17. 濡れた肩掛けの行方
ポルが、敷布の端に座っていた。
宿の荷物置場の一角だった。二人の部屋と同じ階で、宿の人に確かめてもらった乾いた場所に、通気する籠が置かれている。白い体の下から出ているのは、布の角ではなく、墨色の足だった。
「それ、取り替えたいんだけど」
ナギが言っても、橙色の耳が一度動いただけだった。
代わりの布を籠へ寄せると、ポルはようやく体を伸ばし、そちらへ乗った。古い方の布も、足の先へ少しついてきた。
「両方いる?」
リコが笑うと、ナギは一枚ずつ分けた。
水と餌、替えの布を確かめ、下見へ出る間の世話をボンゴへ引き継ぐ。今日のこの時間はボンゴ、午後の交替はピッパと、先に合わせてある。戻ったら二人が受け取る。
「留守番の会場は、ここだけだな」
ボンゴは籠の留め具を確かめた。ポルを祭りの展示へ連れていく話ではなかったが、本人よりも、言ったボンゴの方が楽しそうだった。
*
トウマの工房では、小さな屋根が布の上に出ていた。
前に借りたいと話した木の模型だった。指に触れる角は丸く整えられ、下の縁にあった細いささくれもなくなっている。リコが手に取ると、屋根の影が掌へ落ちた。
「こちらの軒下に、水だけの見本を置くことになりました。持ち主にも、展示の担当にも、話が通っています」
リコは図を広げた。まだ書き足す余地のある道の線と、低い台を置く所を示す。
「今日は場所に合わせてみます。生き物を入れる容器とは分けて、屋根は水の外へ。持ち帰ったあとは、担当の用具棚で箱に入れて預かります」
「うむ。祭りの片づけが済んだら、この工房へ戻してくれればよい」
トウマは箱の底へ柔らかい紙を敷いた。
リコが借用の控えへ屋根一個と書く横で、ナギが中の収まりを見ている。
「足りん物はあるかね」
「屋根だけだと、家には見えないかなと思って」
ナギの返事を聞いて、トウマが卓の模型へ目を向けた。
リコは慌てて手を出した。
「町全部は、借りませんよ」
二人とも、まだそんなことは言っていないという顔でリコを見た。
トウマは屋根の下へ置ける小さな無地の木片だけを出し、別に包んだ。
「これで、壁にはなる」
「それも、返します」
控えへ木片一個を足した。二人の箱は、片手で抱えられる大きさのまま工房を出た。
*
西側の道には、乾いた所と、昨夜の雨が残っている所があった。
ルダは家の門を開け、台の前から一枚の板を動かした。初日の短い展示と片づけを手伝う人にも、今日確かめる時間を伝えてあるという。リコは、台の置き場所を測る前に、門から歩いてみてもよいか尋ねた。
「荷物は、いったんそこへ。見に来る人なら、手が空いてるでしょう」
言われて図と箱を乾いた台へ置く。
門からはすぐだった。しかし椅子へ座ろうとすると、後ろの脚が床の継ぎ目に近くなる。椅子を少し手前へ寄せると、今度は次の人が通る幅が狭くなった。
「ここで、立って待つのは何人くらい?」
「向かいの戸を塞がない所まで。人数より先に、あっちの人が出られるか見て」
ルダが示した戸は、庭へ道具を出すためのものだった。ナギが向こう側へ回り、閉じていた戸を開ける役をする。リコが二歩下がった所で、戸とぶつからなくなった。
低い台の良さは、そのままでは道の広さにならなかった。
リコは床の継ぎ目と戸の動く範囲を書き足し、待つ線を短くした。列がここまで来たら、次の人は少し後に来てもらう。ルダは、閉じていた戸をもう一度開き、線の外を歩いて確かめた。
「水の入った物を戻す時には、見物の人は入れないでね」
「入替え中と、外へ出します」
ナギは空の用具箱だけを持って、世話側の道を通った。
屋根沿いの回り道では、箱の角が柱へ近づく。リコは近道の矢印を消さず、荷を持つ方の道を別に引いた。
生き物は奥の世話場にいて、今日は外へ出さなかった。
ルダもいつもの確認へ戻る前に、次に返事を受け取れる時間を教えた。リコは図を畳み、台へ置いた模型の箱を抱え直した。
*
二つ目の軒下へ向かう途中で、雨が来た。
石畳へ濃い点が増え、すぐに点と点がつながった。リコは模型の箱を上着の内側へ寄せ、手帳を鞄へしまう。目の前の軒まで行けばと思ったが、そこは短く、二人と箱が入るには足りなかった。
「もう一つ先へ」
ナギが示す屋根へ移る間に、リコの橙色の肩掛けが濡れた。首の後ろへ冷たい重さがたまり、ほどくと、端から小さな滴が落ちた。
ナギは自分の道具鞄を開けた。工具とは別の乾いた包みから、薄い灰色の木綿の布を出す。
「これ、使う?」
「拭く方?」
「羽織る方。寒い時に、首に巻いたりする」
差し出された布は、リコが肩へ回すには少し大きかった。
箱を屋根の内側の乾いた所へ置いてから、両手で受け取る。肩掛けを外した首へ布が触れると、雨の冷たさがゆっくり遠ざかった。
「ありがとう。ナギは?」
「上着がある。今は、これで大丈夫」
彼は袖へ付いた滴を払った。リコは濡れた肩掛けを別の袋へ入れ、借りた布の端を前でまとめる。
乾いた木と、ほんの少しだけ油に似た匂いがした。
「道具箱のそばにいるみたい」
「油の付いてない方だから」
返事があまりに速く、リコは笑ってしまった。
「嫌だって言ってないよ」
ナギが布へ伸ばしかけていた手を戻した。端の汚れを確かめようとしたのかもしれなかったが、もう聞き直せなかった。
リコも布の端を触り続けるのをやめた。
雨の筋は、屋根の外を斜めに通っていた。
さっきからナギが半歩外に立っていると気づき、リコは模型の箱を自分の足元へ寄せた。
「こっち、入れる」
彼が動くと、肩が触れるほどではないが、さっきより近くなった。
二人で同じ雨を見た。話すことなら、図の中に幾つも残っていた。リコは鞄を開けず、布の中へ手を入れた。
*
小雨になるのを待ってから、約束した軒下へ着いた。
持ち主が袖をまくり、入口の台を少し奥へ寄せてくれた。見せる時間と、終わったあと元へ戻す人は決めてある。今日確かめるのは、用具を置いた時にも家の出入りを塞がないかだった。
木の屋根を箱から出すと、窓から来る光が、丸くした角へ当たった。
無地の木片へ載せるだけで、小さな家になった。リコは、雨の中で抱えて来た箱の小ささを忘れて、しゃがみ込んだ。
「水の向こうから見たら、あの窓も入るかな」
「今日は位置だけ。容器を置いて、もう一度見よう」
ナギは模型を乾いた台へ置き、容器を据える予定の範囲を紙で示した。向こう側に家、こちら側に座る人。手を伸ばす人がいても台の脚へ体をぶつけないよう、縁から少し離す。
持ち主は椅子へ実際に座って、立ち直る時に使う場所を確かめてくれた。
「ここなら、買物の帰りにも寄れるね。ただ、ルダさんの所まで両方行くのは、私には少し長い」
リコは、二つの印の間の道を見た。
歩けるかどうかだけなら、さっき歩いた。しかし片方を見たあと、もう一つの坂を回ることになる。
「同じ所で、見られる時間を分けられないかな」
ナギはすぐにはうなずかず、リコの紙を一緒に見た。
「生き物をもう一往復させる?」
「ううん。ルダさんの短い展示を終えて、奥へ戻したあと。同じ台で、水だけの見本を見られたら」
模型は一組だけだった。先にこちらで見せ、こちらを片づけてから、ルダの所へ運ぶ。待っている間に次も開けようとすれば、担当が足りなくなる。
リコは二本並べかけた時間の線を、続けてつながないよう離した。
「両方とも、少し短くして。運ぶ時間を、間へ入れる」
持ち主は首をかしげた。
「早く閉めるなら、もう出した案内も直すんだね」
「はい。まだ、ここで決めません。世話と片づけに間に合うか、ネリさんたちへ聞いてから」
リコは相談と書いて、その下へ線を引いた。見本に使う水も、さっきの一回分を二度あることにはできない。運ぶか、別に用意するか。運ぶなら、誰が何を持つかも残った。
今日は、二つの場所が分かっただけだった。
それでも、図にない入口と雨の来る角度を、自分の足で確かめることはできた。リコは借りた布が紙へ垂れないよう肩へ掛け直し、持ち主へ礼を言った。
*
戻る途中、工房の前でトウマが声を掛けた。
「家は、建ったかね」
「屋根と壁まで。町には、しませんでした」
リコが返すと、トウマは箱を見て笑った。二つ目の場所へ順に運ぶ案も伝え、乾かして箱へ戻すこと、持出し先を控えへ足すことを条件に、使ってよいと言ってもらう。
飼育場ではネリの手が空くまで待ち、同じ台の時間を分ける相談を渡した。生き物を奥へ戻して見終えるまで、客の入替えを始めない。水だけの見本とは容器を別にする。その二つを先に確かめ、残る時刻と水は、全体の運搬を組む時に相談することになった。
屋根と木片は、展示担当に見てもらってから用具棚の箱へ。借用の控えも一緒に預けた。
宿へ下る時には、雨はやんでいた。
「布、洗って返すね」
「急がなくていいよ。濡れてたら、また使えばいいし」
リコは自分の肩にあるものを見た。
今日の帰りにそのまま渡すつもりでいたのに、急がなくていいと言われると、袋へしまう場所まで考えてしまった。
*
宿の乾いた荷物置場では、ピッパがポルの籠の前へ膝をついていた。
「替えた布は、こちら。水も見てあります。今度は、お二人へ」
ナギが引き受けると、ピッパは立ち上がった。仕事の紙を受け取りに行く時間だという。リコは礼を言って道を空け、彼女の背が階段へ消えるのを見送った。
籠を開ける前に、荷物置場の戸を閉める。二人が見ている間だけ、ポルを床へ出した。白い丸い体は、すぐにナギの靴の周りを回った。
リコは濡れた肩掛けを広げ、宿から借りた物干しの上の棒へ掛ける。木綿の布は湿りを逃がすため、手前の低い棒へふわりと掛けた。
「これ、よく乾きそう」
言い終わる前に、下の端が動いた。
ポルの墨色の足が、布を押している。引くというより、体を下へ差し入れ、乾いた真ん中を持っていこうとしていた。
「それは、だめ」
リコとナギが同時に手を出した。
端を一つずつ押さえ、引っ張らずに止める。布の向こうで目が合った。どちらも、相手が先に譲ると思ったような顔になった。
「返す方だから」
「貸した方だから」
また、声が重なった。
ポルがベルのように短く鳴く。ナギは片手を空け、敷いてよい方の布を足元へ寄せた。白い体がそちらへ移ると、リコはようやく木綿を持ち上げられた。
ナギの指が離れた。
彼女の手元に残った布を、どちらも少し見ていた。
「こっちで、預かっておく」
リコは手の届かない上の棒へ掛け替えた。乾いたら自分の部屋へ持っていく。まだ返していない、と考えると、たった一枚の布が妙に大きく見えた。
床ではポルが、替えの布を丸く寄せている。
真ん中へ収まる前に一周し、リコとナギの靴をそれぞれ押してから、ようやく腰を落とした。
「私たちも、邪魔だったんだ」
リコが言うと、ナギは靴を少し引いた。
二人の間にできた小さな場所で、橙色の耳がゆっくり伏せられた。




