6. 夜の水替え
見ていた時より、戻ってからの方が長かった。
リコは洗い終えた空容器を、乾かす台へ伏せずに置いた。水と用具を出し入れする上の口は、台へ触れさせない。教わった支えへ載せ、運搬に使った布は別の籠へ。まだ使えると思って清潔な棚へ戻すところだったが、籠の札を見て手を止めた。
作業場の窓は、もう青く暗くなっていた。
今日の構内搬送の試験は、日が傾く前に終わっている。昨日確かめた台に載せたのは、ネリが選んで管理した小さな容器一つだけだった。二人が運んできた六個を一度に使う試験ではない。生き物を収めるところと、戻したあとの世話には、二人は手を出していなかった。
それでも、片づける物はまだ残っていた。
ネリは奥で水の様子を確かめている。灯りが細い横顔と水面を同時に照らし、下を向くたびに影が少しずれた。
「こっちは、運んでいい?」
リコは指定された水の容器を指した。
「その蓋の閉まった方を、ここの手前まで。中へ足すのは私がやるから」
重い方をナギと持つ。リコが歩き出す前に、彼が足元を見た。
「一度、ここに置こう。向こうへ回って持ち直したい」
「うん」
膝で押し切らず、二人で台へ下ろした。濡れた持ち手を拭き、声を合わせてもう一度持つ。ネリは自分の手を止めずに礼を言い、置いてほしい位置を足元の印で示した。
リコの掌には、下ろしたあとも持ち手の跡が残った。
*
水を替える間、ネリは昼の試験のことを尋ねた。
「曲がる所は、思ったより広かった?」
「空の台で通った時は。でも、人が反対から来ると、待つ場所が少なかった」
リコは途中で紙を出しかけ、濡れた手を見てやめた。昼に記した控えは、乾いた台へ置いてある。
「返す時は、あっちの人が先に通してくれた。毎回そうしてもらう計画には、できないと思う」
「朝はもっと行き来するよ」
ネリは用具を持ち替えた。水面へ顔を近づけ、しばらく声が途切れる。
返事を待つ間、リコは空いた桶を指示された場所へ運んだ。持っていけば終わる仕事には、終わりが見えた。ネリの手は一つを終えると、隣の水槽へ移っていく。
水の向こうで、小魚が葉の後ろへ入った。
昼には、同じ動きに思わず笑っていた。今も可愛いと思う。けれどネリが目を向けているのは、顔がこちらを向いたかどうかだけではなかった。
「どれくらい、見ているの」
「今日は、まだ少し。いつもと違う動きがないか、落ち着いてからも見る」
「運び終わっても?」
「運んだ日だから」
リコはうなずき、干す布を広げた。
窓に映った自分の後ろで、ナギが記録用の机へ戻っていた。容器を動かした時間を書き終え、ペンを置きかける。それからまた、ネリの方を見た。
「片づけが終わる時刻まで、見ておきたいです」
「私が終わるのを、二人で待たなくてもいいよ」
ネリはそう言ったが、ナギは腰を下ろした。
*
リコが清潔な用具を数えていると、戸口から声がした。
青緑の前掛けの補助者だった。ミナト輪で見本の小魚を預かっていた女性が、今度は畳んだ布を腕へ載せている。
「こちら、戻しておきます。あとの見回りは予定どおりでいい?」
「うん。外の戸と、水の置場をお願い」
ネリは壁の当番表を指した。
補助者は自分の欄を確かめ、一つ先の区画へ行った。灯りが消える所と、まだ残る所があった。今夜の仕事はネリ一人だけのものではない。それでも、彼女の名前の下には、ほかの人には任せていない印が続いていた。
リコは、棚の隙間に挟まれた小さな催しの案内を見た。雨除けの下で鳴らす楽器の絵があり、出演の時刻が何本も並んでいる。
「これも、晴天祭り?」
「うん。妹が教えてくれたの」
ネリの声が、少し軽くなった。
「去年は、食べ物の店の方へ先に行ったら、座る場所がなくなったって。今度は最初に音楽を聞くんだそうよ」
「妹さんも、この辺りに住んでるの?」
「町の反対側。会おうとすると、どちらかが坂を越えることになる」
ネリは案内へ目を向けた。手は、水の縁から離れなかった。
「毎年、ここへ顔を出してくれるんだけどね。私が手を離せないと、邪魔しないようにって、向こうから手を振っていく」
リコは案内の、食べ物の店がある辺りを見た。
そこへ着くまでに妹が選んだ道と、途中で姉の顔を見るために寄った道は、同じではないのだろう。
「何を食べたか、あとで聞くの。あの屋台が混んでいたとか、辛いのを買ったのに甘かったとか。私はここの列の話をして」
ネリが小さく笑った。
「来年こそ、一緒に客の列へ並びたいな」
リコは、今年は、と言いかけた。
目の前のネリは、次の世話へ使う用具をもう手に取っていた。
「同じ所で、同じものを見てから話したい。今日の魚、こっちを向かなかったね、とか。私が説明するんじゃなくて」
ネリは水槽へ顔を戻した。
リコは今度こそ、何も言わなかった。
*
ナギの椅子の脚が、床を短く鳴らした。
立ち上がった彼は、ネリの台に置かれた使い終わりの用具を見ていた。持っていく場所を聞こうとしたところへ、補助者が戻ってきた。
「それは私が。明日の分は、あちらに分けてあります」
ナギは手を引いた。
立ったまま、今度は窓の留め具へ目をやる。リコは彼の肩へ声をかけた。
「さっきのネリさんと、同じ顔をしてる」
「どんな顔」
「もう帰れるのに、次の仕事を探してる顔」
いつもなら、帰る前の確認だと短く返すところだった。ナギは窓の留め具から目を離し、ネリが戻した用具の場所を見た。
「明日困る所が、残っていそうで」
ネリが彼を見た。笑いはしなかった。
「あると思う。全部見つけてから帰ろうとすると、私も帰れなくなる」
その言葉のあとでも、ネリは水槽を一つ見た。ナギは椅子へ戻り、置いていたペンをしまった。
リコは乾いた台の控えを取り上げた。今日の運搬そのものは短かった。その横へ戻りの時刻を書き、用具の片づけに移った時刻を加える。
「会場を二つ回る人は、その間もかかるね」
「道を歩く分?」
「うん。世話をして、洗って、次の会場へ行くまで。荷物だけ先に着いても、その人は着いていない」
ナギは壁の会場図を見た。
「明日は、その間も測ろう。船の便だけ並べた表だと、ここが空いて見える」
翌日の予定へ、飼育担当の移動、と書く。ネリが確認するため近寄り、地図上の近道には、用具を持って上がりにくい段があると教えた。
「こっちを通るの。少し長くても」
リコは線を直した。人の予定の紙へ、道の曲がり方が入った。
*
任された片づけを終えると、リコは補助者と戻し場所を確かめた。
ネリは残る観察と、終わったあとの戸締まりを当番表で確認していた。二人が帰ったら彼女の仕事も全部終わるわけではない。リコは、もう少しと頼まれてもいないのに、自分から次の桶を取らないようにした。
「明日、会場へ行く前に声をかけるね」
「ありがとう。手袋は、そこへ」
戸口へ出ると、湿った夜風が頬へ触れた。
リコは水筒から飲み、ナギにも自分の分が残っているか聞いた。彼は鞄をたたいてうなずき、二人で道の端へ寄って飲んだ。
指に付いた水の匂いが、まだ取れない。
坂を下る途中、リコは掌を開いたり閉じたりした。荷を持った時より、何度も布を絞ったところの方がじんとした。
「痛い?」
「少し。明日は、途中で持つ方を替えたい」
「言って。僕も言う」
ナギは自分の指を伸ばした。彼の手なら何でも平気だということに、ついしたくなる。リコは握り込まずに歩いた。
市場の屋根の下では、しまいかけの店から玉ねぎの甘い匂いがしていた。夕飯は宿で取る予定だったのに、二人とも、ほとんど同時にそちらを向いた。
「まだ買ってません」
ナギが先に言った。
「何も聞いてない」
「顔が、先に」
リコは笑い、店の灯りをもう一度見た。今日は買わず、明日の開く時刻を札で確かめる。ナギは隣で、料理の名の方を読んでいた。
「同じのを一つずつにする?」
「別のを選んだら、二つ分かる」
「量は、大丈夫そう?」
彼は真面目な顔で、自分なら食べられると答えた。
リコは先に歩き始め、肩越しに、明日決めよう、と返した。
*
宿では、残しておいてもらった夕食を温めてもらえた。
二人で仕事の紙を出さずに座ると、卓が広かった。リコは豆の汁を一口飲み、熱が喉の下へ落ちていくのを感じた。ナギも向かいで、しばらく黙って食べていた。
「妹さんと、何を食べたいんだろうね」
リコが言うと、ナギは匙を持ったまま顔を上げた。
「さっきの音楽の近くに、店があったね」
「辛いのに甘い店?」
「そこかは、聞いてない」
リコは笑った。聞かなければ分からないことを、今は仕事の欄へ埋めずにおきたかった。
卓の小さな灯りへ、ナギが手を伸ばした。リコの皿へ落ちていた影が、横へずれる。彼は灯りを動かしただけで、何も言わなかった。
顔を上げると、近い側の目が少し明るく見えた。
リコは礼の代わりに、パンの籠を中央へ寄せた。ナギが取ったのは端の固い方だった。残った柔らかい一切れを取り、汁に浸す。
「今日は、よく眠れそう」
「うん」
返事のあとに欠伸が出た。ナギ自身が驚いた顔をし、リコもつられて口を押さえた。
笑おうとすると、また欠伸になった。
食べ終えた皿を戻してから、二人は別々の部屋へ上がった。
リコが戸を閉める前、廊下の向こうから、小さくおやすみ、と聞こえた。閉じかけた戸の隙間へ顔を寄せ、同じ言葉を返した。




