12. 雨の日の切手交換
傘の市場で、誰も傘を見ていなかった。
濡れた石畳に面した店先には、大小の傘がきちんと並んでいる。その奥、屋根をつないだ通りの長机に、人の頭が寄っていた。袖を白い紐で上げた女性が、机の真ん中へ札を立てる。
切手交換会、とあった。
「傘屋さん、大丈夫かな」
「入口で売れてたよ」
ナギに言われて振り向くと、雨を避けて入ってきた男性が、新しい傘を畳んでいる。代わりに、手に持っていた小さな紙箱を大事そうに開けた。
朝から雨だった。
外での下見は、晴れ間を待つことにした。昨夕の主催との相談結果と、雨で下見に出られないことは、朝の連絡便でルダへ伝えた。昼前に受取の控えが戻り、リコは約束した連絡の欄へ印を付けた。場所も便も、決め直せたわけではない。
午後に主催の所で資料を受け取るまで時間が空き、宿で聞いた交換会へ来てみた。紙を乾いたまま眺めるには、傘の町はなかなか都合よくできていた。
「見るだけでも、いいですか」
リコが尋ねると、札を立てていた女性が机の端を空けた。
「もちろん。持ってきた物があれば交換も。私は会の世話をしてます。あちらの紙袋は、重なった切手を集めたもの。少し買って、交換に入る人もいますよ」
三枚ずつ入った小袋が、箱の中に並んでいた。どれも使い終えた切手で、黒い消印が絵にかかっている。手紙に貼ってもう一度送るためではなく、図柄を集めて楽しむものだ。値段は箱の前に書かれていた。
リコは自分の小銭入れを出した。
「一袋、お願いします」
「僕も」
ナギの返事が、すぐ横から重なった。
こういう時、迷わないんだ、とリコは思った。
*
リコの袋からは、黄色い花と、実を盛った籠と、灯台が出てきた。
灯台の上には黒い丸が半分かかり、光の線が一本だけ外へ伸びている。ナギはそれを見て、あ、と短く言った。
「欲しいの?」
「灯りの所が、横へ開く形になってる」
「そこを見るのか」
ナギの三枚は、橋と風車と鳥だった。橋は細かく描いてあるのに、風車の羽は二本しか見えない。リコが不良品なのかと顔を寄せると、残りは横向きに重なっているとナギが指で示した。
「壊れてるのかと思った」
「回す前に、壊さないで」
リコは顔を上げた。その言い方を、どこかで聞いた。
ナギは机の切手を見ている。口元だけが少し上がっていた。
「それ、私が言ったのを覚えてたでしょう」
「傘は、まだ買ってないね」
買っていない。内側だけ青空の傘の値札も、まだ覚えている。
リコは笑いながら灯台をナギへ向けた。
「じゃあ、何と替えてくれる?」
彼は鳥をこちらへ寄せた。
枝にとまった小鳥の頭へ消印が斜めにかかり、太い眉のように見える。丸い腹には似合わない、ひどく気難しい顔だった。
「この子、何に怒ってるの」
「枝が短いからかな」
「それで私に渡すの?」
リコは鳥を引き取った。代わりに灯台を向こうへ押す。初めての交換は、二人ともさっきまで持っていなかった切手同士で、ずいぶん真剣に相談することになった。
*
隣の机から、帽子の大きな男の子がのぞき込んだ。
「その鳥、見てもいい?」
片手で帽子の前を持ち上げている。もう片方の手には、自分の切手を並べた小さな板があった。リコは鳥の下へ敷いていた紙を、彼の方へ滑らせた。
「おじさんに似てる」
「怒ってる時?」
「考えてる時。目をつぶってるから聞くと、寝てない、考えてるって言う」
リコは返事の途中で笑ってしまった。隣で切手を見ていた、襟に布の花を留めた女性も、顔をそらして肩を揺らした。
男の子は板の隅から一枚を取り、机へ置いた。お皿の上に、丸い焼き菓子が三つ載っている。
「これと替えない?」
菓子の割れ目まで描いてあった。リコは鳥と菓子を交互に見た。
「いいの? そっち、すごくおいしそうだけど」
「うん。二枚ある。こっちは、皿が全部見える方」
男の子は板のもう一枚を示した。そちらには消印が皿の端へかかっている。リコが迷っていると、鳥を見つめる目だけが、少し心配そうになった。
「この眉が、いいんだ」
「うん。私も、この菓子がいい」
返事をすると、彼はようやく帽子から手を離した。帽子が目へ落ち、慌てて上げ直す。鳥を両手で受け取る方が先だった。
リコは焼き菓子の切手を自分の紙へ載せた。
「ナギ、もう灯台には戻せないよ」
「戻さなくていいよ。今の方が、リコの顔に合ってる」
言われてから、口元を引き締めようとしたが遅かった。男の子が戻った先でも、大人が鳥を見て笑っていた。
*
同じ机にいた、灰色の胴着の男性が、小さな虫眼鏡を下ろした。
銀縁の眼鏡は鼻へ深く掛かり、その下に、切手を挟んだ台紙が何枚も重なっている。
「おじさんに似た鳥、という集め方は初めて聞いたな」
「何を集めているんですか」
リコが尋ねると、男性は橋の並んだ頁を開いた。
「私は橋。よく通る所も、見たことのない所も。これだけ渡れば、帰るのが嫌になるくらい歩ける」
ナギが自分の橋を見せた。
男性は眼鏡を持ち上げ、消印の位置を確かめた。それは既に持っていたが、手元のものには川の部分が隠れているという。交換を頼まれ、ナギは男性の重複分から一枚を選び始めた。
リコは、机の向こうの会話を聞いた。
赤い花だけ欲しい人がいた。全部の色をそろえたい人もいた。橋の男性に近くの石橋がいいと勧めると、隣の女性は、近いから毎日見ていると笑った。その人が選んだのは、行ったことのない島の窓だった。
「この窓、外へ開くんですね」
リコが台紙を指すと、女性はうなずいた。
「昔、友達が送ってきた絵に似てるの。向こうへ遊びに行ったら、この窓から顔を出すつもりでいるんだけど」
「まだ、行ってないんですか」
「お互い、休みが合わなくてね。この間はあっちが来て、うちの窓から顔を出したよ」
男性が小さく吹き出した。女性も笑い、切手を台紙へ差し戻す。窓の絵は、友達の絵と同じかどうか確かめるため、交換に出さずに持ち帰るという。
手紙を届けていると、切手は宛先のそばにある。
今日は、切手のそばから、知らない人の行きたい場所が出てくる。
ナギが迷っている間、男性は別の台紙も見せてくれた。花や葉を集めた中に、一枚だけ、青い丸のある古い切手があった。
青の横には、細い茎から葉の広がる植物が描いてある。丸と植物の周りを、細かな線が囲んでいた。紙は薄く黄ばみ、端の一か所が欠けている。
「これは、何の花ですか」
「花なのかどうかも、知らないんです。前の交換会で分けてもらいました。同じ組の植物を、ほかにも刷ったんじゃないかと思ってますが」
男性は花の頁へ並べた理由を、それ以上には言わなかった。
リコも見覚えがない。青い丸を上にして少し離れると、今度は植物の線の方がよく見えた。
ナギが身をかがめた。
「その、周りの線」
「どうしたの?」
「局の古いポストの模様に、少し似てる。この枝分かれした所。同じかどうかは、戻ってみないと分からないけど」
彼は台紙へ手を伸ばさず、男性を見た。
模様のある古いポストは、局で保管しているもう一つの設備だ。アカリの町で見た壁の投函口や、局の保管室にある旧仕分け口と、同じ物ではない。ナギが気にしているのは、外側に刻まれた線だった。
「図を写して、局で見比べてもいいでしょうか。詳しい人にも聞いてみたいんです」
「絵なら、どうぞ。切手は手元に置いておきたいので、ここで写してください」
男性は台紙を机の内側へ置き直した。リコは自分の切手を片づけ、乾いた場所を空ける。ナギが手帳から白紙を一枚出し、見える線を鉛筆で描いていった。
丸を塗り潰そうとして手を止め、その横へ青と書く。葉の途切れた所では、印刷なのか紙の傷なのか男性へ尋ねた。男性にも分からず、そこは線をつなげずに残した。
「こちらの方が、少し細いと思う」
リコが言うと、ナギは二本の線の間を空け直した。原物に触れずに見て描いた図は、切手の倍ほどの大きさになった。
男性は最後にその紙を見て、日付の横に、今日の交換会で見たもの、と書き添えるよう勧めた。ナギは会場も記し、男性へ礼を言った。
古い切手は男性の台紙へ残り、写し一枚はナギの手帳に挟まれた。
そのあとで、男性が笑った。
「さて、君の橋の相談が途中でした」
ナギが選んだのは、もう一枚の灯台だった。
リコは彼の紙を見下ろした。今朝までなかった二つの灯台が、風車を挟んで並んでいる。
「ずっと、見張られてるみたい」
「間に風車があると、灯りが隠れるな」
「切手の置き方まで、点検しなくていいよ」
*
机が少し空いた頃、世話役の女性がお茶の場所を教えてくれた。
「あっちの突き当たり。ただ、そこの段を下りると雨へ出ちゃうから、布屋の前で曲がってね」
リコは店の並びを見た。入口からは傘ばかり見えたが、奥に入ると、袋や紐を売る台もある。曲がり角に小さな案内板があった。店の位置と、雨に出ずに通れる道が、太い線で分けて描いてある。
「これ、借りて写してもいいですか」
「写すなら、ここでどうぞ。お茶へ行くだけなら、すぐだよ」
「あとで、道の図を作る時に。まだ、どこで何をするかは決まっていないんですけど」
女性は薄い板の裏を見せた。
「店が休みになる日は、紙を替えるの。傘を買いに来た人が、閉まった所ばかり巡ると困るから」
リコは自分の手帳へ、道の太線と、休みの札の位置だけを簡単に写した。案内板は女性が元へ戻した。
小展示の候補をいくつか見るなら、間の道も一緒に残しておきたい。会場の場所だけを丸で囲んだ図とは、違うものになりそうだった。
「回る道も描いてみようかな。決まってない所は、まだ載せないで」
「まず、僕たちが迷わずにお茶へ行こう」
ナギの方へ顔を上げると、彼は布屋とは逆を見ていた。
「そっち、雨」
「うん。分かった」
二人は同じ方へ歩き直した。
*
お茶の卓は、紙を広げられるほどには乾いていた。
湯呑みを遠ざけ、リコは焼き菓子の切手をもう一度見た。絵の皿は白く、端に細い赤い線がある。男の子の言ったとおり、皿が全部見えた。
隣の窓口で、実物の焼き菓子も売っていた。
「そっくりなのは、ないね」
「比べたんだ」
ナギが言ったので、リコは切手を指で隠した。
「お茶だけのつもりだったのに」
「それを見ながら飲むの?」
「ナギは灯台を見てれば?」
彼が笑った。結局、二人は小さな皿を一つ頼んだ。切手の絵とは形が違うが、まだ温かかった。
食べる前に、買った切手をそれぞれの袋へ戻した。リコは口を折り、鞄の内側へしまう。ナギも灯台を二枚並べ直してから袋へ入れ、手帳とは別の所へ納めた。
雨はまだ、屋根を細かくたたいている。
リコが菓子を半分に割ると、中から甘い実が一つ転がった。皿の縁で止まり、どちらの側でもない所に残った。
「交換する?」
ナギは自分の半分を見た。
「こっちは、もう持ってると思う」
リコは笑い、実を皿の真ん中へ戻した。次の一口までなら、もう少し相談していられた。




