21. 迷子なのは名札です
中央の案内所へ、朝の返送を終えた知らせが来た。
生き物は飼育場へ戻り、担当の観察も済んだ。係が控えを置く横で、リコは道具屋から届いたもう一枚を受け取った。雨水は見本の容器へ入っていなかったが、客の立つ所がまだ濡れている。午前は再開せず、予定より早く片づけるという。
「水は、運ぶ方の容器へ戻してあります。蓋も確かめました」
届けに来た店員が言った。模型の屋根と木片も別々に包んだまま箱に入れ、運搬の担当へ渡せるようにしてある。
午後の予定までには休む時間が取れる、と聞いて、リコは案内の午前の欄を指した。
「こちらも、終了に替えてもらいます。午後は、ルダさんの生き物を戻したあとですね」
「ええ。勝手に早めず、そちらの受入れを待ちます」
係と場所を確かめ、休止の印を外してもらった。午後の見本は、開く前に現地でもう一度確認する。晴れ間だけを見て、人を坂の向こうへ送り出さずに済んだ。
*
宿の階段を上がると、鍵束の音がした。
「ちょうどよかった。そろそろ、お二人が戻る頃だと思っていたの」
朝番の女性が、籠のそばから立った。水の様子と、餌を出した時刻を聞き、ナギが引き受ける。リコは礼を言って、追加で頼む用事はないと伝えた。女性は腰の鍵を押さえ、昼の仕事へ下りていった。
ポルは、替えの布を背に載せていた。
丸い白い体より布が少し大きく、動くたびに墨色の足が出たり隠れたりする。橙色の耳が一つ出ると、ナギが籠の外から覗き込んだ。
「どこまで、敷くつもりだったの」
短いベルのような声が返った。戸を閉め、二人が見ている床へ出すと、布の山も一緒に進もうとする。ナギが端を持ち上げると、ポルはその場で一周した。
リコは笑いながら、物干しの高い棒へ手を伸ばした。
昨日洗って干し直しておいた、薄灰色の木綿だった。雨宿りでナギが貸してくれた布は、もう隅まで乾いている。折り畳む途中で彼が振り向いたので、リコは片方の端を合わせそこねた。
「乾いた?」
「うん。あとで、ちゃんと畳む」
自分の部屋の机へ置いて戻ると、ナギは床からポルを抱え上げていた。布の話は、そこで途切れた。
昼食のあと、戻ってきたピッパに午後の予定を尋ねた。
丸眼鏡の向こうの目が、リコの会場図から、持ち帰った精算用の控えへ移る。局で仕分けをする彼女は、祭りでも紙の束に囲まれていたが、今日は宿でそろえる仕事を残してきたという。
「日が傾く前までなら、こちらにいます。ボンゴさんは、外の板を片づけに戻りますから」
「それまでに、私が帰ってきます」
リコは時刻を書き、連絡を残す場所も合わせた。世話の用品と朝番への支払いは、二人の財布から出す。ピッパへは昼に確かめた水と餌を引き継いだ。
「紙は、届かない所へ置きます」
彼女は控えを棚へ上げ、ポルの布を一度見た。
「あの厚さの敷物は、作れませんので」
リコは籠の留め具を確かめてから、笑った。
*
西の坂の先で、ルダの門が開いていた。
昨夜まで板のあった場所に、短い見物の列ができている。庭へ道具を出す戸の前は空き、袖を太い布紐で留めた手伝いの女性が、次の家の入口へ人がはみ出さないよう声をかけていた。
リコとナギは用具側の道へ回り、午後の水見本の受入れを確かめた。ルダは自宅の世話場から生き物を出し、いつもの観察を済ませたところだった。見本の水を運んでくるのは、こちらを終えて戻したあと。彼女は門の札の時刻を一度見て、うなずいた。
低い台には、底と側面を枠で支えた透明の小槽があった。
水の中に葉が一枚、その裏へ、枯葉色の小さな背がついている。何も動かなければ、リコにもすぐには見つけられなかっただろう。今日は細い脚が、葉の縁より先へ出ていた。
最初の親子が、椅子の方へ案内された。
子供は生き物よりも先に、台の脇へ立てた札を読んだ。
「ひらり。銀色の背に、青いすじ」
顔を下げ、水の向こうを探す。
「青くないよ」
リコも屈んだ。
小豆ほどの生き物が葉の下にいた。腹の脇に淡い筋はあるが、銀色でも青でもない。中央の魚を見た時の光が、思い出の方で動いた。
「裏を向いてるから?」
母親が小声で尋ねた。ルダは答える前に札を取り、文字を見た。
「これは、うちの札じゃない」
手伝いの女性が、次の親子へ少し待ってもらった。ナギは容器に触れず、客の通る側から一歩退く。
リコは、ルダの手元と槽を順に見た。どちらかの名を頼りに生き物を動かすことだけは、しなかった。
「名前が違うなら、違う子なの?」
子供が母親の袖を引いた。
ルダは靴の泥を台へ寄せないよう足を引き、葉の下を見た。
「ここにいるのは、いつもうちにいる子よ。間違って来たのは、この紙」
「紙も、迷子になるんだ」
「行く場所は、裏へ書いてあるはずなんだけどね」
ナギが札の角へ目を向けた。客へ見せる表には、大きな呼び名と短い説明しかない。入口の時刻を伝える紙と一緒に受け取ったため、台へ出す人には、同じ場所のものに見えたのだろう。
リコは立て札を外した空所へ、小さな無地の紙を置いた。説明を確認しています、と書く間、母親は子供に、見えた脚が何本あるか尋ねた。
先に数え始めた子供が、途中で言い直す。
「葉っぱの線も、数えた」
今度は母親が笑った。
*
紙を置ける場所を借り、リコはルダと控えを広げた。
前に届いた透明な運搬容器にも、木の台座に番号があった。見えにくい物を探す時に頼った、小さな印だった。今、槽の枠の内側にあるのは、ルダが日々の世話を記録するための番号で、取り外した客用の札とは別だった。
「こちらの番号は、いつものままですか」
「ええ。今朝の記録も、ここ」
ルダの指が、対応表の一行で止まった。
生き物を確認した印もある。リコは札の裏を見せてもらった。小さな字で書いてある届け先は、中央だった。
「客用の札だけ、違う所へ来たんですね」
受渡しの封筒には、午後分、と大きく書いてあった。中身を読まず、同じ大きさの紙を二か所の封筒へ分けたらしい。ルダが出した受取の控えでは、自分の所へ来る予定は一枚だった。
「こちらは、どんな呼び名でしたか」
「こかげ。祭りの札に名前が欲しいと言われたから、そう書いて出したの。普段は、こっちの番号で記録してる」
リコは白紙へ、こかげ、と書いた。その下の説明は、ルダに言ってもらったとおりにする。葉の裏でじっとしていることが多い。枯葉の色をした背で、腹の脇に淡い筋がある。
大きく書くうちに、さっき水の中で見た姿が、紙へ追いついてきた。
「これなら、探せますか」
親子に見せると、母親はうなずいた。
子供の方は、こかげ、の字を見て、少し口を尖らせた。
「でも、ひらりがいい」
「ひらりは、中央の魚につけた呼び名みたい。確かめてくるね」
「この子だって、ひらってするかもしれない」
ルダは子供と同じ高さまで腰を落とした。
「私は、まだ見たことないなあ。ひらっとするところ」
「見てたら、する?」
「ずっと見てても、しない日もある」
子供は水へ戻った。葉の縁から出ていた脚が一本引っ込み、別の脚が、少し離れた所へ掛かった。
「今、ひら……」
言い終える前に止まった。
リコは笑いそうになったが、子供はひどく真剣だった。もう一度脚が出るのを、四人で待った。
*
ネリへ持っていく紙は、二枚で足りた。
中央の魚の客札と、ルダに確認してもらった訂正の控え。槽や健康記録の札は、元の場所へ残す。リコが戻るまで、ナギはここで水見本の荷受け前の確認を手伝うことになった。生き物の説明は、ルダに任せた。
門を出る前に、リコは客札を手伝いの女性へ渡した。
彼女は台へ置きかけてから、いったん止めた。新しい札の最後まで読んで、ルダの顔を見る。うなずきが返ってから、見やすい所へ立てた。
「今の方が、見つけやすいです」
母親が言った。
子供は椅子を次の人へ譲る時、札を一度撫でようとして手を止めた。
「うちでは、ひらりって呼んでいい?」
ルダは笑った。
「家で今日の話をする時ならね。ここで探す時は、こかげの札を探して。魚の方へ行っちゃうから」
子供は母親の手を取り、門へ向かった。
まだ半歩しか進んでいないのに、もう、ひらりの脚が、と話し始める。母親が、こかげでしょう、と直しかけて、やめた。
リコは二枚の紙の間へ、風で飛ばないよう下敷きを入れた。
「門までなら、送ってくる」
ナギが、戻り道の図を彼女へ渡した。水見本の荷受けまでは間があり、ルダの手伝いの女性も、入口は見ていられると言ってくれた。
門の陰で、リコは一度だけ後ろを見た。新しい札を読んだ次の客が、すぐに葉の下へ顔を向けている。
「名前だけ、運ぶことになるとは思わなかった」
「荷の方が軽くて、よかった」
ナギの視線が、小槽のある台へ戻った。
彼女も同じ方を見て、うなずいた。風が来たので、二枚の紙を鞄の平たい所へしまう。帰り道へ向いたあと、まだ名前を言い合っている親子を追い越した。子供はさっき見た脚を、自分の指で母親の掌に歩かせていた。
*
中央の案内所では、午後の紙を外へ出す支度が始まっていた。
朝の客がいた椅子は、まだ誰も座っていない。昼の回を待つ列ではなく、時刻を尋ねる人が数人、受付の横にいた。
リコは係へ事情を伝え、まだ出していない客札を見せてもらった。
一枚だけ、葉の絵があった。裏の届け先はルダ。二つの封筒へ中身が逆に収められていたことを、受渡しの控えと合わせて確かめる。札を取り違えた経緯と、ルダの所で訂正した内容を、控えへ記録してもらった。
世話場の出入口へ行くと、ネリが前掛けの紐をほどきかけていた。茶色の髪はいつものように首の後ろへ結び、片手には客用の案内を持っている。
「今、一件だけ、確認していただけますか」
リコは二つの呼び名と、照合した番号を見せた。生き物の移動はなく、ルダ側は本人の確認で書き直したと先に伝える。
ネリは中央の対応表を開いた。銀色の魚の行と、ひらりの文字を指でたどる。
「これで合っています。朝に見せた魚と同じ仲間。午後の札は、ここへ戻して」
リコが受け取ると、ネリは紙を抱え込まず、そばにいた青緑の前掛けの補助者へ置場を示した。その人も番号を確かめ、次の受渡しの束へ戻す。
「向こうは、大丈夫?」
「はい。こかげは、ずっと葉の裏にいました」
ネリの口元が緩んだ。
入口の方で、彼女を呼ぶ声がした。リコが振り向くより先に、ネリの手が、ほどきかけの前掛けの結び目へ戻った。




