9. 直せば終わりではない
古い充填棚の前に、使わない椅子が一脚置かれていた。
修理を終えた人が休むためかと思ったが、座面には記録板と時計が載っていた。設備担当は部品を交換したあとも、その椅子と棚の間を行き来している。棚の下へ敷いた紙は白いままだった。
「午後には、使えますか」
ナギが予定表を持って尋ねた。
設備担当は時計を見た。
「今日は少ない量で確かめます。途中で止めることもある。舟の出発は、まだ約束しないでください」
「全部の枠を戻すのは、早いですね」
「ええ。交換した所だけ見て終わりにはできません」
ナギは鉛筆を耳から取った。予定表の空いた欄へ、何時、と書きかけて消し、確認を受ける相手の名を入れる。
リコも肩に掛けた鞄を下ろした。朝、棚の扉が閉じているのを見た時には、今日こそ荷物の話に戻れると思ったのだった。
トウマが工具を片づけながら、布の下へ手を入れた。
「おかしいな。一本だけ戻らん」
「右のポケットです」
ナギの返事に、トウマは自分の腰を見た。大きなポケットから工具の柄が出ている。
「ここは、便利すぎる」
「小さくしますか」
「困る」
即座に返ってきて、リコは笑った。トウマも片方の口元を緩め、取り出した工具を布へ戻した。
笑い声のあと、リコは離れた囲いの方を見た。
昨日、棚から離したクロマは、その向こうにいた。黒い丸い体は低くなり、縁からこぼれていた淡い光も、今は見えない。担当者が容器を確かめに行っても、棚の方へ戻ってはこなかった。
やがて短い腕が、地面の小石へ触れた。
体が少し伸び、また丸くなる。軒の下へ続く、風の弱い方へ進んでいた。人の通る道とは反対だったので、設備担当は追わず、時刻と向きを書き留めた。
「もう、来ませんか」
「それは分かりません。こちらは、このまま見ます」
リコは囲いの外に立っていた。金色の目が一度だけ見え、柱の向こうへ隠れた。
引き止めたいとは思わなかった。それでも、あの二つの目が見えなくなった場所を、しばらく見ていた。
*
広場に戻ると、展示担当の机に、返ってきた予定表が重なっていた。
「棚は、午後も確認を続けるそうです」
「そうですか」
男性は、茶色い上着の袖をまくったまま返事をした。机の横には巻いた日よけが一本だけ立っている。港の倉庫から人が担いできた見本で、本番の分ではなかった。
「人の方は、もう別の仕事へ出ました」
リコが椅子へ座るより先に、男性は一枚を分けた。
止まった小舟で運ぶはずだったのは、小会場の台や、組立てに使う用具だった。それを先に運んで人を回し、中央の大きな資材を受ける準備へ移る。小舟の担当と組立ての人たちが一緒に空けられたのは、昨日までのまとまった時間だった。
「戻ってきてもらうことは?」
「今日から別の屋根の工事です。祭りまでに仕上げる約束で、そこを遅らせるわけにはいかない。次に同じ人数がそろうのは、初日の朝になります」
祭りは、まだ二週間以上先だ。
その間に一度も手が空かないのかと思いかけて、リコは返事の裏に書かれた日付を見た。一人ずつなら来られる日がある。しかし、長い枠を受け取り、支え、組む人数にはならなかった。
中央の大水槽は広場に据わっている。運ばなければならないのは、倉庫にある日よけの枠と幕、見物席の部材だ。大きな荷を受ける組と、その後で小会場を設える組は、別々に用意できていなかった。
「別の人を雇う場合は、こちらです」
差し出された見積りの下には、二本の線が引いてあった。予定を組み直す費用と、新たに人を押さえる費用。余らせていた金額を足しても、中央と周辺の両方には届かない。
リコは西側の欄を指した。
「ここを先に整えるなら?」
「元の小会場の数は残せます。ただ、そちらへ代わりの人を頼めば、中央に足す費用は残らない。仮の日よけの範囲までにして、席は減らすことになります」
あの朝の試演で見た親子が浮かんだ。父親の袖を引きながら、同じ魚を探していた子供。あの日だけで、綱の外には二重に人が並んでいた。
「もう一つ、返事を待っている案があります」
男性は、別の紙を机の中央へ置いた。
*
昼前に来たヴェルは、広場の水槽を見てから、机へ向かった。
深い青緑の上着の裾を払い、使い込んだ革の帳面を開く。リコが挨拶すると、彼も短く頭を下げた。
「こちらで会うとは思いませんでした」
「祭りの荷が増える前に、当社の枠を確認して回っています。ここの相談は、昨日、現地の窓口で受けました」
以前、充填の予約を相談した時は、開いた帳面の線が一本も動かなかった。今日はその帳面から、使える時間が示された。
「港の倉庫から中央へ、資材をまとめて運べます。長い枠は当社の大型の運搬枠で。充填は点検済みの当社設備を使いますから、あの棚の再開は待ちません」
展示担当が、組立ての人数を尋ねた。
「こちらで手配できます。ただし、荷を一か所へ下ろして、そのまま組む日程です。小会場まで分けて回るなら、別の便と日が要ります」
ヴェルの指が、紙の下段へ移った。
「費用の一部は、協賛する店が負担します。その分、見物席の一部を、店が客を招く予約席にする。入り口には店の名も出します。ここは外せません」
支払いがなくなるのではない。店が費用を持つ代わりに、自分たちの客へ渡せる席を取る。その席を一般の見物人へ回せば、費用を出す約束の方も変わってしまう。
予約の数と、一般の客が当日入れる数は、別の欄に書かれていた。リコは二つを確かめ、見物の時間を入れ替えた場合の人数を見た。
「予約をしていない人も、見られるんですね」
「当日の枠は残します。予約の方を、その場で空いているからと開けることはできません」
ヴェルは先にそれを言った。席だけ使えて支払う方はいなくなるような約束はできない、と続けた声は、以前と同じだった。
ナギは運搬枠の寸法と、受け取り側の人数を見ていた。
「この日に運ぶのは、資材だけでよろしいですか」
「ええ。水槽は動かさない。生き物の出し入れは、そちらで決めてください」
リコはネリの当番表を隣へ置いた。中央の世話をする時間は残っている。しかし中央の支払いをすれば、小会場へ代わりの運搬組を頼む費用までは出ない。元の人たちが一度に動ける、祭り初日の枠を使うほかなかった。設営を終え、点検してから生き物を運ぶ。小展示の開始は、翌日以降になる。
「周辺を初日に開く分まで頼むと、この金額では収まらないんですね」
展示担当が確認した。
ヴェルは追加分を隠さず、横へ置いた。小会場を初日に残して中央を縮める案も、机から下げなかった。
リコは、紙を二枚並べたまま見た。
広場の中央には、片づけられていない仮の日よけがある。あの細い影の下へ、試演の倍の人が集まったら。雨が来たら。椅子を置くはずだった場所で、また誰かが立ち続けるのだろうか。
「中央を、こちらの案で整えるのがいいと思います」
自分の声が、はっきり聞こえた。
「小会場の初日を残すには、中央で見られる人を減らすことになる。ここを整えて、時間を区切って入れれば、もっと多くの人が見られます」
ナギが、西側の紙へ目を向けた。
「初日なら手伝える、と言っていた人は?」
「変更をお願いしないと。違う日にできるか、知らせる時に聞きたい」
小展示を待つ間、こちらへ来られる人には中央を案内できる。その人たちも列に加わるつもりで、リコは入れ替えの回数を見ていた。
リコは交替ありと書いた文字を消さなかった。
それでも、紙を寄せる時、中央の見物人数の方を上へ置いた。
展示担当はしばらく二枚を見比べ、自分の予算の綴りを開いた。支払いに使う欄と、協賛の条件をもう一度読み合わせてから、ヴェルへ向き直った。
「中央は、この条件でお願いします。周辺には、こちらから変更を連絡します」
署名をしたのは、その人だった。
リコは運搬案の控えを受け取った。自分が後押しした案の中央の丸は、さっきより大きく見えた。
*
ネリが来たのは、机を片づける前だった。
決まった日程を聞き、まず生き物を出す日の欄を確かめた。それから、小会場の連絡先を手元へ引いた。
「飼育の変更は、私からも話します。こっちは今日、補助の人に用具を返してもらうので、その便に知らせを添えられます」
紙の端を折り分ける手が、西側で止まった。
「こちらの返事は、誰へ?」
「西の、小さい台の所です」
「ルダさん?」
ネリが名前を指した。
リコは顔を上げた。板を抱えてきた女性の靴に付いていた土まで思い出したのに、名を呼ぶのはこれが初めてだった。
「そうです。初日なら、隣の人と当番を代われると」
「その話、変更の紙にも残してもらえますか。日だけ直して渡すと、もう交替は済んでいるのかと思われます」
リコは新しい紙を出した。予定表の欄外に入るよう小さく書いていた文字を、今度は一行使って書き直した。
初日の当番交替済み。変更後の都合は未確認。
「西側へも、今日届けますか」
「西は明日の午後に。ルダさんの家は、私が餌の受け渡しで寄る予定なので、その時に。今日届ける方へは、別の連絡係から回します」
ネリはそれ以上の仕事を自分へ足さず、伝える内容の違う二枚を分けた。主催側からの日程変更と、飼育の都合を尋ねる紙。リコは通知を一枚ずつ確かめ、届ける日を書いて展示担当へ返した。
最後まで残っていたのは、西の展示台を描いた板だった。
端が少しささくれている。女性が抱えていた時、そこだけを手のひらから外して持っていた。
リコは中央の図の下から板を引き出した。
「これは、返します。私も、会って」
ネリはうなずき、明日の受け渡しの場所を教えた。
予定の欄には、もう西側とだけは書かなかった。ルダさん、と記し、板をその上へ置く。
薄い板一枚なのに、鞄へ入れると角が当たった。リコは中央の図を畳み直し、板の入る幅を空けた。




