4. いちばん大きな雨粒
雨粒の中で、雲が二つに分かれた。
一つは水面の上に薄く伸び、もう一つは、丸い底の方へ沈んで見えた。その間を小さな魚の群れが通る。尾が向きを変えるたび、銀色の腹が一斉に光った。
リコは、息を吐くのを少し忘れた。
昨日は向こう側の靴しか見えなかった場所に、空と水があった。鞄を抱え直して半歩動くと、遠い屋根が曲がって入ってきた。魚はその屋根をすり抜け、枠の影へ泳いでいく。
「ほんとに、雨の中にいる」
隣の子供が、誰へともなく言った。
リコも、うん、と答えたかった。
大水槽は、広場の端の支持枠へ固定されていた。丸い底は低い位置にあり、見物の道はその横を通る。左右の吊具と、底の下の支えまで見えた。頭の上には水槽ではなく、仮の日よけが広がっている。
卓上で見た雨粒を大きくしたような形だが、水を入れたまま持ち歩くものではない。この場所に据えた容器へ用水を運び、魚は近くの飼育場から別に連れてくる。透明な壁越しに空と屋根が重なるため、泳ぐ魚が屋根を通り抜けて見えるのだった。
人が近づきすぎないよう張った低い綱の内側で、ネリが時計を見た。今朝は枠と留め具の点検から始まり、水を入れてからも、しばらく人を寄せなかった。状態を確かめた後、そばの飼育場から連れてきた魚を入れ、ようやく短い試演が始まったところだった。
「左からも、見られますか」
リコが尋ねると、ネリは通路の端を示した。
「その印までなら。後ろは世話をする人が入ります」
水槽の上部には開けられる蓋があり、道具を運び込む側は見物の列と分けてあった。リコは魚の動きに目を向けたまま、足だけを印の内側へ戻した。
*
見ているうちに、人が増えた。
市場へ行く途中の人が立ち止まり、その人を見て別の人が来る。仕事着の袖を腰紐へ挟んだ男性は、連れていた子に急ごうと言いながら、自分も動かなかった。
「お父さん、行かないの?」
「あっちのが戻ってきたら」
「どれ?」
男性が指を上げかけ、すべて同じ方向へ泳ぐ魚を見て下ろした。
「……今のかな」
リコは笑った。子供は父の袖を引き、もう少し低いところから見せようとしていた。
ナギは枠の脇で、設備の担当と短く話していた。戻ってくると、水面ではなく、リコの足元を見た。
「半歩、右」
「通路、塞いでる?」
「そこからだと、屋根が魚の背に重なる」
言われたとおりに動くと、銀色の背へ赤い屋根が乗った。
ほんの一瞬だった。リコが顔を戻すより先に、魚は別の場所へ行ってしまう。
「もう一回、見たい」
「次は、あの影から出てくると思う」
ナギは魚の方を向いたまま答えた。リコも、もう彼へ話しかけずに待った。
後ろで人が笑った。見えたのかと振り返ると、違う所を指している。それぞれ別のものを見つけているのに、広場の一角が同じ声で満たされていく。
ネリが時計を伏せ、展示担当へ声を掛けた。
茶色い上着の男性が、綱の外へ立った。
「本日は、ここまでです。まだ試している途中ですので」
惜しむ声が上がった。父親も、もう一周だけと口にしたが、子供の方が先に綱から離れた。
「お父さん、今度はお祭りに来よう」
男性は笑ってうなずき、二人で市場へ戻っていった。
リコは、その背中をしばらく見送った。
*
ネリたちが魚を飼育場へ戻す間、リコは用具を入れる空箱を指定された所へ運んだ。生き物のいる容器は飼育の担当が扱う。見物人の道が空くと、片づけの人たちが、声を張らずに通れるようになった。
支持枠の陰に、展示担当が図を広げた。
「祭りの日は、ここの日よけをもっと長くします。椅子の列はこの辺り。待つ場所も、その外に」
リコはさっき親子が立っていた位置を探した。あの場所だけで見物を続ければ、後ろから来た人はいつまでも背中を見ることになる。
「ここに椅子があれば、立ち続けなくていいんですね」
「ええ。時間を区切って入れ替わるつもりです。今日は仕事へ行ってしまった人も、来られる」
男性は図の角を押さえた。風にめくれた下の紙には、材木と布の一覧があった。
「この大水槽は据えたまま使います。ただ、本番の日よけの枠と幕、見物席の部材は、まだ港側の倉庫です。運ぶ人と、組む人の予定を合わせないと」
ナギが、幅の書かれたところを見た。
「長い物は、ツバメ号の積み場所に入りません」
「大型の運搬枠を使う便を、別に探しています。台車で運べる分もありますが、坂を何度も往復すると、設営の手が足りなくなる」
リコは中央会場の欄に、資材の運搬と組立て、と書いた。魚を何匹載せられるかだけでは、今日見た景色を祭りへ残せない。
「空の容器は昨日お届けした分と、こちらの物を合わせて使うんですね」
「それぞれの飼育場から運ぶ分は、ネリさんたちと。水の入る荷は、別に見てもらわないと」
担当の分かれ目を確かめていると、広場の向こうから女性が来た。土の付いた靴を石畳で一度擦り、腕に抱えた小さい板を男性へ見せる。
「西側の台、寸法を写してきました。こちらに返事をもらえる?」
板には見物用の台が描いてあった。リコの膝くらいの高さの印と、その脇に、雨を避ける屋根の形がある。
「西の坂の先の、小会場です」
男性が説明した。
「いくつも一緒に見る場所はないけれど、その分、近くで見られるんです」
女性は板を少し立て、リコたちにも見えるようにした。
*
「こちらも、初日を希望されているんですね」
リコが予定を見ながら言うと、女性はうなずいた。
「隣の家の人に、その日なら夕方の仕事を代わってもらえるので。運ぶのを手伝う人にも、話をしてあります」
紙の上では、中央会場と同じ日に印が付いていた。
リコは二つの欄を行き来した。中央には、今日だけでも何十人も立ち寄った。子供を連れた人、歩くのを休みたそうな人。ここを先に整えれば、一度に大勢が楽しめる。
「便を分けるなら、先に中央の枠材を入れるのはどうでしょう。組み立てる時間も必要ですし、ここが開けば、見られる人が多いと思います」
言ってから、女性の板へ目を戻した。
「小さい展示も、その後へ続けて運べるように」
女性は板を膝へ下ろした。
「その後、というのは、同じ日?」
「そこは、ほかの便と合わせて確かめます」
「違う日になるなら、早めに知りたいです。ここへ来ればいい、とは言えない人もいるから」
リコは顔を上げた。
「西側からは、遠いんですか」
「坂が二つあります。歩けても、家を空けられる時間が短い人も。店を一人で開けている人なら、近くへ見に来て戻るだけで精いっぱいです」
女性は、展示台の絵の隣に、小さな道を指で描いた。
中央の図では、紙の端へ伸びる線の一つだった。
リコは西側の希望日に、当番の交替あり、と加えた。それでも目は、中央の大きな枠へ戻った。ここを整える前に便を細かく分ければ、日よけも席も途中のままになるかもしれない。さっきの親子を、また立ったまま待たせたくなかった。
「希望は残します。私たちの船で運べる小口も、別に見ます。そのうえで、中央の準備を先に進める案を出したいです」
展示担当がうなずいた。
「来週の半ばまでに、どちらへ何を頼むか決めましょう。まだ変更の知らせは出さず、使える便を先に」
女性は板を預け、返事を受け取れる時間を書いた。快く賛成した顔には見えなかったが、板を持ち帰ることもしなかった。
「初日で考えていることは、消さないでください」
「はい」
リコは返事をした。紙の上の印を、書き直さずに残した。
*
午後は、ナギと用具の寸法を確かめた。
空容器を留める運搬枠の一つに、合わせ直した方がよい箇所があった。ナギはすぐ工具を広げず、荷を置かないよう札を下げた。
「明日、師匠に見てもらいたい」
「ナギに教えた人?」
「うん。祭りの工具の整備で、今ここに来てる。修理の前に、聞いておきたいことがあるんだ」
ナギは測った幅を手帳へ書き、別の所へ小さく疑問を加えた。リコは覗き込まず、使わない枠を台の端へ寄せるのを手伝った。
広場はもう、朝ほど光っていなかった。
支持枠の影が長くなり、見物人のいた所を、荷車が何台も通る。明日は今日と違う仕事でここへ来る。それでも、魚の背に屋根が重なる場所は覚えていた。
*
夕食を宿で済ませてから、二人は相談の紙を届けに飼育場へ戻った。
休憩場所の机には、ネリの当番表が広げられていた。昼間の展示、準備、その後の世話。同じ名前が、離れた欄に何度も出てくる。ネリは新しい展示の欄へ鉛筆を置き、別の時間を指で数えていた。
「座って。今、ここだけ」
リコは椅子を引いた。ナギは水の通路を空ける側へ座る。
「今日、あのお父さん、なかなか帰れませんでしたね」
ネリが顔を上げた。
「最後の一匹を待っていた方?」
「そうです。あの子の方が、帰るって」
ネリは笑い、鉛筆を紙から離した。
「ああいう顔が見えるのは、いいですね。私は、後ろにいることが多いので」
「後ろからだと、違いますか」
「魚は、どちらへも来ます。でも、人の顔はね」
ネリは当番表を少し横へ寄せた。机の狭い端に、朝の試演で使った時計があった。
「私も、祭りの日には――」
言いかけた時、戸の向こうで補助者が声を掛けた。餌の用意をしたので、分け方を確かめてほしいという。
「すぐ行きます」
ネリは立ち、リコの置いた紙へ目を落とした。
「これ、明日の朝まで預かっていい? 今日の記録と合わせたいので」
「はい。急ぐ返事はありません」
ネリは礼を言い、世話の通路へ入っていった。
リコは椅子を戻した。祭りの日には、その先を聞きそびれた。明日は聞けるだろうか。戸の向こうから、器を置く音と、確かめる声が聞こえてくる。
机には、鉛筆が一本残っていた。
当番表の上で、書きかけの線だけが、次の欄まで届かずに止まっていた。




