16. 世話係の見習い日
桶を抱えたまま、女性が二つの棚を見比べていた。
「いつもの方、というのは」
短く切った髪の下で、眉が少し寄っている。二つ折りにした袖口は、まだ乾いていた。
ネリは奥の水槽から振り返り、すぐそばの棚を指した。
「そこの、下。洗う方を右へ」
「私から見て、右ですか」
リコも桶の横から見た。棚には、同じ色の籠が二つ並んでいる。ネリの立っている方からなら、近い側が右だった。今ここにいる三人からは、反対になる。
女性は桶を勝手に置かず、入口脇の台へ下ろした。
「先に、教えてください。市場だと、返ってきた道具は全部一か所へ集めるので」
ネリが水槽の蓋を確かめ、手を洗って戻ってきた。
今朝から交替の練習に来た人だった。昨日の掲示に名前だけ見ていたリコへ、女性は空いた手で挨拶した。
「ソヨです。普段は市場で道具の貸出しと、空箱の受取りをしています。生き物の世話は、したことがありません」
祭りの補助に入る日は、市場の勤務も交替してもらってあるという。貸出所を空にして来た人ではなかった。
「今日は、洗った物と、まだの物を分ける所から。ごめんね、ここではいつも同じ所だから」
ネリは二つの籠を少し離した。リコは入口側から見た棚を描き、まだ洗っていない、と片方へ書く。
「きれいな方、って書こうとしたけど、濡れてると、私にも分からない」
「見た目で決めなくていいようにしよう」
ネリは、使用済みを戻す札を手前へ向けた。
ソヨが持っていたのは洗う前の空桶だった。三人で行先を確かめると、彼女は今度は迷わず棚へ置いた。
*
練習に使う台の上には、生き物のいない容器が載っていた。
ネリはまず、今日頼みたい物を三つの場所へ分けた。指定された水を、蓋を閉めたまま運ぶこと。使い終わった空の用具を戻すこと。人が来たら、世話をする側へ入り込まないよう案内すること。
「餌を選んだり、水槽へ水を足したりするのは、ここには入れていません。違って見えることがあったら、そのまま呼んで」
ソヨは一つずつ、受け持つ方へ札を寄せた。
「私は、容器の中に手を入れない」
「うん。生き物を移す時も、担当に渡すところまで」
リコは、水を運べることと、水を替えられることを別の欄へ書いた。夜の片づけで自分が尋ねたのと同じように、ソヨも蓋の閉まった容器の置き場を確かめている。
ナギは台の横で、留め帯の取扱いを説明した。
「荷を持ち上げる前に、これを逃がして、返す時に――」
「何を、どこへ逃がすんですか」
ソヨに聞かれて、ナギの手が止まった。
リコも紙へ、逃がす、と書きかけていた。帯にそんな名前の部分があっただろうか。
「ごめんなさい。持ち手の前へ垂れている、余った端です。ここへ寄せます」
指された場所をソヨが見た。ナギは先に実物を動かし、それから彼女へ代わる。
空荷で持ち手を確かめると、ソヨの手袋には帯の端が当たらなくなった。
「最初から、そう言ってくれたら分かりました」
「はい」
ナギは手順の紙へ文字を足した。リコがその下へ小さく帯の絵を描くと、彼は余っていない方へ線を伸ばしかけた鉛筆を指で止めた。
「そっちは、ほどかない」
「絵でも?」
「絵だから、間違うと困る」
ソヨが笑った。ネリも口元を押さえ、三人の紙を横からのぞいた。
*
青緑の前掛けを着けた補助者が、用具の確認を終えて戻ってきた。
ミナト輪まで見本の魚を連れてきた女性だった。今度は自分が残る側として、祭りの当番表を開く。
「ネリさんが離れる時間は、私がいつもの区画を見ます。ソヨさんは、ここと、外の受渡しをお願いできますか」
彼女が見るのは、普段から扱っている生き物の槽だった。初めて触れる別の槽まで、その日にまとめて任せる計画ではない。
「私からも分からない時は、中央の作業場にいる飼育の当番へ。すぐ来てもらえなければ、展示を休みます」
連絡先の欄が、ネリの名前だけでなくなった。
リコは、休むという言葉を聞いて当番表から顔を上げた。ネリはすぐには何も言わず、中央の担当の勤務時刻を確かめていた。
「その間、見に来た人は?」
ソヨが尋ねた。
「入って待たせず、外の案内を替えます。まだ開け直す時刻が分からなければ、分からないと伝えてください」
ネリは小さな札を机へ置いた。こちらは休止、こちらは再開する時刻を書き足せるもの。何事もない時に並んでいると、少し間の抜けた看板だった。
「せっかく来たのに、って言われそう」
「私も、言われます」
補助者が言うと、ソヨは彼女を見た。
「慣れます?」
「残念そうな顔を見るのには、あまり」
ネリが札の端を押さえた。
「開けていて大丈夫か分からないまま、見てもらうよりは。声が届かなかったら、リコさんにも手を貸してもらおう」
リコはうなずいた。新しい回の約束まで自分で付けないことも、札の裏で確かめた。
時刻を空けておいた札を、ソヨがもう一度手に取った。
*
午後には、何も入っていない練習用の容器で、交替を試した。
リコが見物人の役をする。ソヨは用具を受け取り、補助者へ渡す。ネリは少し離れた机へ座り、口を出す前に、一度待つことになった。
「もう一回だけ、見せてもらえませんか」
リコが言うと、ソヨは何もいない容器を見た。
「この中の、何をでしょう」
ナギが後ろを向いた。肩が動いている。
リコは見物人の顔を崩さず、もう一度頼んだ。
「さっきのが、隠れちゃったので」
「今は確認しているところです。開け直せる時刻は、まだお知らせできません」
ソヨが札を前へ出した。リコはそこで役をやめ、札の文字が手で隠れていたと伝えた。
次は、空桶の返却先をわざと違う所へ置いて尋ねる練習だった。
ソヨは持ってきたナギを止め、札を指して行先を確かめる。さっきより早かった。しかし二つ目の用具が続けて来ると、どちらを先に戻すか分からず、両方を抱えそうになった。
「一つ、ここへ置いていい?」
聞かれて、ネリが立ちかけた。
補助者が先に、清潔な物を置く台とは別の返却台を示した。ソヨはそこへ下ろし、手を空けてから次を受け取った。
ネリは椅子へ座り直した。その時、足元にあった自分の籠へ指が触れたが、中の物は出さなかった。
終了後の机には、直すところのある紙が三枚残った。
リコはそれを一枚に詰め込まず、棚のところ、荷を持つところ、客の前、と置く場所で分けた。
「遠くの紙を読みに来る間、手が止まるので」
ソヨが言い、紙を使う場所の高さも一緒に決めた。ネリは、いつも自分が立って見る位置より少し手前へ、棚の図を下げ直した。
紙を留める物を取りに行こうとした時、ソヨが自分の袋を開いた。短い紐を通した、平たい木の挟み具がいくつも入っていた。
「市場で使ってる余りです。ここで試してもいいですか。置くと、桶と一緒に持っていっちゃうので」
ネリが使ってよい場所を示す。ソヨは棚の縁へ紙を留め、手を離した。入口から来る風に端がめくれても、落ちなかった。今度は水の通る側へ出ていないか、下から確かめる。
リコは、押さえるために置いていた小石をよけた。ソヨの手は、さっき容器の前で止まっていた時とは違う速さだった。
「これなら、紙を探さなくて済むね」
「引っ張りすぎると破けます。外す時は、ここを持って」
今度はネリが教わる方になった。指を添える場所を聞き直し、紙を外して戻す。ソヨは手を出さず、横で待っていた。
戸口へ、用具を返しに来た職員が顔を出した。
「もう、こちらへ置いていい?」
ソヨがネリを見た。ネリはうなずき、職員が持つ空箱の札を一緒に確かめる。空箱は正しい側へ置かれ、控えも濡れずに渡った。
職員が帰ったあと、ソヨはリコへ小さな声で尋ねた。
「今のも、練習でした?」
「違うと思う」
「私、さっきから全部、試されてるのかと」
ネリが笑って首を振った。ソヨは袋の口を閉め、やっと大きく息を吐いた。
*
翌朝、ソヨは桶を抱えて立ち止まらなかった。
まだ洗う前、と声に出し、札のある返却棚へ置いた。そのあとに、手を洗う。リコは何も尋ねられなかったので、紙の端を押さえていた手を離した。
昨日より早く、空いた桶が所定の場所へそろった。
けれど水の容器の札が裏返っていた時は、ソヨは持ち上げなかった。ネリを探す前に補助者を呼び、札と行先を読み合わせる。呼ばれた側も、急がせずに蓋と外側の表示を確かめた。
「これは、こちらで受け取ります」
補助者が言うと、ソヨは渡してから戻ってきた。
「全部聞かずにできる方が、助かるんでしょうけど」
「今のは、聞いてもらってよかった」
ネリはそう答え、裏返りやすかった札の掛け方を確かめた。ソヨだけが覚えることを増やさず、同じ所で次の人も迷わないよう向きを直す。
昼前、ナギが台の控えを確認しに戻ってきた。
空荷の試験を済ませたものを、また持ち上げかける。ソヨが机の端を指した。
「それ、終わった時刻をここへ書いてくれましたよね。次は別の台だと聞いてます」
ナギは自分の字を読んだ。
「そうだった。ありがとう」
今度は持ち手を握らず、次の紙を取った。リコは彼の通る分だけ椅子を引いた。
練習を終える時、祭りの一時間をどこで空けるかは、まだ決めきれなかった。朝の世話と、展示の戻し方が残っている。ただ、その一時間のために何人が必要かは、空欄でなくなった。
ソヨは市場へ戻る時刻を確かめた。
「残りは、明日の私に全部足さないでくださいね。向こうも、返ってくる箱が増えるので」
「うん。ここまでを、頼みたい」
ネリは受け持つ欄の外へ線を引いた。
ソヨはその範囲を見てうなずき、使った紙を棚の下へ戻した。
*
湯呑みが、三つ並んだ。
練習が終わり、補助者が通常の仕事を引き受けている短い間だった。リコとナギが用具を片づけて戻ると、ネリは自分の分へ両手を添えていた。
「熱い」
小さく言い、まだ飲まずに置く。
戸の向こうで器を動かす音がした。ネリの目がそちらへ向いたので、リコもつられて見た。補助者が棚の図を確かめ、ソヨが分けた空の用具を受け取っている。
呼ぶ声はしなかった。
ネリは湯呑みを持ち上げた。ふう、と息を吹き、少し飲む。湯呑みを下ろすと思ったら、両手で包んだまま、もう一度口を付けた。
「いつも、飲もうとすると冷たくなってるのに」
ナギが自分の茶をのぞいた。
「今日は、急がなくても冷めないうちに飲めそうです」
「急ぐと、舌を焼くよ」
ネリに言われ、彼は口へ持っていきかけた湯呑みを下ろした。
リコは笑った。ネリも声を出し、そのあとで、茶の表面をゆっくり揺らした。
まだ熱かった。




