7. 灯りを食べる影
棚の下の暗がりが、床の線を一つ隠した。
リコは、夕方になったからだと思った。空の箱を抱え直し、荷受け場の入口から、乾いた置台を探す。
昨日の片づけに掛かった時間を受け、今日は作業場と会場の間を歩いて確かめていた。飼育担当が通る道、台車を止めて人を先に通す所。その最後に、ネリから返却を頼まれた空箱を運んできたのだった。
昼には、昨日の屋台で玉ねぎを焼いたものと豆を煮たものを一つずつ買い、二人で分けた。ナギは交互に食べるたびに、こっちも、と言うので、結局どちらが好きかは分からなかった。その時の紙包みは、もう空になって鞄へ収まっている。
飼育作業場の裏手にある、地元の荷受け場だった。
片側に古い充填棚が据えられ、金具の列へ札が下がっている。会場へ荷を運ぶ小舟の風実や、作業灯に使う部品へ、ここで力をため直すと昼に教わっていた。ツバメ号を留めている港の設備は、坂の下の別の場所にある。
金具につながる部品には、淡く光る浮糸が巻かれている。風や光から得た力をため、舟を浮かせたり作業灯をともしたりするものだ。充填棚は、その使い減った力を戻す設備だった。
棚の手前で、ナギが足を止めた。
「箱は、入口の台へ」
リコはうなずき、抱えていたものを下ろした。
彼は棚へ近づかず、上の灯りを見ていた。ついたり消えたりするほどではない。ただ、同じ場所を照らしていた光が、布を一枚重ねたように弱くなっている。
その下で、黒いものが動いた。
*
布の切れ端かと思った。
けれど、床に寝ているのではなかった。リコの膝ほどの高さまで丸く盛り上がり、脇の入口から来る光が、端の細かな繊維を灰色に照らした。
黒い毛を寄せ集めたようでいて、輪郭だけが煙に似てほどけている。体の横から短い滴の形のものが伸び、棚の脚に触れた。そこで、丸い体が少し向きを変えた。
目が二つあった。
淡い金色だった。
リコは声を出せなかった。目だと思ったものが、棚の金具に映る灯りであってほしかった。それは体と一緒に動き、今度は確かに、こちら側へ向いた。
「ナギ」
「見えてる」
小さな返事だった。知っているものを見つけた声ではなかった。
黒い体は棚の脚を回り、通路の側へ半分出た。下がどう動いているのか、暗くて分からない。床へ伸びた端が布屑を軽く押した。
ポルなら、名前を呼んで籠を置ける。
これは、呼ぶ名も、近づいてよい距離も知らなかった。
入口の台には、空箱にかけてあった布が垂れていた。リコはそれを取り、体の前で広げた。こちらへ来るのを止めたかった。
「こっちには、来ないで」
布を横へ払った。
その時、棚の灯りが二度、急にまたたいた。
黒いものが、膨らんだ。
床を隠していた丸みが持ち上がり、棚の金具を覆った。淡金色の二つの点が遠く離れる。リコの胸の高さを越え、頭に届くほどになったところで、向こう側の通路の灯りが見えなくなった。
布を持つ手が固まった。
「下げて。こっちへ戻ろう」
ナギの声に、足が動いた。彼はリコの肘へ手を添え、二人で入ってきた方へ下がった。床の段を踏み外しかけ、リコは入口の柱へ空いた手をついた。
布が音を立てないよう、握り込む。
自分の息だけが、ひどく大きかった。
*
「そこへ、入らないでください」
ナギが通路へ向かって声を上げた。
空の運搬台を押してきた職員が、角の手前で止まった。リコはまだ言葉を出せず、台を止める場所を手で示した。
「棚の所に、見たことのない生き物がいます。灯りも変です」
ナギが続けると、職員は台を戻し、後ろから来る人へ知らせた。通路の先で、人の足が止まる音がした。
飼育作業場から出てきたネリは、黒いものの見える入口よりも、リコたちの顔を先に見た。
「けがは?」
リコは首を振った。声を出そうとすると、短い息ばかり出た。
「近寄らないで。設備の人を呼びます」
ネリは隣の職員へ連絡を頼み、自分は飼育区画の担当へ、こちらの通路を使わないよう伝えに戻った。魚のいる場所とは壁と通路を隔てている。水槽を慌ててどこかへ移すことはしなかった。
ナギが入口の外にある停止の札を確かめた。
荷受け場の職員に、棚の灯りが点滅していることを伝え、表示された作業灯の停止具を示す。職員の確認を得てそこを扱うと、上でまたたいていた光が消えた。
夕方の光だけが残った。
黒いものはすぐには小さくならず、棚の形を隠したまま揺れていた。リコは目を離せなかった。灯りのあった場所の下で、繊維の縁が少しずつほどけ、また丸みに戻っていく。
「影じゃないんだね」
やっと声になった。
「棚の脚に、触って止まってた」
ナギはリコと同じ方を見ていた。
何であるかの答えではなかった。でも、自分が見たものを、もう一人も見ていた。
*
設備担当は、腰に長い鍵束を下げた男性だった。袖口を留めた灰色の仕事着で、蓋付きの灯りと道具箱を持って来た。
リコは道具箱を見て、直す人が来たのだと思いかけた。
男性は箱を開かず、入口から黒いものを確かめた。先に、通れない側の道へ案内板を立てさせる。持って来た灯りは、人が待つ手すりのある通路へ置かれた。棚の暗がりへ向けて強く照らすためのものではなかった。
「誰が、最初に見ましたか」
ナギがリコを見た。
「床の線が、見えなくなったんです。最初は暗くなっただけだと思って」
話し始めると、リコの手が動いた。布をまだ握っていることに気づき、広げずに畳んだ。
「これで、来ないようにしようとしたら。灯りがまたたいて、それから、大きくなりました」
男性は布を見て、棚へ視線を戻した。
「振ったのと、またたいたのと、どちらが先か分かりますか」
「ほとんど一緒でした。はっきりとは」
「そのまま書いておきます」
リコは男性の紙を見た。自分が追い払おうとしたことも、そこへ入る。言わずに済ませたいとは思わなかった。ただ、文字になる間、足の裏が冷たかった。
ナギは灯りを止めた時の状態を伝えた。棚の中は開けていない。黒いものには触れておらず、リコの布も届いていない。
「クロマ、という生き物の絵に似ています」
男性は言った。
「ここの点検の記録にあった。私も実物は初めてなので、決めつけずに確認します」
クロマ。棚の影をそう呼ぶのではなく、絵と記録が残る生き物の名らしかった。
呼び名を聞いても、リコの肩は緩まなかった。何をされるか分からないものに、名前が一つ付いた。
黒い体は、膝より少し高いくらいまで戻っていた。淡い目の間隔も狭まっている。それでも棚のそばを離れず、金具の列の下へ丸い体を寄せていた。
*
「あれが、灯りを悪くしたんですか」
荷受けの職員が尋ねた。
設備担当は、まだ分からないと答えた。
「同じ時に起きていることは、確かです。棚の方は、止めて調べます」
「僕も手伝います」
ナギが言うと、設備担当が首を振った。
「今夜は、近づいて部品を外さない。記録と別の棚を照らし合わせます。明朝、こちらで区画を確かめてからです」
「トウマ先生にも、連絡できます。すぐそこの工房に」
「では、見たことを伝えておいてください。明日の確認を一緒に頼みたい」
ナギは引き受け、離れる前に、今伝える内容を短く読み返した。
リコはその声を聞きながら、置き去りにしてきた空箱を見た。入口の台の上にある。暗がりより、ずっと手前だった。
「あれ、戻しておいた方が」
指すと、職員はそのままでよいと言った。
「ここの担当に聞かれても、私が分かります。通る人もいないから、今は動かさずに」
リコは手を下ろした。
あそこへ戻れば、さっきと同じ距離へ近づく。箱を片づける用事があれば行けるような気がしていたが、なくなると、やはり怖かった。
戻ってきたネリが、明日の小口搬送の控えを開いた。
「この棚で、朝までに準備する分があったんです」
設備担当は対象の欄を見た。
「使えるという返事は、今は出せません。別の設備に空きがあるかは、明日、各担当へ聞きます」
ネリは欄に線を入れず、確認待ちの札を添えた。
リコも自分の控えを開いた。今日、何度も歩いて決めた移動の時間が並んでいる。道は同じ所にあるのに、そこを動く予定が止まっていた。
*
飼育区画では、予定されていた夜の世話が続いていた。
荷受け場へ出ない別の通路を使い、補助者が用具を運んでいる。ネリはその確認を終えると、設備担当へ知らせた。棚のそばで待機する人とは別に、飼育区画の夜の当番を指で示し、自分の持ち場へ戻った。
棚の使用停止は、来る予定の舟の担当にも伝えられた。今夜入るつもりだった小舟は、連絡を受けて元の係留場所で待つことになった。港全体が閉じたわけではない。坂の下では、別の船の到着を知らせる鐘が鳴った。
ナギが工房から戻った。トウマは記録を受け取り、明朝の確認に加わるという。今夜、二人が棚を見張り続ける必要はないと、設備担当も言った。
「こちらは、夜の当番へ渡します。近づかずに見える所から、変化と通路を確かめる。交替の人にも、この紙を見せます」
リコは、畳んだ布を受け取ってもらった。
「まだ、怖いです」
言ってから、仕事を投げ出す人の声に聞こえなかったか気になった。
設備担当は引継ぎの紙から顔を上げた。
「明日来たら、ここで声をかけて。中を見てから知らせようとしなくていい」
リコは入口の外に置かれた灯りを見た。
そこなら、離れて待てる。
*
宿へ下る道で、リコは何度も後ろを振り返った。そのたび、半歩先のナギが足を緩めた。
追ってきてはいないか確かめるたび、道の曲がり角には誰もいない。棚のある方は、もう屋根に隠れていた。
「知ってる生き物かと思った」
リコが言うと、ナギは首を振った。
「僕も、知らなかった」
「そうだよね」
それきり、しばらく話さなかった。
荷受け場の方で、新しい灯りが低く見えた。待つ場所の灯りだった。交替へ来たらしい人の背が、その前を通った。
リコはそれを見届け、前へ向き直った。
坂の下には、二人の泊まる宿の窓がある。今夜はあそこまで、と指で示すと、ナギがうなずいた。
リコは歩幅を戻した。自分から先へ出る足が、まだ少しだけ重かった。




