1. 水を運ぶ郵便船
水の向こうに、リコの鼻があった。
近づくと大きくなり、顔を引くと、細く伸びて消えた。代わりに銀色の小魚が一匹、こちらを向いた。小指の先ほどの体に、目だけはずいぶんはっきり付いている。
「見られてる」
リコが言うと、隣のナギも腰をかがめた。
「どっちが?」
「私たちが」
小魚は尾を振り、二人から横を向いた。
そっけない、と言いかけて、リコは笑った。魚に愛想を求めても仕方がない。
相談机の上にあるのは、雨粒の形をした透明な水槽だった。下が丸く、上へ行くほど細くなる。脇の金具が小さな枠につながり、丸い底は卓上からわずかに離れている。水面は細い首の下にあり、上の口は世話のために開けられるようになっていた。
雨粒そのものを宙に浮かせたのではない。水は透明な容器の壁に囲われ、その容器を金具が支えている。枠ごと机に置ける見本だった。向こう側の窓まで水の中へ入り、魚の腹の下を雲が流れていた。雲も水槽に入っているのではなく、窓の外の景色が曲面越しに見えるのだ。
帰港した日に相談票で見た絵より、ずっと厚みがある。
茶色い上着を椅子に掛けた男性が、二人の顔を見て笑った。短い髪には灰色が混じり、指の間には、何度も折り畳んだ会場図がある。
「しずく園の展示を手配しています。これを見ていただく方が、話が早いと思いまして」
横に立つ女性は、青緑の前掛けを着けていた。髪を後ろで束ね、水槽の脇の布を、濡れた方が内側になるよう畳んでいる。
「私は飼育の補助です。今日はこの見本を預かっています。見るのは構いませんが、揺らさずにお願いしますね」
リコは机に置きかけた手を自分の膝へ戻した。
「この形、全部同じなんですか」
「大きさはいくつも。向こうでは、日よけの下に並べるんです」
女性が答える間にも、リコは魚の尾の小さな動きを追った。水だけでなく、空まで抱えた雨粒が幾つも並ぶ。そこを歩く自分の姿が、まだ行先も決まっていないうちから浮かんだ。
*
配属から七週目の二日目だった。
朝から開けていた窓のそばには、羽虫が一匹、明るい方へ出ようと飛んでいた。リコは窓をもう少し押し開け、戻る途中で、マレの机へ報告の控えを渡した。
アカリの町へ回答を届けた一往復の記録と、町で聞いてきた意見。二つの綴りには、昨日までにナギと読み合わせた箇所へ印がある。
「留守の間に町から来る分は、こちらで受け取ります」
マレは予定表を開いた。
「九週目の初めに提出。見直しは、その一週間後ですね」
「はい。次の便の希望は、この紙です。決まった日としては書いていません」
リコは該当する頁を開いて渡した。マレが確認し、局内の担当へ回す札を付ける。まだ書類を手元へ引き寄せていたい気もしたが、控えは自分の鞄にある。
「向こうから質問が来たら、次の通常便で知らせてください」
「ええ。こちらも、待っているだけにはしません」
マレが綴りを置く場所を空けた。リコは空になった手で椅子を寄せ、新しい相談の机へ戻った。
水槽の向こうでは、ナギの指が二本に見えていた。
*
男性は会場図を広げた。しずく園の中央に大きな丸があり、その周りに、小さな四角が幾つも描いてある。
「初夏の晴天祭りに合わせて、こちらの広場でも展示を開きます。いつもの飼育場だけでなく、町の人が来やすい場所へ」
「ずっと晴れるお祭りですか」
「そうなら、傘屋が怒りますよ」
男性が笑うと、飼育補助の女性も、畳んだ布を持つ手を止めた。
「晴れ間を待つ祭りです。雨が来たら、屋根のある所を使います」
図の端には傘の店の列があった。食べ物を売る印もある。リコはその二つの間に指を置きそうになり、先に、荷物を下ろす場所を探した。
「今回は、何をどこから運ぶ予定でしょう」
男性は買付品の一覧を出した。
「ミナト輪でそろえた空の容器と、祭りの用具をしずく園へ。それから現地で、生き物を飼育場から会場へ運ぶのを手伝っていただきたいんです。終わったあとは、飼育場へ戻すところまで」
リコは行先の違う二つの欄を作った。ナギは、空の容器の外形が書かれた紙を横へ置いた。
「会場へは、全部船で?」
「坂の向こうは船が便利です。近い所なら台車でも。ただ、一度に運べれば、準備の日を減らせるので」
男性の鉛筆が、中央の丸へ向いた。
「小さい生き物ですからね。こういうのなら、並べて載せられそうでしょう」
リコは水槽と図を見比べた。魚だけなら、両手を合わせても余りそうだった。だが魚は、そのまま鞄へ入ってくれる荷物ではない。
「水を入れた時の重さは、この見本と同じですか」
「現地のものは、もう少し水が多いですね。容器も違います」
女性が言い、男性は一覧の数字へ目を戻した。
「ここには空の重さしか来ていないな」
ナギが相談机の脇の秤を見た。
「運ぶ形にした見本を、一つ量れますか。台や留め具も一緒に」
「それなら、こちらの空の方で。あの子は動かさずに済みます」
女性が示した運搬箱から、もう一つの透明な容器が出てきた。水槽と似た形だが、底を受ける台に収まり、横から帯を掛けられる。展示の間は雨粒に見えたものが、運ぶために囲われると、急に荷物の顔になった。
*
空の容器と台を載せると、秤の針はすぐ止まった。
女性は、その容器に決められた水位まで水を足した。針が右へ進む。まだ進む。男性は途中で口を開きかけ、注ぎ終わるまで待った。
「これで一つです」
ナギが読み上げると、男性は会場図の丸へ置いていた鉛筆を引いた。
「台車で積んでいた数を、そのまま船で考えていました」
「ツバメ号に載せられるのは、僕たちも水や食料も合わせて四百キロまでです。容器だけの重さで割ることはできません」
浮く力を蓄える風実も、重い荷ほど早く減る。載る数と、帰れる数は同じではなかった。
ナギは船用と台車用の二枚を分けた。秤に載せた容器の台へ定規を当て、幅も書き添える。針の数字が収まっても、船の通路まで容器で埋めるわけにはいかなかった。
男性は会場の端を見ていた。
「少なくすると、運ぶ人が何度も戻らなければいけないんです。日よけを張る人も、その中にいる」
リコは、鉛筆を止めた。断る理由なら紙の上に出ている。それでも、この人が最初に大きな数を欲しがった理由は、秤からは分からなかった。
「会場を開ける前に、戻ってほしい人がいるんですね」
「ええ。船が着けば終わりならいいんですが、そこからまだ仕事があるので」
飼育補助の女性が図へ指を添えた。
「生き物の方にも、出せる時間があります。詳しくは、現地の飼育係と相談していただけますか」
リコは用紙の端へ、世話と設営、と二つ書いた。
「最初の便は、空の容器と用具までにしませんか。現地で、運ぶ道と、受け取る人の仕事を見せてください。それから数と順番を出したいです」
男性はすぐには返事をしなかった。祭りの予定を書いた紙を一枚出し、風でめくれないよう、角を指で押さえた。
「いつまでに分かるかは、決めておきたい」
「はい。下見の日程と、案をお返しする日を、先に相談させてください」
マレも机へ来て、局の勤務表を開いた。男性は隣の椅子へ移り、船を使う日と、現地で人が集まれる日を指で数えた。
リコはその間に、空欄のままの最大個数へ斜線を入れず、現地確認後、と書き添えた。
*
ナギは港の充填予定と照らすため、船の紙を持って席を立った。
「しずく園までは、片道三時間くらい。泊まる場所と、向こうで充填できる時間も合わせて確かめます」
男性はうなずき、現地の窓口を書いた控えを渡した。リコは同じ紙を自分にも書き写し、下見に携える用具の横へ重ねた。
「この子も、私たちと?」
水槽を見ると、女性は首を振った。
「私たちの帰り便で戻します。今日は港で短い見本展示をして、ここを最後に帰る予定なんです」
「では、持っていく容器とは別ですね」
「はい。向こうの生き物は、向こうで会ってやってください」
女性は水槽の影の位置を見て、机に置いた小さな時計を確かめた。リコも鞄を引き寄せ、帰り支度の場所を空ける。
立ち上がる前に、もう一度だけ魚を見た。
銀色の腹の下に、リコの橙色の肩掛けが映っていた。魚が向きを変えると、橙色はほどけた。
「本当に、空の中を泳いでるみたい」
ナギが扉の手前で振り返った。
「向こうでは、もっと大きいのも見られるらしいよ」
男性が会場図の中央を軽くたたいた。
広場に並ぶ雨粒の間を、何人もの人が歩く。傘を閉じて、水の向こうの空を見る。リコはその列に自分も混ざりたくてたまらなくなった。
「傘の店もあるって」
「修理できる傘かな」
「買う前から、壊さないで」
ナギは笑い、紙を軽く上げて港へ向かった。
*
ピッパが仕分けの最後の袋を閉じた時、相談机の脇に職員が二人立っていた。
どちらも、首を同じ方へ曲げている。
リコまで椅子の横へ回り、三人で窓に背を向けた。何かこぼしたのかとピッパは腰を浮かせたが、三人の目は床ではなく、机の上を見ていた。
「こっちからだと、葉っぱの陰にいるのが見えます」
リコの声がした。
もう一人来た。今度は水槽をのぞかず、先に曲がった首の列を眺めている。
荷車が通る時刻だった。ピッパは声を掛けようと口を開いた。
その前にリコが、後ろを見て椅子を寄せた。見物していた職員にも声をかけ、通路側だけ空ける。荷車を押す人が礼を言って通った。
ピッパは立ちかけたまま、少しだけ待った。
リコがこちらを見つけ、紙を一枚差し出した。空容器の欄だけ埋まり、生き物を運ぶ数は未定になっている。理由と、現地で確認する相手が脇に書いてあった。
初出勤の朝、この子が口にした一時間という約束を、ピッパは覚えていた。今度の紙は、埋まっていない所を探して返さなくてよかった。
「預かります」
それだけ言い、帰り便の荷と混ざらない場所へ置いた。港から戻ったナギも、ミナト輪側の空き枠を書いた紙を重ねてから、飼育補助の女性に尋ねた。
「あと、少し見てもいいですか」
「あと二分なら」
そこで全員が、水槽の小さな影へ顔を寄せ直した。
ピッパは空いた椅子を一脚引いた。
「列は、こちらから。通路を空けてください」
手で示すと、職員三人が素直に一列になった。これなら最後まで二分に収まる、と数えたところで、ナギが振り向いた。
「ピッパさんの場所がない」
また自分を数えなかった。
ピッパは椅子を、座るための向きへ戻した。リコが半歩よけ、水槽の葉陰を指した。
低い所から見ると、魚は葉の向こうからすぐ現れた。銀色だと思った背に、細い青が一本走っている。
「見えますか」
ピッパは答える代わりに、眼鏡を少し押し上げた。
二分が終わるまで、まだ一分あった。
第2章開幕です。




