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13. 空に一つ、水に二つ

「どっちに餌をあげるの?」


 水槽の前で、小さな女の子が首を傾けていた。

 雨帽子を脱いだばかりの髪が、耳の上で跳ねている。隣の母親は、その帽子と買物籠を片手へまとめ、娘の指した先をのぞき込んだ。


 銀色の魚が二匹、同じ向きに泳いでいた。

 片方が葉の陰へ入ると、もう片方も隠れる。尾を振る間まで同じだった。


「一匹だよ。こっちは、鏡に映ってる」


 ナギが低く腰を落とした。槽の脇には、ネリが裏側を確かめるために使っていた小さな鏡が、まだ立ててある。指で示した途端、その指も向こう側へ一本増えた。


「お兄さんも二人いる」

「じゃあ、片方には荷物を持ってもらおうかな」


 リコが言うと、ナギは空いている自分の手を見た。


「僕が持たないと、持ってくれないよ」


 女の子が鏡へ手を振った。母親も、つられて指を動かした。

 魚は二人の挨拶に応えず、葉の裏にとどまっていた。


     *


 昨日の午後、主催から受け取った資料には、周辺の会場ごとに、まだ届いていない部材が書き込まれていた。


 リコとナギは今朝、その紙を持って飼育場へ来た。ネリの仕事が区切れるまで、前に教えてもらった見学側の通路で待っている。雨は明け方にやみ、薄い日が水槽の台へ差していた。


 ミナト輪からの便りも、朝の通常便で届いていた。

 マレの字で、アカリの町の提出用の記録がそろったとある。週明けに出す予定で、見直しはその翌週。次の便を出せるという知らせではなかったが、リコは日付を二度見てから、受け取った旨の返書を戻り便へ預けた。

 鞄には、その便りも入っている。離れた所で、自分たちの持ち帰った紙を広げている人がいる。


「出てきた」


 女の子の声で、リコは顔を上げた。

 銀色の背が、葉の隙間を通っていた。水槽を支える枠のそばまで来ると、背中に細い青が見える。


「お母さん、青いよ」

「どこ?」

「もっと、こっち」


 母親が首を伸ばした。女の子は違うと首を振り、今度は膝を曲げて見せる。母親も買物籠を下ろしてしゃがんだ。


「ああ、ここね」


 リコも少し屈んだ。さっきまで水面の光に重なっていた青が、魚の動きにつれて、短くほどけた。

 小さい水槽だった。中央のように、広場の向こうから人を引きつける大きさではない。そのかわり、女の子の指のすぐ先にあるものを、リコも同じ高さで見ることができた。


 ネリが、乾いた布を持って戻ってきた。

 鏡を片づけ、台に落ちた水を拭く。その間も女の子は動かず、葉陰へ消えた魚を待っていた。


「さっきの青い所、もう一回見たいんだって」


 母親が言うと、ネリはうなずいた。


「そこからなら、出てきた時に見えますよ」


 仕事の説明をしている時とは、少し違う声だった。

 リコはその声を聞きながら、昨日写した市場の道の線を、手帳の中で探した。


     *


 親子が帰った後、三人は隣の作業台へ移った。


「ルダさんの所も、低い台でしたね」


 ネリが資料の一枚を引き寄せた。リコが描いた門と樋の線も、その脇へ並ぶ。


「あの台で、さっきみたいに見られたらと思ったんです。中央へ行く時間がなくても、仕事の合間に寄れる人がいるなら」

「置ける大きさの槽を選べば、目の高さは近くできます。枠も、大展示と同じものは要りません」


 ネリは図の低い台を指した。


「ただ、大きい槽にいるものを、そのまま小さく詰めることはしません。何を、どのくらい見せられるかは、こちらで確かめます」

「ルダさんが見せてくれた子も、ですか」

「あの葉の裏の子なら、ルダさんと相談したい。いつも見ている人ですから」


 リコは小豆ほどの背を思い出した。大きな会場の後ろの席からでは、葉と一緒に見失うだろう。

 けれど、ここへ来る人が皆、魚の青い線を待っているわけでもない。中央では、知らない人と同じ瞬間に声が出た。あの楽しさも、なくしたくはなかった。


「中央と、同じ見せ方じゃなくていいんですね」

「私も、魚の数ばかり聞かれるより、何色だったか話してもらう方が楽しい時があります」


 ネリは、母親が籠を置いていた所へ目を向けた。


「低い所は子供に見やすいけれど、ずっと屈むのはつらい人もいます。座って見られる位置も、残せたら」


 ナギが作業台の下をのぞき込んだ。膝を入れる場所を見ていると分かり、リコは紙を押さえる手を少しよけた。


「まず、空の見本で高さを試せますか」

「生き物を入れていない小さいのが、二つあります」


 ネリは、魚のいる槽とは別の棚へ向かった。


     *


 持ってきたのは、底の丸い透明な容器と、それぞれに合う木の受台だった。

 ナギは側面の留め具を確かめ、一つは低い台、もう一つは普段の作業台へ据えた。空のまま置き場所を替え、座った時に足と台の脚がぶつからない所を探す。


 リコは椅子を借りて座った。


「こっちは、前がほとんど木」

「待って。容器を上げるより、枠のこちら側から見た方が」


 ナギが、自分の立つ位置を空けた。

 リコが椅子ごと移ると、丸い底の奥まで見えた。試しに身を起こしてみる。今度は縁の向こうへ、ナギの胸から上が入った。


「ここなら、座ったままで見られる」


 ネリも椅子へ掛けた。水を替える側から手が届くかを確かめ、用具を置く空間を示す。ナギはその位置へ荷物を置かないよう、床の継ぎ目を紙に写した。


 場所が決まってから、ネリが見本用に取り分けた水を注いだ。

 外側の低い台に、小さな空ができた。容器に入ったのは水だけだ。丸い透明な壁と水を通して向こうを見ると、景色の形や大きさが変わる。赤い屋根や人の指を動かせば、その見え方も試せる。


 リコは鞄から赤い紙の切れ端を出し、二つに折った。昨日の資料の余白に印を付けるために挟んでいたものだ。


「トウマさんの屋根は、まだ借りてないから。今日はこれで」


 水へ入れず、向こう側へかざす。赤い三角は、丸い面を通すと、ひどく横に広がった。


「パン屋が、大きくなった」

「これなら、リコも困らないね」

「私を住まわせるつもり?」


 ナギが笑った。リコも笑いながら、紙をもう少し横へ動かす。二人でのぞき込んだ模型のパン屋は、今もトウマの工房にある。実物の小さな屋根を借りるなら、置く場所を確かめてもらわなければならない。


 ネリが見学側へ回ってきた。


「水だけの見本なら、こちらで屋根を動かしてもらえますね。魚が出てくるのを待つのとは、別の遊びになる」

「こっちは、自分で景色を変えられる」


 リコは赤い屋根をナギへ渡し、椅子へ戻った。

 屋根は空へ上がり、ゆっくり、窓のように見える水の向こうへ下りてくる。途中でナギの指が入り、パン屋より大きな柱になった。


「その家、入口が塞がってる」

「今、開けます」


 指が屋根の端へずれた。赤い屋根の下を、明るい雲が通った。


     *


 昼前、二人は空の用具箱を持ち、飼育場の門から坂の手前まで歩いた。


 客だけなら通れる段が、用具を持つと邪魔になる。前にネリと確かめた回り道を通り、時計を見て戻った。水や生き物を載せた所要時間にはできないが、何も持たずに歩いた時間よりは、次の人へ渡せるものが増えた。


 作業場へ戻ると、リコは描きかけの図へ別の紙を継ぎ足した。

 中央から西へ一本の線を引くだけでは、用具箱を持ったナギが、途中から世話の通路へ入れない。別の色で裏へ回る道を足す。まだ歩いていない所は途切れた線にし、ルダの先に見えた軒下には、持ち主へ確認、と添えた。


「ここで一度、座れるといいな」


 低い台の脇へ、椅子の印を入れた。


「さっきの女の子、お母さんにも、同じ所を見せたかったんだと思う」

「一人で見つけると、場所を教えるのが難しいね」


 ナギが図の端を押さえた。リコは親子と同じ高さへ屈んだ時の、魚までの近さを思い出した。


 案は二つに分けた。ルダの所では、少人数で生き物を観察する。別の軒下が借りられるなら、水だけの見本で、景色の変わるところを見る。どちらも丸の中に候補と書いた。遠くまで歩ける人だけの順路にせず、一か所で見て帰る人にも入口が分かるよう、通りの側へ短い矢印を付ける。


 次に、見せ終わった後の欄を作った。

 槽を戻す。世話をする。用具を片づける。それから次の持ち場へ移る。ナギと時計の記録を見ながら書き込み、その間は同じ人が別の場所の担当にならないよう、線を空けた。


 昼の仕事へ戻るネリを呼び止めず、二人で続きを書いた。彼女に確かめてほしい所だけ、紙の端へまとめておく。

 休む人と、その間に引き継ぐ人の名前は、まだ決まらない。そこへ次の展示を詰めず、リコは、交替の返事を待つ、と書いた。


     *


 午後、ネリが戻ってきた時、紙は朝より大きくなっていた。


「これ、一枚で持てます?」

「折る場所も、これからです」


 リコは両端を寄せかけ、ナギが押さえている側まで引っぱった。彼が手を放すと、今度は真ん中が持ち上がる。ネリが空の杯を端へ置いてくれた。


 彼女は移動と片づけの欄を読み、休憩の所で止まった。


「ここは、休む場所も書いておきたいです。持ち場のすぐ横だと、つい手が出るから」


 ナギがうなずいた。リコは彼を見たが、今度はからかわず、作業の道から離れた所へ、小さな四角を足した。使えるかは、主催と持ち主に確かめる。


 それからネリは、水の欄へ指を移した。


「見せる水は、小さい一個なら少なくできます。でも、洗う分と、戻った後の世話にも要ります。水だけの見本も、ただにはなりません」


 リコは中央の紙を隣へ置いた。大水槽の予定は、そのまま残っていた。

 小さいものを二つ足した図は、朝より軽やかに見える。水の欄へ書き出すと、増えた分は消えなかった。


「これと中央を一緒に、水を配る人へ見てもらいたいです」

「明日なら、私も行けます。必要な分を調べておきますね」


 ネリは自分の控えへ、二つの候補を書き移した。開催日を書く所には、まだ線を引かなかった。


 片づける前に、リコは低い台へ戻った。

 二つの見本の水面に、白いものが浮いて見えた。顔を上げると、雲は一つだった。作業台の容器には細長く、椅子の前の容器には丸く、違う形に切り取られている。


「ナギ、ここ」


 片づけかけていた椅子を戻し、リコは横へよけた。

 ナギが座るまで、赤い紙の屋根を、水の向こうに持っていた。


挿絵(By みてみん)

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