20. 晴れ間が来た
港の水たまりに、青い所があった。
リコは荷札から顔を上げた。雲が薄く切れ、向こうへ空が見えている。いつの間にか出てきた光が、積み場の濡れた板を少しずつ乾かしていた。
「晴れてきた」
声にすると、船の中にいたナギも前窓へ目を向けた。
「こっちにも見える」
彼はそのまま空を見続けず、最後の留め帯へ戻った。リコも荷札を開き直す。今日積むのは、蓋を閉めた用水の運搬容器と予備の用具だった。二人と携行品まで含む重さを確かめ、余って見える隙間へ、ほかの荷を足すことはしなかった。
宿を出る前には、朝番の女性へポルを引き継いできた。籠の前で確認を終えた彼女が、戻る時刻を指してうなずくのを見てから、二人は港へ来ていた。
いま心配するのは、ここにある荷だった。
*
ツバメ号が港の外倉庫を離れると、中央の大きな日よけが見えた。
その下にある水槽は、まだ人の影よりも空の色を多く映している。遠い方の桟橋には大型便が着き、まとまった水の荷を下ろす人が動いていた。
中央の大水槽を満たす用水は、そちらの荷だ。ツバメ号にあるのは、小口で運ぶ水と道具。大水槽も魚も、この船には載せていない。
リコたちはそちらへ寄らず、受入れの決まった飼育場の荷受け口へ向かう。小さい艇の窓から、道を押していく台車の背が見えた。昨日渡した枠ではなく、今日使う用具を運んでいる。
短い区間でも、下りる前には風を確かめた。
ナギが係留を終え、受取係の合図を待ってから戸を開ける。リコは水の容器の行先を読み、向こうの控えと合わせた。
「水だけの見本の分、こちらへ」
ソヨが台車の脇を空けていた。
荷を下ろす人が一つ受け取ると、彼女は外側の札を確かめ、行先の違う容器と分ける。蓋を開けて量を見ようとはしなかった。
「予備は、今ここで使わない方ですね」
「はい。頼まれた時に出せるよう、別の所へ」
リコが返すと、ソヨは決めてあった台へ用具を置いた。
前に同じ色の棚の前で止まっていた手が、今日は次に来る荷のために場所を空けている。台車へ受け渡す控えには、もう担当の印があった。
運び終えたツバメ号は港へ戻り、二人は係留と便の終了を届けた。
次に開いたのは、小会場の入口を回る紙だった。
*
広場へ着く頃、中央の朝の回が始まった。
椅子へ座った人の肩が、いっせいに同じ方へ向く。近くの飼育場から担当が運び、状態を確かめて入れた魚が、雨粒形の槽の内側を曲がってきた。
水の向こうを、白い帆が通った。
船は遠くにいるのに、魚の尾のすぐ先へ帆が重なる。誰かが小さく声を上げ、その隣が笑った。底の支えと枠の影が、水の明るさを区切っていた。
リコも足を止めた。
大きな物を残したかった理由が、目の前にあった。紙で回数を減らしていた間も、なくなったわけではない。
見物席の後ろへ、店の名を書いた小さい旗が立っていた。前に案内の変更を聞きに来た男性の店だった。彼自身は席の端に座り、隣の人がまだ違う方を見ているので、そっと肘を向けて教える。
二人の目が水槽へそろった。
男性が一度だけこちらを見て、リコに気づいたらしい。指を少し上げ、それからまた魚へ向き直った。説明するために席を立たせる必要はなかった。
リコは同じように小さく手を上げた。
来られなかった人の分が、それで消えるわけではない。けれど、この二人まで残念な顔で座っていてほしいのでもなかった。隣の人が魚を見つけると、男性は自分が見つけた時より大きく笑った。
「今の、見えた?」
尋ねると、ナギはうなずいた。
「帆が、魚を追い越した」
二人の後ろから荷を運ぶ人が来た。リコは綱の内側へ入らず、決められた道の外へよける。もう一度だけ水槽を見て、中央の案内所へ向かった。
受付の前には、次の回を尋ねる人がいた。
くたびれた帽子の男性が、折り目の白くなった案内を広げている。昼の回が書かれた、変更前の紙だった。
「こっちへ来る用事に、合わせたんだが」
担当に代わって、リコは変更の説明をした。昼は行わない。朝の当日席はすでに埋まり、午後の受付はまだ始まっていない。
「午後は、帰りの船なんだよ」
男性は紙を折りかけ、時刻だけもう一度見た。
リコは水だけの見本と、午後のルダの場所を示したが、後の方は帰船に間に合わない。前の方にも生き物はいないと伝えると、男性は首を振った。
「魚を、見たかったんだ」
「お知らせが間に合わず、すみません」
男性はしばらく水槽の方を見ていた。列のない所からでも、支柱の間に水の色は見える。けれど、そこに立ち続けられる道ではなかった。
「今日は、買物をして帰るよ」
案内をしまい、歩いていく。
リコは追って別の催しを勧めなかった。中央の係へ、古い案内を持ってくる人がいたことを伝え、変更の紙を入口の見えやすい方へ一枚足してもらった。
*
道具屋の軒下には、小さい列ができていた。
見本の容器は低い受台に固定され、その向こうに木の家がある。トウマから借りた屋根と木片だった。店員が屋根を少し横へずらすと、水の向こうで、家の形も長くなったり細くなったりする。
座って見ていた子供が、片目を閉じた。今度は反対の目。どちらも閉じかけ、後ろの大人に、それでは家までなくなる、と言われて笑った。
「こっちに、窓がある」
指したのは、家の壁ではなかった。向こうにある本物の店の窓が、木片の上へ重なっていた。
リコが少し屈むと、確かにそう見える。自分たちが試した時にはなかった店先の布まで、小さい家の隣に入っていた。
「ここ、見て」
子供が母親へ席を譲った。
その間に、主人が次の人を戸口から少し離して案内する。手伝いの店員は、屋根を一度箱へ置いてから、椅子を直した。見せる物を持つ手と、次の人を支える手が、同じにならずに済んでいた。
リコは入口の札を確かめた。
午前の短い時間、そのあとは片づけと運ぶ人の休憩。午後は、ルダの生体観察が終わり、世話場へ戻したのを確かめてから同じ台へ移す。新しい紙が、昨日のまま読める向きに出ている。
雨の場合は、休止することがある。その下の確認先も、花には隠れていなかった。
「今、見られる?」
ナギが聞いた。
店員が次の人の後ろを示す。二人は列の端へ入ったが、リコが座る番になる前に、軒の外へ大きな滴が落ちた。
*
初めは、向こうの石が濃くなるだけだった。
次の風で雨が斜めに入り、椅子の前まで小さい点が増えた。主人が手を伸ばし、見物の列を止める。
「ここで、一度閉めます。足元が濡れてきたので」
座っていた客には立つのを急がせず、店員が乾いた側を示した。ナギは通る人へ場所を譲り、最後の椅子が空くのを待つ。
屋根の模型は、乾いた布へ置かれた。店員が木片と別々に包み、箱へ戻す。水の容器は固定したまま蓋と覆いを掛け、飛び込む雨を避けた。
「水を見る所なのに、雨だと見られないんだ」
子供が残念そうに言った。
「足の下へ来る水は、困るんだよ」
主人が答え、濡れ始めた石を指した。子供は足元を見て、傘のある方へ下がる。母親が開いた傘に入りながら、箱へしまわれた屋根の方をもう一度見た。
リコは休止の札を掛けた。
時刻の欄には、まだ数字を書かない。主人と足場を見たナギも、雨がやんだらすぐ開けるとは言わなかった。
「中央へ、伝えてきます」
リコが言うと、店員が受取用の控えへ店の名を書いた。再開は未定。午前の予定時間内に戻せるか、確認してから知らせる。
ナギはここに残り、覆いと見物側の道の確認を手伝う。リコは軒の端で持参の傘を開き、中央へ戻った。
*
傘の下では、旗の色が少し暗く見えた。
子供たちが、傘をぶつけないよう横一列から前後へ並び直す。先を歩く子が、屋根の続く道を見つけて手を上げた。その後ろでは、せっかく来たのに、と大人の声も聞こえる。
雨が面白い人ばかりではない。リコ自身も、さっき座りそこねた椅子が惜しかった。
風の向きが変わり、傘の縁から鞄へ雨が飛んだ。
リコは立ち止まり、店員から預かった控えを内側の平たい所へ押し込む。代わりに、繰り返し見られる会場図だけを手に残した。濡れた指で紙をめくると、端が張りつきそうになる。急いで引かず、屋根のある角へ入ってから一枚ずつ離した。
後ろを歩いていた人が、同じ角で傘を持ち替えた。
「案内の人も、雨宿りするんだね」
「字が、泳ぎそうだったので」
相手が笑った。
リコは自分でも少し笑い、見本休止、と書かれた控えが乾いているのを確かめて歩き出した。案内所の係に渡す紙を、両手で押さえて読んでもらうことにはせずに済みそうだった。
中央の案内所へ着くと、係が紙を受け取り、入口側の図へ休止の印を掛けた。場所と知らせを受けた時刻を読み合わせる。客へ見せる再開の欄は空いたままにした。
「午後の方も、中止ですか」
待っていた女性に尋ねられ、リコは首を横に振った。
「今分かっているのは、道具屋の午前の見本が休んでいることだけです。午後は、開ける前の確認をしてから。ここでもお知らせします」
女性は受付の前からよけ、連れの人と相談し始めた。リコはその返事まで聞こうとせず、主催へ渡す控えを係へ預ける。
世話側へ目を向けると、朝の回を終えたネリたちが、生き物を戻す準備をしていた。ソヨは客の道を空ける側に立ち、運ぶ人が通るまで、空の用具を台へ置いて待っている。
リコは呼び止めなかった。今の知らせは、飼育の手を止めて渡すものではなかった。
*
雨は、屋根をたたく音より先に、足元で弱くなった。
中央へ戻ってきたナギが、道具屋で受け取った控えを出した。覆いは閉じ、模型の箱は店の乾いた棚へ入れてある。水の状態と足場を確かめるまで、次の運搬も早めないという。
「もう、青いね」
リコが空を指すと、雲の端が明るかった。
「下は、まだ濡れてる」
ナギの靴からも、一滴落ちた。
リコは図へ付いた休止の印を、そのまま残した。入口で聞いたことと、ここで答えることが違わないように、係へ新しい控えを渡す。
まだ昼前だった。
案内所の前で、道具屋の列にいた子供が、まだ開いた傘から空を見上げている。後ろから母親が柄を持ち、頭の上の布を少し傾けた。雲の切れ目が見えたらしく、子供の顔が上を向く。
「今度は、ほんとの空」
言って笑った。
リコも顔を上げた。晴れ間は、朝より小さかった。けれどその下で、次にどこへ寄ろうかと広げられる案内は、濡れずに残っていた。




