10. 晴天の予約席
椅子には、もう客がいた。
背もたれへ結ばれた紙に、傘の店、食料品店、布問屋の名がある。風が通るたびに紙の端が持ち上がり、誰も座っていない列で、小さな返事をしているようだった。
中央広場では日よけの骨組みを組む作業が始まっていた。昨日まで別の場所にあった材木が運び込まれ、職人が、接ぐ順に地面へ並べている。展示担当の男性は、その脇で何度も図を開いた。茶色い上着の裾に木屑が付いている。
「席は、まずこの形で試します。通る幅を見て、後ろは調整するかもしれません」
先に借りてきた椅子が、六脚ずつ四列に並んでいた。
リコは列の端から、大水槽の方を見た。今は水を抜いて覆ってあるが、魚の背へ屋根が乗った場所を覚えている。あの時立ち止まった父親も、ここなら子供と腰を下ろして待てる。
「前の二列は、全部お店の名前なんですね」
「その後ろにも四つ。協賛先が招く方の分です」
リコは三列目へ回った。
四枚の札の横に、何も結ばれていない椅子が二脚あった。最後の列を合わせて、八脚。
昨日、協賛席の説明は聞いていた。
全体図の中では、一つの欄だった。
*
一般来場の受付を担当する女性が、案内板の文字を確かめに来た。短い鉛筆を耳へ挟み、まだ結び紐の付いていない板を両手に抱えていた。
「この八席を、展示の回ごとに受付で割り当てます。当日分は無料です」
「来たら、ここへ並べばいいんですか」
「先に受付へ。最初の回の分は、展示の一時間前からです。埋まったら次の回になります」
リコは受付予定の場所を見た。広場の入口に近く、水槽の前が列で塞がらない位置だった。
「席を取らずに、少しだけ見る場所は?」
女性は椅子の後ろへリコを連れていった。
ここからも水槽は見える。けれど座っている人の頭を越し、後ろの支柱の間をのぞくことになる。立ち止まれる場所にも限りがあり、その先は荷車と避難のために空けておく道だった。
「ここが混めば、いったん先へ進んでもらいます。ずっと見られる場所とは案内できません」
女性は板の文面を読んだ。
「『どなたでも、どうぞ』だけでは足りませんね。受付時刻も、ここへ入れます」
リコは返事をしかけ、やめた。
まだ紙のない八脚は、空いている八脚ではなかった。祭りの日には、そこへ座りたい人が来る。西側から来た人のために、その人たちをどかすわけにはいかない。
広場の向こうから、仕事着の男性が歩いてきた。札のある椅子を見て、展示担当へ片手を上げる。
「うちの店の分、ここなんだ。昼の当番が終わった者も呼べるな」
男性は列の間へ入らず、離れた所で、連れて来る人の数を指で確かめた。嬉しそうだった。
リコは、その笑顔を見なかったことにはできなかった。
*
ヴェルは、組み立てる人の通り道を避けて帳面を開いていた。
濃い青緑の上着の袖を少し上げ、背の擦れた革の帳面へ、港から来た控えを差し込む。リコが近づくと、彼は先に搬入の時刻を指した。
「予定した資材は動き始めました。組む人も、今日の仕事を空けています」
「席のことを、もう一度聞いてもいいですか」
ヴェルは帳面の間から、昨日の費用の紙を出した。招待席の条件も同じ紙にあった。折り返しに隠されていたわけでも、小さな字で紛れ込んでいたわけでもない。
「協賛する店が輸送費の一部を負担し、主催者が招待用の席を出す。その条件です」
「この分を、もっと当日来る人へ回すことは」
「主催者と店の双方が合意すれば、相談はできます。ただ、空いた分だけ費用も消えるとは考えないでください」
ヴェルは呼び止めた荷役係へ受領の印を返し、それから話を続けた。
「店の方では、招く相手へ声をかけています。条件を変えるなら、その説明が要ります。私の会社が運ぶものも、人を出す時間も、同じです」
リコは紙を受け取り直した。
協賛の欄を指で塞いでも、下の金額は変わらなかった。
「西側で予定していた人が、こちらへ来れば見られると思っていました」
「来られる方には、案内を渡しましょう。受付の回を選べるように」
「先に受付へ寄って、取れなければ次の回まで待つ。その時間を作れない人もいます」
ヴェルは西側の道へ一度顔を向けた。
「では、来られるとは書かない方がよいでしょう」
冷たい答えだと思った。
反論する言葉を探すより先に、リコ自身の控えが思い出された。西の担当者は、家を空けられる時間が短い人もいると言っていた。リコはその横に、当番の交替あり、と書いていた。
「私は、あの方たちも数に入れて、この案を勧めたんです」
言うと、ヴェルはすぐには答えなかった。
待つ間に、遠くで木槌が二度鳴った。
「私が示したのは、この会場を動かせる人数です。町の全員が同じように来られるという約束ではありません」
リコは紙から手を離した。彼の言葉に腹が立ったままだった。それでも、なかった約束を、彼のせいでなくなったものにはできなかった。
*
ナギが広場へ戻ってきた時、リコは椅子の数をもう一度数えていた。
「増えないよ」
自分で言うと、ナギはどれ、とも聞かず、隣へ立った。リコが予約の札と、受付の案内を順に示す間、口を挟まなかった。
「二十四人が座れると思った。間違いじゃないけど」
「うん」
「誰がいつ来られるかまで、二十四人分、考えたわけじゃなかった」
ナギは空の椅子を一脚見た。
「僕は、通路の幅を見てた。ここまで来る道は、リコと歩いたのに」
彼は、置いてあった案内板を起こして支えた。リコが読めるよう、明るい方へ向ける。
字は十分大きかった。読めないから届かないのではない。
展示担当が二人の方へ来た。
「変更の通知、午後に出します。ネリさんが西側へ行くと言ってくれたので」
「私も、行きます」
リコの声が、思ったより強く出た。
「西側の方のお話を聞いたのは私です。説明も、一緒にさせてください」
男性はリコの顔を見てから、通知の控えを渡した。
「お願いします。ただ、向こうで新しい便まで約束はしないでください。変えるなら、運ぶ人も含めて決め直したい」
「分かりました。決まっていることと、まだ返事のできないことを分けて伝えます」
紙を受け取ると、薄さのわりに、持って歩きにくかった。
*
中央への資材便とは別に、今後の小口搬送の変更票には、まだ確認が一つ残っていた。
祭り前の運航確認で来訪しているオルドが、港の事務所にいると、朝の連絡で知らされていた。ナギと下っていくと、揃った襟の下へ書類を抱え、ちょうど窓口を離れるところだった。
「運搬区間と、担当船の変更ですね」
航路の運航条件を確かめる監査官のオルドは、二人を脇の机へ案内した。以前と同じ小さな手帳を開き、変更票の路線の所を確かめる。
搬入を始めた資材便は、確認を終えた既存の枠だった。今度は、ヴェルの会社と二人の船がこれから受け持つ小口を分ける。積む物、使う設備、空けておく時間を、ナギが図で示した。
「旧棚を再開できる見込みを、確定した枠へ入れていませんね」
「はい。現地の確認が済むまでは、ここには入れません」
オルドは該当欄を読み、控えへ印を付けた。
「この区間の使用時刻は、港の回答を待ってください。その結果と合わせて確認を終えます」
追加の照合票が、港の担当へ渡された。
棚の修理、充填できる時刻、荷を載せて飛ぶ条件は、別々の確認だった。修理が済んだという一つの印で、便の変更まで認められるわけではない。
リコは会場の図も出しかけた。
「中央の席が、予約の分だけで――」
そこで言葉を切った。オルドは待ったが、紙へ手を伸ばさなかった。
「席を決める方へは、相談しましたか」
「はい。これから、延期する会場の方にも会います」
「では、運ぶ条件が変わる時には、その内容をこちらへ」
リコは図を鞄へ戻した。
誰かに、この案は間違いだと決めてもらえれば、昨日まで賛成していた自分も、そこから離れられる気がしていた。
港の外へ出ると、中央広場へ運ぶ幕の包みが、ちょうど二人の前を通った。人が力を合わせている、その真ん中を止めたいわけではなかった。
*
ネリは、世話を代わる補助者へ戻る時刻を伝えてから、通知を鞄へ入れた。
「リコさんも、来るの?」
「うん。私からも、話したい」
ネリは、同行するナギの手元へ目を落とした。今日は道具を出しておらず、手が空いていた。
「今日は、まず相手の話を聞こう。台を測るのは、そのあとで、頼まれたら」
ナギはうなずいた。
リコは宛名のルダという字を、もう一度確かめた。鞄には、返すために持ってきた台の寸法板も入っている。中央の希望数を書き込んだ自分の紙には、同じ場所が小さな四角で載っている。四角の脇に、西、と一文字。
名前を知らなかったわけではない。聞いた言葉も残している。書かれた都合を、あとから動かせるものとして扱っていた。あの人が先に交わした約束を、リコは知らない。
広場の横を抜ける時、昼前に見た店の男性が、同僚らしい人を連れて戻ってきていた。二人で椅子の札を探し、見つけると、手を上げて笑った。
リコは、今度はその方へ会釈した。
坂を一つ越えると、木槌の音が聞こえなくなった。
二つ目の坂には雨の流れた跡があり、ネリは遠回りの方を選んだ。用具を持つ日は、こちらを通るのだと前に教わった道だった。
低い屋根が見えた。
屋根の下では、小さな展示台に新しい布が掛けられていた。まだ何も載っていない。脇に置かれた椅子には紙の札がなく、畳んだ仕事着が一枚置いてある。
リコは門の前で足を止めた。
ネリがこちらを向き、声を掛ける順を譲った。
リコは鞄の中の通知から手を離し、開いている戸へ顔を向けた。
「こんにちは。ミナト輪郵便局の、リコです」




