5. 先生の工房は町の模型
戸を開ける前に、ナギが袖を折り直した。
昨日と同じ藍色の作業着だった。右の袖だけをいったん下ろし、もう一度そろえる。リコは隣で、預かってきた輸送枠の留め具を抱え直した。
「厳しい先生なの?」
「厳しいところが、少し違う」
答えを聞き直す前に、内側から戸が開いた。
年配の男性が、細い板を手に立っていた。仕事着の胸には小さなポケット、腰の片側には、もう一つ鞄を縫いつけたような大きなポケットがある。そちらから定規と木の屋根がのぞいていた。
「戸口で止まるなら、先に声をかけなさい。板を持って出られん」
「おはようございます」
ナギが一歩よけた。男性は板を外の台へ置き、二人へ向き直った。
「こちらがトウマ先生。僕に修理を教えてくれた人です」
「リコです。ツバメ号で一緒に仕事をしています」
「名前は聞いたよ。こっちへお入り」
トウマはリコの抱えた金具を見て、何も載っていない台を先に示した。
作業場の脇に借りた小さな工房だった。奥には祭り用の手工具が並び、一本ずつ直す箇所を書いた札が付いている。ここが普段の工房ではないと、ナギから道々聞いていた。祭り前の工具整備を頼まれ、滞在しているのだという。
「灯台の仕事をしていた頃も、これくらい持ち歩いたんですか」
大きなポケットを見て尋ねると、トウマはそこへ手を入れた。
「その頃は、もう少し少なかった」
木の屋根の下から、小さな橋が出てきた。
ナギは驚かなかった。
*
相談したかったのは、透明容器を運ぶ台の枠だった。
昨日の試演に使った展示の吊具ではなく、明日、構内で小口を運ぶためのものだ。丸い容器を木の台座に収め、その台座を枠と帯で固定する。手で持つのは容器の首ではなく、台の持ち手だった。荷を載せない状態で確かめると、留め具の一つに遊びが残った。ナギは枠の図と、外してよいと確認した金具を持ってきていた。
「ここは、交換用を合わせる。締めるだけでは戻らんね」
トウマは金具の札へ一行書き、直す物の区画へ置いた。
「それとは別に、固定する帯の位置を相談したいです」
ナギが図を開くと、トウマは机の下から浅い箱を引き出した。
箱の中には、小さな家が並んでいた。
リコは身を乗り出した。窓には細い桟があり、戸口の脇には、小指の爪より小さな荷札が下がっている。板の道は一軒ごとに少し曲がり、角を曲がった先には灯台まであった。
「ここを荷車が通る」
トウマは家を二軒よけた。
空いた所へ橋を置き、さらに屋根を一つ加える。リコが荷車を探す間に、道端へ店ができていた。
「これは、パン屋ですか」
「よく分かったね」
「窓の中に、丸いのが」
「焦げ目を付けたかったんだが、まだだ」
ナギが図の端を押さえた。
「先生、荷台はどこですか」
「いま出す」
屋根がもう一つ現れた。
リコはとうとう笑ってしまった。ナギも笑い、今度は自分で箱の奥から小さな台車を出した。
「この町、前より店が増えてます」
「通る人が増えたからな」
「説明を聞く人ですよね」
トウマは答える代わりに、パン屋を少し奥へ引っ込めた。小さな荷台が、ようやく机の中央へ出られた。
*
丸い木片を容器に見立て、帯の代わりの紐を掛ける。
ナギの案は、台の左右で同じ位置に留めるものだった。片側だけ引かれず、容器の台座を押さえられる。トウマはその掛け方のまま、片方へ小さな札を置いた。
「これは?」
「飼育係の手」
リコは札を持ち上げた。
「手、ずいぶん四角いですね」
「五本の指も作ると、君たちが帰れん」
ナギが木片の上を見た。実物の輸送容器には、途中で状態を確かめるための開口部がある。帯の一本が、その蓋を開ける場所へ近かった。
「着いてから外すつもりだった。途中で見る時にも、邪魔になるか」
「どう見るかは、私より使う人だな」
トウマは紐を直さず、指先を離した。
ナギが帯を少しずらした。今度は留める先が台の端へ寄り、図に描かれた持ち手と重なる。彼は一度元へ戻し、紙の別の場所へ線を引いた。
「片方を変えるだけじゃ、持ち上げる人の手が入らない」
リコは四角い札をもう一枚もらった。
容器へ手を入れる人と、運ぶ台を持つ人。同じ形の紙でも、置きたい場所は違った。
「ここなら、私は持てそう。でも手袋をしている人は?」
「それも現物で見よう」
ナギは二つの案を残した。トウマが細い定規を差し出すと、彼は受け取らず、自分のを出した。目盛りを一度見比べ、それから実物の寸法を書いた欄へ目を戻す。
「模型のこの幅、実物と同じ割合ですか」
「そこは違う。握りやすいよう、大きくしてある」
「では、ここで通っても、実物では確かめ直します」
リコはパン屋の戸を見た。小さな人ならくぐれそうだったが、現物の荷台の幅は、ここからは分からない。
ナギは図の脇へ、蓋、持ち手、と書いた。
「ネリさんの仕事が切れたところで、見てもらいたい。先生は、枠の交換が済んだら確認をお願いできますか」
「午後なら。ただし、私が魚まで診る予定にしないように」
「そこは、頼みません」
返事が早くて、トウマが声を立てて笑った。
*
工房から出ると、昨日の大展示の枠が屋根の向こうに見えた。
水を抜いた試演用の容器に覆いが掛かり、見物する人はいない。けれどリコには、並んでいた子供たちの声がまだ聞こえるようだった。あそこへ運ぶ便が整えば、広場の端にいた人まで、同じものを見られる。
ナギは図を畳みながら、どちらの案ならネリが使いやすいだろうと考えている様子だった。ふと道の水たまりを指した。
「そこ、昨日より深い」
飛び越えかけた足を戻し、リコは脇を通った。
作業場では、ネリが餌の用具を片づけていた。二人は見学用の通路で待ち、手が空いてから、空の輸送容器を確認台へ出してもらった。
リコが図を押さえ、ナギが帯の位置を示す。ネリは自分の手袋をはめて、蓋の開くところを確かめた。
「途中で開けるなら、ここまで場所が要るの。この向きのままでは、肘が枠へ当たる」
ナギは定規を置き直した。
ネリが手を引くと、今度は運搬を手伝う職員が台の持ち手へ手を掛けた。同じ側で二人が作業すると、思っていたより肩が近かった。
「こっちから見る方がいい?」
リコが容器の反対側を指す。ネリは回ってみたが、首を振った。
「この向きで置く会場もあるから、片側だけで済む形にはしない方がいい」
図の線が増えた。ナギは最初の線を消しきらず、変更した方へ小さな印を付けた。既存の固定位置を使う案を選び、交換する金具の確認を終えるまで、本番の容器を載せないと職員へ伝える。
リコは、作業を終えたネリが同じ道を奥へ戻るのを見た。今の短い確認のために、手を洗い、手袋を替え、また片づけ直している。
「時間をもらって、ありがとう」
「明日、途中でやり直すより助かるよ」
ネリは手袋を干し、次の札を取った。
リコは明日の欄を見た。運ぶ時間の横に、今日借りた時間を書こうとして、別の紙へ移した。
*
午後、交換した金具と帯の位置を現物で確かめると、台は空のまま短い移動試験に回された。生き物を入れる条件は、翌日の確認に残る。
リコとナギが図を持って工房へ戻ると、トウマは柄の緩んだ道具を調べていた。二人のために何もかも中断するのではなく、一つを安全に置けるところまで待ってから椅子を出してくれた。
「現物は、どうだった」
「肘まで、入りませんでした」
ナギは図を広げ、変えた所を指した。
トウマはそこを読み、自分の模型の四角い札を持ち上げた。
「肘も付けるか」
「先生」
「分かっとる」
卓には茶と、薄く切ったパンが出た。今度は本物だった。リコが一切れ受け取ると、トウマは模型の店先へ目を向けた。
「そちらは食べないように」
「焦げ目が付いていても、食べません」
ナギが茶碗を置いて笑った。
工房へ来る前にはまっすぐそろっていた彼の袖が、今は片方だけ下がっている。本人は直さず、パンの端を割っていた。
リコは箱へ戻された余りの屋根を見た。窓に近づけると、屋根の下へ、指一本分の影ができる。
「これ、生き物を入れずに、水だけを入れた見本の横に置けませんか。子供にも、水の向こうで家がどう見えるか、試してもらえたら」
トウマは屋根を回した。小さな角を指で確かめ、まだ渡さず箱へ戻す。
「貸すのは構わんよ。触ってよい見本にするなら、先に角を整えよう。置く相手は決まっているかね」
「まだです。展示の人に、相談してみます」
ナギが空容器の寸法を横へ書いた。
リコは借りる候補の欄へ、屋根一つ、と記した。小さな屋根のためなら、小さな場所でも、見に来る理由になるかもしれない。
*
トウマは、二人が図を片づけるのを見ていた。
ナギは自分の案を残した紙と、使う人に聞いて直した紙を重ねず、隣り合わせにしている。トウマが手を伸ばす前に、職員へ渡す方へも変更を書き込んだ。
「この部分、明日の試しで見てから、また持ってきてもいいですか」
「ああ。私のいる時間に」
ナギは工房の仕事札を見て、来る時刻を尋ねた。トウマは答え、自分の午後の欄にも小さく書いた。
昔は、ナギが言葉に詰まると、手元の道具を借りて直してしまった。今日もそのつもりで、指を空けていた。
戸口でナギが、リコの持つ模型の屋根の控えをのぞき込んだ。二人で置き場所を話しながら出ていく。トウマは呼び止めかけ、卓へ目を戻した。
パン屋の庇が、また荷台の通る所へ出ていた。
自分で動かした覚えがある。灯台から見た時の格好が、その方がよかったのだ。
トウマは店を少し奥へ戻した。それから、貸す屋根の角へ当てる紙を取った。
戸の向こうからは、まだ二人の声が聞こえていた。




