2. 傘の町へようこそ
帆の向こうで、傘が一つ、上を向いていた。
次の屋根にも、その次にもある。赤、緑、黄色。家々の間を渡した綱からは、袖の付いた雨具が何着も下がり、風に膨らんでは体のない腕を振っていた。
「あれ、旗じゃなかった」
リコが窓の外を指すと、ナギは進路の先を見たまま笑った。
「降りたら、乾いてる方を見て歩いて」
「どうして?」
「濡れてる方は、しずくが落ちる」
屋根に当たる雨の音はしなかった。雲の薄い所から日が差し、通りを横切る水の筋だけが光っている。
ミナト輪を出て、三時間ほどだった。
相談の返事は通常便で届いていた。港の充填枠、滞在する部屋、現地で下見に付き合える日。マレと確かめた紙には、最初の運搬案を返す日も書き加えてある。
しずく園も、雲海の上に浮かぶ島だった。傘の並ぶ屋根の下に石の坂が続き、その下には島の土と垂れた根が見える。港は水辺ではなく、空から来る船を受け入れる島の縁にある。
ナギが帆を絞った。島の縁へ突き出した桟橋で、職員が綱を用意している。リコは窓から身を戻し、膝の配達表を押さえた。
*
板を降りた途端、温かな石と、乾きかけた布の匂いがした。
港の受取係と荷箱を照合する。二箱と、用具の長包み。外装の傷と紐の状態を一緒に見てから、控えに名を書いてもらった。今日の検品は飼育場で行う。向こうの係が持ってきた台車へ載せ替えると、荷は日よけの下を通って先に上がっていった。
リコはその後ろを追いかけず、ナギが港の職員と話し終えるのを待った。
「予定の時間に充填できる。今日はここにつないだままで大丈夫だって」
港の充填棚へ船の風実をつなぎ、飛行で使った力を戻す時間を取ってある。しずく園まで来られたからといって、そのまま帰りの三時間も飛べるとは限らない。
「私は、宿の場所を教えてもらった。あの白い壁の向こう」
二人で船へ戻り、荷のなくなった場所を確かめた。持参の食料と帰りの備えは残し、日中に使う鞄だけ持ち出す。ナギが戸を閉める時、リコは船内の奥を見た。
「ポル、布を全部引っぱり出してないかな」
「出していい分は、分けておいたけど」
「分けたとおりに寝てくれる?」
ナギは鍵を確かめながら、少し考えた。
「そこまでは、頼んでない」
リコは笑った。宿舎で世話を引き受けた人には、水と餌の場所と、替える布を渡してある。今朝の出発前、ポルはその説明に使っていた敷布の上で丸くなり、最後までどかなかった。
港近くの宿では、二つの部屋の鍵が別々に渡された。滞在の日程も、食事を頼む日も、局との手配どおりだった。荷ほどきは後にして、リコは自分の鍵だけを鞄の内袋へしまった。
通りへ出ると、上り坂の先に、開いた傘が幾つも重なって見えた。
*
傘の市場には、降っていない雨の居場所があった。
店の軒には先のとがった傘が並び、その下には丸い傘がある。畑仕事に使う丈夫そうなもの、畳むと鞄へ入りそうなもの。リコが橙色の一本へ目を留めると、店主が少し持ち上げて、内側の青を見せてくれた。
「外と中で違うんですね」
「自分が見る方を選ぶ人もいるよ」
内側だけ、晴れた空のようだった。
買物のために来たわけではない。リコは傘を返したが、値札の場所だけ覚えておいた。
その横に、小さな傘を五つ並べた台があった。どれも人形が持つほどの大きさで、閉じた先が少しずつずれている。手前の一本だけ、普通の傘の柄が付いていた。
「それは見本。開いてみる?」
店主が台の手前を空けた。
リコが柄を持ち、教わった輪を押し上げると、一つ目の傘が開いた。続いて二つ目、三つ目。台の縁を通る細い紐が動き、向こう側の小傘まで順番に花を咲かせた。
最後の一本が、途中で止まった。
ナギの手が、その支柱を押さえていた。
「そこ、倒れませんか」
「倒れないように作ってあるから、放してごらん」
店主に言われ、ナギがそっと手を離す。
最後の傘が開いて、彼の額の上に、小さな黄色い屋根ができた。
リコは笑いかけた口を手で押さえた。店主は押さえなかった。
「ちょうどいい所へ立ったね」
「綱が緩んだので。桟橋の止め具と、似て見えて」
「船はつながないでおくれ。傘屋が引っ越しちまう」
リコがとうとう声を上げると、少し後ろでも笑い声がした。
焦げ茶色の髪を襟足で束ねた女性が、店先に立っていた。灰青色の仕事着に、色の褪せた黄土色の前掛け。片手には、布を掛けた浅い籠を持っている。
「郵便局からの、お二人ですね」
女性は笑いを収めようとして、もう一度ナギの頭上を見た。
「飼育係のネリです。荷物が着いたと聞いたので、お迎えに。……すみません、いい傘だと思って」
ナギは台から一歩離れた。黄色い屋根だけが、その場に残った。
「持ち歩ければ、手は空きますね」
彼が言うと、ネリもリコも、また笑った。
*
市場を抜けると、通りが急に明るくなった。
中央広場には、まだ人より物の方が多かった。畳んだ天幕、椅子を積んだ荷車、輪にした太い綱。木の枠を組んでいる人たちの間を、傘を閉じた親子が通っていく。
「ここが、あの丸の所ですか」
「ええ。来週には、もっと足の置き場がなくなります」
ネリは荷車の通る側を避け、広場の裏へ二人を案内した。低い屋根をくぐると、遠くで水を注ぐ音がする。
日よけの下に、雨粒が並んでいた。
卓上の見本より大きいものも、小さいものもある。透明な曲面に空が入り、雲の白い端が幾つにも分かれていた。だが下には、幅のある台と、動かないよう支える枠がある。水槽の脇を歩く人は、小さな札を一枚ずつ見てから、手元の道具を替えていた。
リコは足を緩めた。
黒い点に見えたものが動き、尾を広げる。隣では、細い脚の生き物が水草の陰から出て、また同じ陰へ戻った。どちらを見ればいいのか、すぐには決められなかった。
「こちらの通路なら、止まって見られます」
ネリが、二本の台の間を示した。奥では別の人が桶を運んでいる。
「向こうは世話の道です。今は水を運ぶので、空けておいてください。話すなら、こちらで」
リコは鞄を体の前へ寄せた。ネリは籠を置き、掛けていた布を外す。中にあったのは生き物ではなく、乾いた道具だった。
「ミナト輪で見た子は、戻りましたか」
「あの銀色の魚? ええ。あのあと、補助の人と帰りました。今日は奥で休んでいます」
「また、働いてるのかと思いました」
「今日は、こっちが顔を見に行く番です」
ネリは奥を振り返って、そう言った。
リコもそちらを見たが、水槽は並んだ棚の向こうだった。会いたいから出してもらう、とは言わずに、戻ったと聞けたことだけを手帳の余白へ残した。
台の上には、縁の欠けた小さな皿が一枚あった。餌を置く皿かと思うと、切り分けた昼食の残りだった。ネリはリコの目に気づき、布を掛け直した。
「お昼、まだでした?」
「途中だっただけ。洗った道具を置いてから食べます」
リコは鞄から自分の昼の包みを出しかけ、止めた。
「食べていい場所を、教えてもらえますか。私たちも、先に食べたいです」
ネリは隣の戸を顎で示した。水の道から外れた、小さな休憩場所だった。
「そこなら。お茶を足してきますね」
「私が運びます。置く所だけ教えてください」
リコが杯を三つ取ると、ネリは少し迷ってから、自分の皿も持った。
*
ネリの昼食は、丸いパンに煮た野菜を挟んだものだった。
半分になっていても、リコのより厚い。
見ていたことが分かったらしく、ネリはかじる前に中を見せてくれた。
「市場の角で。先に頼んでおくと、包んでくれます」
「角、たくさんありました」
「鐘の見える角です」
リコは場所を覚えようとした。傘の値札の隣へ、昼食の店が増えた。ナギは持参のパンを食べながら、窓の向こうに細く見える鐘を探している。
食べ終わってから、ネリが会場予定図を広げた。
紙の中央には大展示、その周りには、小さい展示の予定が書かれていた。リコは広場で見た枠の位置へ指を置く。ここなら、市場から来た人も、港から上がってきた人も通る。
「一番大きいのは、ここに?」
「そのつもりで試しています。明日、短く水を入れて見せる予定です」
「魚も?」
「状態を見てから。まず、枠と水槽を確かめます」
ナギが、運搬の欄へ目を移した。ネリの指が先にそこを押さえた。
「展示に使えても、まだ運べると決まったわけではありません。ここにある大きいものは、前からこの場所に置いてあるんです」
リコはうなずき、現物を見てから、と手元に書いた。
それでも、明日にはあの水の中へ、自分の姿も映るのだと思った。港の小さな窓から見ていた空を、今度は広場いっぱいの明るさの中で見たい。
ネリが図を巻き、戸の外へ声を掛けた。
「では、届いた方を確かめましょう」
リコは包みの切れ端を片づけて立った。奥の台には、ミナト輪で封をした二つの荷箱が待っていた。




