14. 水桶を並べる午後
空の桶は、重ねると軽そうに見えた。
リコが上の一つを抜こうとすると、下の桶まで付いてきた。縁同士が引っかかっている。横でナギが下を押さえ、リコが少し傾けると、ぽん、と間の空気が抜けた。
「今の音、いっぱい入ってそうだった」
「入ってたのは空気だよ」
笑いかけたところで、戸口から別の桶が運び込まれた。こちらには水がある。運んできた男性は、台へ下ろしてからようやく息を吐き、蓋の上に載せた札を配分係へ渡した。
「洗い場の分、これで最後です」
「次は畑へ。西の口からお願いします」
貯水場の仕事は、祭りの相談を待っていなかった。
浮島の下に雲海があっても、そこから必要な水が桶へ湧くわけではない。島に降った雨などをため、人の暮らしや畑、飼育場へ配る。雨の多い町でも、今日使えるのは、今までに集めてある分だけだった。
*
週が明けた午後だった。
ネリは午前中に飼育の記録を確かめ、中央と二つの小展示に必要な水を書いてきていた。リコは紙を継いだ会場図を、濡れていない台へ広げる。隣には、祭りの主催を担う茶色い上着の男性も座った。
配分係は、灰白の髪を短く刈った女性だった。長い前掛けの裾を膝へ折り上げ、壁の目盛りを見てから帳面を開く。
「雨が来る前提の分は、外してありますか」
「今ある水で相談したいです」
リコが答えると、女性は机の向こうを指した。壁際には、大きさの違う桶が並んでいる。
「飼育場で使っているのは、どれ?」
ネリが二つ示した。見物用の槽へ入れる水と、用具を洗う時に使う水では、数える桶も違っていた。女性は帳面で量を合わせ、ここで使う桶なら何杯かを書き添えた。同じ大きさの見本を台の前へ出し、一杯に一つの印を床へ描く。祭りへ回せる最後の印の先に、白い線を引いた。
桶は空のまま、必要な水の分だけ札が入っていく。水を全部ここへ運び出すのではなく、どの仕事に何杯要るかを、桶と札で並べて見せているのだ。リコは大きな方の取っ手を持ち、中央と書いた札がこちらを向くよう置いた。
朝、昼、午後。
大展示の三回分を並べたあと、ネリは返送と洗いの札を足した。ルダの所には生き物の小槽、別の軒下には水だけの見本。その後にも、洗う分の札が一枚ずつ残る。
「これで、全部です」
ネリが手を離した。
最後の桶は、線の外に半分出ていた。
「祭りの予備から、回せる分はありませんか」
言いかけたリコへ、配分係が首を振る。
「使ってよい予備も、この線の中へ入れてあるの」
「これ以上は、ほかの分になるんですね」
女性は叱る声ではなかった。別の札を拾い、通りかかった運び手へ渡す。洗濯に使う水の受取時刻を、少し早められるかという話だった。
戸の外で、籠から白い布を取り出している人がいた。まだ畳まれたままの袖が、籠の縁へ掛かっている。
「祭りを増やすなら、どこかが待つことになります。昨日降った分は、もうこちらへ入れてある。次の雨まで数えるのは、今はできません」
*
リコは桶の前へしゃがんだ。
中央の昼という札が、ちょうど目の高さに来る。初めて大水槽を見た日、親子が魚を待っていた場所を思い出した。途中で仕事へ向かった父親も、本番なら座って見られるはずだった。
「回数を減らしたら、どうなりますか」
ネリは、朝と昼の間へ手を置いた。
「今回の大展示は、短い回が終わるごとに、生き物を飼育側へ戻します。ずっとここへ置いて、客だけを入れ替える予定にはしていません」
彼女の指が、戻す、洗う、次を用意する、の札を順にたどる。
「昼をやめれば、昼の展示槽を用意する水と、その回の搬送や洗いの分が減ります。ただ、帰った生き物の世話は要る。飼育場の水を、そのまま小展示へ渡せるわけではありません」
「朝から午後まで、入れたままにするのでもなくて」
「ええ。午後は、午後に出せるものを確かめます」
リコは昼の札へ触れた。まだ抜かずに、主催の男性を見る。
「中央を、朝と午後の二回にできませんか。その分で、近くの人が寄れる小さい所を残したいです」
男性は、会場図ではなく自分の帳面を開いた。
「昼の席で、先に話をしている店があります」
「朝か午後へ移ってもらう相談は」
「できます。ただ、そちらにも予約があります。昼の方を全員入れるとは言えません」
リコは、椅子を探しに来ていた店の男性の手を思い出した。札を見つけた時の、あの手の上げ方だった。
桶の位置を変えるだけなら、一人でできる。あの人の昼休みを、こちらから朝へ寄せることはできない。
「その説明も、必要ですね」
「私から店へ話します。受けられない条件があれば、実施しない分の精算も。それを済ませずに、新しい席の札は出せません」
リコはうなずいた。うなずいたからといって、昼という文字が軽くなるわけではなかった。
*
ネリが札を外し、配分係が帳面へ計算を書いた。
リコは空いた桶を壁際へ戻す。運び手が通るのを待ち、一つを置いてからもう一つ取りに戻った。
並べ直した小展示の桶も、まだ線へ触れていた。
「この二か所を、朝から夕方まで続けることはできません」
ネリは、ルダの札へ指を添えた。
「こちらは初日の午後に短く一回。生き物はルダさんの世話場から出して、終わったらすぐ戻す。別の所へ連れて回ることはしない。この案で、本人に確かめたいです」
「水だけの方は?」
「こちらも、見せる時間を決める。使う水と、終わった後の扱いを、担当する人と合わせます」
配分係は札を書き直し、残った桶を数えた。
「この範囲なら、生活の分を移さずに出せます。会場が増えたり、時間が延びたりするなら、また持ってきてください。余りそうだからと、よその札まで外さないように」
主催の男性が、自分の図へ二つの枠を作った。
許された水の範囲はできた。けれど、二つの空欄には、まだ誰も名前を書いていなかった。
*
貯水場を出ると、さっきの白い布が、もう干されていた。
袖を広げた風が一度、リコの前を通った。足を止めてよけると、干していた人が籠を引いてくれる。
「ありがとう」
礼を言うのが重なった。
リコは少し笑って、その間を抜けた。ナギは会場図の端を折らずに持っている。大きい紙が、彼の膝へ時々当たった。
「持つ?」
「次の角までは、僕が。そこから頼んでいい?」
リコはうなずき、角に着くと両手で紙を受け取った。
飼育場へ戻る道で、ネリが小展示用の受枠を確かめに寄った。入口の槽で使う小さい据置枠には、貸出しに回せる予備があった。大きな吊枠の部材が届くのを待たずに、低い台へ置く案を試せる。
ナギは、底を支える位置と留め具を見た。台へ固定する部分を図へ写し、閉じていた手帳を開き直す。
「ルダさんの台で合わせてから決めたい。受枠だけでなく、置く側も確かめます」
「日よけの方は?」
リコが尋ねると、ネリは図の軒を指した。
「既存の屋根の下へ収められるなら、広げる足を減らせます。ただ、日の向きと雨樋は、現地で。世話の出入口を塞いでまで入れません」
小さくなった荷は、ひとまとめに運ぶ組でなくても扱える可能性がある。ナギと地元の用具係で前日に設置できるか、担当同士で時刻を確かめることになった。水や生き物を載せて運ぶ日は、その後で別に決める。
リコはその案を、ルダへの相談票へ書いた。手伝う人の予定も、もう一度聞かなければならなかった。
*
夕方、主催の机には、昼の回へ来る予定の店の一覧が出ていた。
返事を待っていたのは、リコたちだけではなかった。入口の長椅子に、前に中央で席の札を探していた男性がいる。膝へ載せた小さな包みから、紙の傘がのぞいていた。
「店先に出す分を、もらいに来たんです」
目が合うと、男性は包みを少し持ち上げた。主催の机で話があると言われ、そのまま待っているのだという。
リコは隣へ座らず、まず用件を伝えた。中央を朝と午後の二回に減らす相談をしてきたこと。昼の予定を変えてもらう話が出ること。男性は聞き終え、包みの口を折り直した。
「午後だと、うちは店を開けるんですけどね」
リコは足元へ視線を落としかけた。それでは、誰の都合を聞いているのか分からなくなる。顔を上げたまま、はい、と返した。
「交替できる人もいます。でも、皆ではない。昼なら全員が一緒に抜けられるように、店を閉める話をしたんです」
膝の上の傘を、男性の親指が一度押さえた。
主催の男性が席を空けた。リコは端へよけ、二人が話せる場所を作る。振替先を決める前に、店へ戻って皆に聞きたい。返事を待つのは明日まででよいか。話は簡単には終わらなかったが、誰も声を大きくしなかった。
店の男性は、帰り際に紙の傘を一つ包みから抜いた。
「これは、持っていっていいんでしょう」
「もちろんです。店先の分は、予定どおり」
許可を聞くと、男性は残りを包み直した。傘の先が折れないよう、口を閉じきらずに持っていく。祭りそのものを嫌いになって帰るのではないことが、リコには少しつらかった。
ナギが入口まで椅子を戻し、机の前を空けた。
主催の男性は、話の途中で付けた印を一覧へ書き移した。
「中央は二回へ変更する。そのうえで、小さい二案を、今日の水の範囲で進めましょう。設営と、相手の返事がそろえば告知へ入れます」
男性は言ってから、昼の欄へ線を引いた。リコが勧めた変更でも、署名するのは彼だった。
「この分は、楽しみにしていた人へ届くように知らせたい。新しい催しを大きく書いて、昼がなくなったことを隅へ寄せないでください」
「はい。最初に書きます」
リコは新しい紙を取った。
晴天祭りのお知らせ。その下に、中央展示、昼の回は行いません、と書く。書いた文字を見て、筆先が止まった。昼しか来られない人に、どこを見て帰れると約束できるだろう。
ナギが、横へもう一枚置いた。ルダの名前と、確認する項目のある紙だった。
「こっちは、明日の返事を聞いてから」
「うん」
今夜はまだ、二枚を一つにしなかった。
ネリも紙の端を持ち、ルダの所の終了時刻を確かめた。夕方に見回りを渡す前に、生き物を世話場へ戻す。その時間が残るなら、本人と手伝う人が考えられる案になる。
「この短い回でも、あの子が葉の裏にいたら、見えないまま終わる人もいますね」
リコが言うと、ネリは紙から顔を上げた。
「そういう日もあります。出てきてくれる約束までは、私も取れません」
「案内に、大きく描きすぎないようにします」
ネリの口元が緩んだ。
リコは小さな背を思い浮かべながら、説明をもう一行足した。葉の裏を、ゆっくり探してみてください。まだ誰にも渡さない相談票に、その一行だけは少し楽しみに書けた。
リコは主催の男性に確かめてもらう方を渡し、もう一方を鞄へしまった。明日は坂の先まで、自分の靴で歩いて届けるつもりだった。




