し上げ、質問を書いた紙を持っている。
ネリは前掛けの紐をほどく手を止めた。
「何かありました?」
「午後の魚について、聞かれていて。朝に隠れていた子を、もう一度見られるのかって」
受付で待つ親子が、こちらを見ていた。子供は手に持った案内を細く丸め、広げては、また丸めている。
ネリは紙を受け取った。朝の返送後の観察は済んでいるが、午後にどの個体を出すかは、中央の飼育当番が状態を確かめて決める。今ここで、同じ子が見られるとは答えられなかった。
「当番の人を、呼んできます」
そばにいたソヨが言った。
短い髪の耳元を指で押さえ、市場の用具を受け渡す時と同じ二つ折りの袖で、紙を受け取ろうとする。ネリは渡しかけ、奥の戸へ目を向けた。
「私なら、どの子のことか――」
「係の方が、特徴まで聞いてくれています。今の時刻は、私が取り次ぐ番です」
ソヨは紙の余白を示した。薄い青の筋、葉の下にいた、朝の後半。それだけでは選べない所へ、勝手に番号を足してはいない。
青緑の前掛けの補助者も、空いた台へ来た。ミナト輪へ最初の魚を届けた時に付き添っていた人だった。リコは、局の机の脇で、濡れた布を内側へ畳んでいた手を思い出した。
「私の受持ちの方は、もう預かっています。中央の返事は、受付へお願いします」
補助者が、受付の係へ言った。ソヨはうなずき、専門の当番がいる戸の方へ向かう。
ネリは、まだ前掛けの紐を持っていた。
*
「返事が来るまでだけ、残ってもいいんだけど」
誰へともなく言った声は、案内所の騒がしさに紛れそうだった。
リコはネリの手にある客用の紙を見た。何度も畳んだ仕事の図と違い、折り目は一本だけだった。
「妹さんとは、このあとですよね」
「うん。でも、少し遅く出れば」
リコは、そばに掛けてある当番表の時刻を見せてもらった。
ネリが午後に受け取る仕事の線は、そのまま残っている。その先には、次に休む人の印があった。
「一時間を後ろへずらすなら、次の方とも合わせ直さないと。戻る時刻は、このままですか」
ネリは二つの時刻を指で挟んだ。遅れて出れば、間が狭くなるだけだった。
奥の戸が一度開いたが、出てきたのは水を運ぶ別の係だった。ソヨはまだ戻らない。受付の親子は椅子を勧められ、子供が足を揺らしていた。
「帰ってくる方は、動かせない」
ネリが言った。
前掛けの結び目がほどけた。彼女は紐を内側へ折り込み、自分の棚へ掛けた。
「私は、妹の所へ行きます。中央の返事は当番の方に。もし今すぐ答えられなければ、待っていただいてください」
受付の係は、親子を振り返ってからうなずいた。
ネリが戸を離れると、リコも横へよけた。呼び戻す人はいなかったが、ネリの歩幅は、戸口で少し小さくなった。
ソヨが戻ってきたのは、二人が案内所の脇へ出た時だった。
「当番の方が、記録を持って受付へ来ます。今はまだ、同じ魚を出す約束はしないそうです」
ネリはうなずいた。自分で返事を届けに行かず、下げていた鞄の紐を肩へ上げた。
*
案内所の横で、薄緑の上着を着た人が爪先を上げた。
「お姉ちゃん」
ネリとよく似た目元だった。長い髪は後ろで一本に編み、肩へ掛けた小さな鞄を前へ回している。
ネリの妹は、顔が見えると手を上げたが、すぐには走ってこなかった。姉の後ろにまだ仕事の人がいるか、確かめるようにリコへ目を向ける。
「今、出られる?」
「出られる。待たせた?」
「早く着いただけ。お昼、食べた?」
妹が鞄から包みを出しかけると、ネリはその手首へそっと手を置いた。
「食べた。今日は持って帰らず、どこかで座って食べよう」
妹は包みをしまった。代わりに、端の折れた小さな札が顔を出す。昨夜の町内便で届いたものらしく、ネリが見ると、二人とも少し笑った。
「それ、持ってきたんだ」
「場所、間違えたら嫌だから」
「いつもの案内所なのに」
「待合せは、あんまりしないでしょう」
ネリは返事をせず、鞄から自分の案内を出した。
リコは一歩離れて、中央へ戻す客札の受領が書かれた控えをしまった。受付では飼育当番が親子へ何か説明し、子供が、さっきより大きく案内を広げている。ネリがそこを振り返る前に、妹の指が西側の印へ置かれた。
「これ、葉の裏を探すって、どういうこと?」
「小さい子がいるの。あなた、見たことないと思う」
「お姉ちゃんは?」
「仕事では、見た」
妹は少し考え、そこを指したまま顔を上げた。
「じゃあ、今日は一緒に探して」
リコは戻りの道と、見物の終わる時刻を尋ねられた。ルダの所へ戻るので途中まで同じだと伝えると、ネリは地図をしまわず、妹と二人で向きを合わせた。
*
坂の途中には、傘を乾かすために少し開けたままの店が並んでいた。
妹は柄に巻く細い紐を見つけて、立ち止まった。ネリも半歩先から戻る。どちらが好き、と二本を示され、普段の飼育場では見せないほど長く、赤と青を比べていた。
「どっちでも、目印にはなるよ」
言ってから、ネリ自身が笑った。
「そういうことを聞いてないね」
「うん。どっちが好き?」
今度は赤の方を指した。
買うかどうかは帰りに決めよう、と妹が言ったので、二人は店の場所をもう一度見た。リコは先へ急がせず、坂の向こうから来る荷車へ道を空けた。
すぐ先の店では、開けた窓から焼いた粉の匂いが出ていた。リコの足が半歩遅くなる。妹が、ここは塩の方もある、と教えてくれたので、食べてきたばかりの昼食を思い出して腹へ手を当てた。
「帰りに、寄ろうかな」
言うと、ネリも窓へ顔を向けた。
「朝、何度も前を通ったけど、閉まってた」
「お姉ちゃんの朝は、早すぎるもの」
店の人がちょうど新しい盆を出し、三人は歩いたままその手元を見送った。
ネリは案内を畳み、鞄の外側へしまった。リコが道を示そうと顔を向けると、妹の髪についていた小さい糸を取っている。本人は気づいていなかったらしく、取れた糸を見せられて肩をすくめた。
「縫ったところかな」
「上着?」
「うん。袖だけ、直した」
ネリは足を止めず、揺れる袖口を一度見た。それから、似合う、とだけ言った。妹は返事の代わりに、鞄を掛けた肩を姉の方へ少し寄せた。
ルダの門には、三人が待っていた。
リコは用具側へ回ったが、ネリは客の列の後ろへ入った。前の人が彼女に気づき、先へどうぞ、と譲ろうとする。
「今日は、こちらで」
ネリは妹の隣を指した。
前の人は少し驚いてから、連れの方へ戻った。ネリはその背中越しに台を見ようとして、妹に袖を引かれる。二人で爪先を元の場所へ戻した。
ナギが、リコの鞄へ目を向けた。
「戻せた?」
「うん。向こうの魚は、まだ名札を受け取る前だった」
リコはルダにも、中央で送り先を確かめたことを伝えた。今の札は、そのまま使ってよい。彼女は布で手を拭き、新しい紙の角が立っていないか一度押さえた。
門の方へ顔を向け、ネリを見つけても、仕事の質問で手招きしなかった。
「あと二組。待っててね」
妹がうなずき、ネリも同じようにうなずいた。
*
並んでいた間に、生き物は少し場所を変えていた。
さっきより葉の奥へ入り、上から見ただけでは小豆ほどの背も見えない。順番が来ると、ネリは椅子を妹へ譲り、自分は横へ膝を折った。
妹の視線が、水の上から下へ動く。
「どれ?」
ネリはすぐには指ささなかった。葉の線を目でたどり、枠の影と分かれる所を探す。妹が顔を寄せすぎる前に、ルダが横の位置を勧めた。
「少し右からなら、葉の裏が見えるよ」
二人の頭が同じ方へ動いた。
「あ、いた」
「どこ?」
先に見つけたのは、妹だった。
葉の端へ一本出た細い脚を、触れない距離から指で示す。ネリが同じ角度まで動くと、その先に小さな背が現れた。
「そこ。今、脚を畳んだ方」
リコにも、二人の顔が槽の向こうへ重なって見えた。自分は少し離れ、次に座る人の荷物が足元へ出ないよう、空いた場所を知らせる。
戻って見ると、姉妹はまだ同じ所にいた。
生き物は、何も見せようとはしなかった。
葉の裏から出ず、止まったままで、時々細い脚の一本だけを持ち替える。妹が動きそうになると、ネリが掌を少し上げた。二人とも待った。
水の明るさが変わった。
体がわずかに横を向き、腹の脇の淡い筋が出る。妹が息を吸い、ネリも小さく口を開いた。
「白いね」
「今の所、もう一度、見たい」
ネリの声だった。
妹は笑わず、うなずいた。葉の端に、二人の目が残った。
リコは入口の方へ視線を戻した。手伝いの女性が次の人と話しており、まだ急がせる合図はない。ナギも椅子から少し離れ、空いた木箱を遠くへ寄せた。硬い角が椅子のすぐ横からなくなった。
もう一度だけ背が見え、今度は二人とも同時に気づいた。
*
椅子を譲ったあと、姉妹は門の内側の、通り道を避けた腰掛けへ座った。
妹の包みには、小さな焼菓子が二つ入っていた。片方の角が欠けている。ネリがそちらへ手を伸ばすと、妹も同じ方を取ろうとして、指がぶつかった。
「また、そっち」
「あなたもでしょう」
半分に割って、形の違う二つずつを分ける。リコは入口の短い列を見ていても、二人の笑う声は聞こえた。
菓子を食べ終える頃、妹が膝へ置いた案内の端へ、葉を一枚描き始めた。ネリは覗き込んで、自分の鞄から筆記具を出す。
「脚、どっちへ出てた?」
「こっち。お姉ちゃんが見つける前」
ネリが描いた線を、妹が指で半分隠す。
二人で見直すうちに、葉の方が大きくなり、肝心の生き物が隅へ追いやられた。妹が、また探さないと、と言った。
リコがルダへ渡した控えを受け取りに行くと、妹が顔を上げた。
「この札、いつまで出てますか」
「生き物を見る時間までです。このあとは、別の見本へ入れ替えます」
妹はうなずき、絵の隅へ、こかげ、と書き添えた。ネリがその横の空所へ指を置く。
「二人とも、いたんだけど」
「人は、難しいよ」
描き始めた小さな顔を、ネリも横から見た。リコは紙の続きまで覗かず、控えを鞄へ戻した。
やがてネリは、入口に掛かった時刻の紙を確かめ、鞄を閉じた。
リコに戻り道を尋ねた時に、歩く分の時間も見ていた。残りをもう一度列に並ぶためには使わず、妹と門へ向かう。
「中央までは、一緒に行くよ」
妹の言葉に、ネリは、うん、と答えた。
前掛けを取りに戻る前に、傘の紐を見た店にも寄れる。その店先で立ち止まる二人を、リコは門から見送った。戻る刻限までには、まだ道の分が残っていた。
妹が赤い紐を手にし、ネリの傘の柄へ合わせている。
リコが台へ向き直ると、次の客が葉の下を探していた。こかげの札は風にも倒れず、小さい字まで、乾いたまま読めた。




