8. 黒い丸と金色の粉
白い紙に、金色の粒が三つあった。
リコは、入口の外からそれを見た。昨夜は棚の向こうが全部隠れるほどだった黒い体が、今は脚の間に丸く収まっている。その縁が動くと、もう一粒、淡く光るものが紙へ落ちた。
「おはようございます。ここで、待っていていいですか」
呼ぶ声が少し高くなった。
夜の当番から引継ぎを受けていた設備担当が、振り向いた。昨日と同じ灰色の袖口が留められ、腰の鍵束だけが小さく鳴った。
「そこなら。今、明るい所で見直しています」
ナギはリコの隣で止まった。二人とも、手すりの内側へ荷物を置く。自分から棚をのぞきに行かなくてよいと分かると、リコはようやく、朝の風を頬に感じた。
トウマが、壁際の卓で薄い帳面を広げていた。
今日は町の模型を持っていない。代わりに、角が黒ずんだ古い記録と、現地の点検票が並んでいる。
「夜の間は、あの大きさでしたか」
ナギが尋ねると、設備担当は当番の書いた線を示した。
「膨らんだという報告はありません。棚の下からも、離れなかったそうです」
リコは紙の上の粒をもう一度見た。
金色なのに、硬いものには見えなかった。一番端の一粒は、見ている間にも暗くなり、白い紙と見分けにくくなっていった。
*
棚の隙間へ、細い枠が差し向けられた。
片手で持てる四角い枠に、淡い色の浮糸が張ってある。設備担当は長い柄を持ち、棚の外から、幾つかの継ぎ目へ順に近づけた。ある場所へ来た時だけ、糸の一本がふくらみ、光った。
「力の漏れを見る、点検用の枠です。こちら側に反応があります」
部品の中に保たれるはずの力が継ぎ目から外へ出ると、枠の浮糸がそれを受けて動く。黒い生き物を探す道具ではなく、棚のどこから漏れているかを比べる道具だった。
ナギが記録板へ位置を書き込む。黒い体はそのすぐ下にいた。
リコは、昨日もここだった、と口にしかけた。昨日、自分がはっきり見たのは膨らんだ体で、継ぎ目のどちら側かまでは覚えていない。
「ほかの所は?」
尋ねると、設備担当は別の継ぎ目と比べた。次に、点検済みの予備部品を載せた離れた台へ枠を向ける。糸は同じようには動かなかった。
「光るのは、この継ぎ目のそばだけなんですね」
「今見た範囲では。どう傷んでいるかは、離れてもらってから確かめます」
リコは棚を見直した。
昨日は黒い体をどかせば、全部元に戻るように思っていた。今は、体の向こうにある物の方が気になった。
トウマが帳面をこちらへ向けた。
丸いものに、短い腕を二本描いた絵があった。目の脇に、薄い金色、と書き込んである。リコは紙と棚を見比べた。絵の方は、少し潰れすぎていた。
「これは、先生が描いたんですか」
「いや。昔、灯台の保守で回ってきた記録の写しだ。描いた人は、形よりも、どこへ集まったかを残したかったらしい」
隣の図には、傷んだ風実の位置があった。
記録にあるクロマは、こうした部品から漏れる力を食べるという。灯りを隠す黒い姿でも、人の恐怖を吸い取る怪物とは書かれていなかった。
力をためる繊維の継ぎ目と、黒い丸。その組合せは、現地の帳面にも載っていた。
「クロマ、でよさそうですか」
ナギが聞いた。
「姿と動きは合うね。漏れた力のそばへ集まった例もある。ただ、これで全部知った顔はせん方がいい」
トウマは次の頁を開いた。そこには別の設備の記録が続き、クロマについては、もう何も書かれていなかった。
*
リコは、昨日畳んで置いていった布を見た。
「私が払ったから、大きくなったんでしょうか」
トウマは帳面を閉じずに顔を上げた。
「布を振った時、風は動いたろうな。灯りも点滅した。その両方に驚くと書いてある」
「怖がったのが、分かったのかと思って」
「君が怖いと思ったことは、その枠では測れんよ」
彼は設備担当の手元を示した。
「昨日見たのは布と灯りと、体が大きくなったこと。そこから、確かめられる方を見よう」
リコは布から手を離した。自分の気持ちを落ち着けさえすれば、あの生き物まで静かになる。そんなふうにはできないのだった。
設備担当が、小さな蓋付きの器を運んできた。両手に収まる浅い器の中に、繊維を巻いた部品があり、縁には残りの力を見る細い目盛りが付いている。
「漏れを調べる時に使う誘導用です。弱い力を一定の量だけ出せます。記録では、これに近い道具で棚から離しています」
棚の漏れの代わりに、器から少しずつ力を出して、そちらへ移るかを見るのだ。閉じ込める罠でも、言うことを聞かせる道具でもない。動かなければ、棚へ近づく作業もまだ始められない。
ナギは器の札を確かめた。点検の日付と、扱える時間が書かれていた。
リコにはその目盛りの読み方は分からなかったが、これも空になれば終わる物だということは分かった。
人の待つ通路から外れた所に、風を遮る低い囲いが用意された。奥は建物の軒下へ開き、人や荷が通る側だけを柵で分ける。飼育場へ入る道は、反対側だった。
「追い込むためではありません。こちらへ来た時に、人が近づかないための場所です」
設備担当が職員へ説明した。
ネリも飼育区画から来て、用具を運ぶ別の通路が使えることを伝えた。器の中をのぞき込むことはせず、時計を見て自分の仕事へ戻る。魚たちの朝は、昨日と同じ時刻に始まっていた。
*
最初に動いたのは、目だった。
淡い金色の二つの点が、棚の下から器の方を向いた。黒い体は、そのままだった。
リコはナギの袖へ伸ばしかけた手を、自分の鞄の紐へ戻した。呼びかけてよいものか分からない。設備担当も器の置き方を変えず、離れて待っていた。
短い腕が、棚の脚を離れた。
丸い体が床へ低くなり、少し進む。途中に置かれた木の台へ当たると、輪郭が押し縮められた。その端に沿って、回り込んでくる。
「そっちにも、道が要るんだ」
リコの声は、思わず漏れたものだった。
黒い体が一度止まる。リコは息まで止めかけたが、淡い目は彼女ではなく、器の方へ向いていた。
設備担当は、進んだ向きと時刻を職員へ伝えた。黒い体が止まれば、こちらも待つ。
リコの腕が重くなった。肩を上げ続けていたのだと気づいて下ろすと、鞄の紐がいつもの位置へ戻った。
囲いの手前まで来たクロマは、器の横へ体を寄せた。
細かな縁が静かに揺れている。しばらくして、棚の下で見た時より低い丸みになった。
「器を追った、と書いてよいですか」
ナギが尋ねた。
「今日は、その動きが見えました。人に懐いた、とは書かないでください」
リコは口を開きかけて閉じた。
器のそばなら、人も大丈夫なのか。つい、そこまでまとめて思いたくなっていた。
*
黒い体の離れた棚には、昨日と違う静けさがあった。
設備担当とトウマが、蓄えた力の残る部分を隔ててから点検に入った。二人の声が低く続き、やがて外した覆いの内側が、離れた所にいるリコにも示された。
継ぎ目の繊維が、一方だけ毛羽立っていた。
その周りの部品にも、長く擦れた跡がある。ナギは手を出さず、設備担当が照らす場所と、今朝の枠の反応を図で見比べた。
「この部分から、外へ漏れていたと考えられます。明日、合う部品を取り付けて確かめます」
交換する分は、現地の倉庫にあった。今日のうちに受け出し、規格と状態を確かめてから使うという。トウマは自分の工房へ持ち帰る工具を分け、明朝、もう一度来る時刻を決めた。
リコは、昨日の職員が尋ねたことを思い出した。
「クロマが、壊したんですか」
「この擦れが、昨夜だけでできたとは思えません。ただ、ここでどのくらい前から漏れていたかまでは、まだ分からない」
設備担当は、古い点検票へ新しい紙を重ねた。
「今は、この傷みを直します。黒いものが離れたから、そのまま使うことはしません」
床の紙が取り替えられ、残る力を扱う部分は担当が管理した。リコは新しい紙の向こうに残る、使用停止の札を見た。
*
昼近く、囲いの前でナギがしゃがみかけ、設備担当に呼び止められた。
「そこから先は、まだ」
「はい。札を、読みたくて」
誘導の器は、地面に置いた浅い台の上にある。側面の取扱札の上へ、クロマの短い腕が掛かっていた。ナギがこちらから読もうとすると、見える文字は、触るな、の三つだけだった。
「続きも、あるんですけど」
「今のナギには、そこまでで十分だと思う」
リコが言うと、トウマが背中を向けたまま、肩を揺らした。
ナギは立ち直り、設備担当から同じ内容の控えを受け取った。リコは笑ったあとで、まだ柵を越したいとは思っていない自分に気づいた。その距離のままでも、昨日よりよく顔が見えた。
午後になり、器から出す力が止められた。囲いの近くは引き続き人を入れずに見守る。小さくなった体は、器の脇から動かなかった。眠っているかどうかは、誰も言い切らなかった。
リコは帰る前に、棚の下から回り込んできた道を目でたどった。
床の継ぎ目。木の台の脚。人が空けた隙間。
暗がり全体だと思ったものにも、通ってきた道があった。
ナギが、明朝の集合時刻を書いた紙を畳んだ。
「お腹、すいた?」
聞かれて、リコはうなずいた。朝には少ししか食べられなかったことを思い出す。
二人は見守りの職員へ挨拶し、鐘の見える角の店へ向かった。昨日と違って、今日は何を食べたいか、途中で決まった。




