25. あしたの町への初配達
封筒の角を、もう一度だけ確かめた。
折れていない。宛名も、控えと同じだった。
リコが文書入れを閉じると、ナギは積荷の最後の留め帯を引いた。風実の確認も、水と食料の計量も済んでいる。ポルは今回もナギの宿舎の部屋に残り、ピッパたちと朝夕の世話を確かめてあった。
配属から六週目の二日目。港の旗は、昨日から確かめてきた条件の内側で揺れていた。
「明日は町へ、でよさそう?」
「コトリ島で、明日の風を見てから」
ナギの答えに、リコはうなずいた。
初めてではなくなった道にも、今日の風が吹いていた。
*
コトリ島へ着いたのは、出港からおよそ二時間後だった。
設備担当と船の状態を確かめ、棚で充填を始める。ミナト輪から使った力を、ここで風実へため直す。次のアカリの町には充填棚がないので、明朝は町までの分だけでなく、この島へ戻る分も積んで出る。町へ続く空が明るく見えても、今日はここで休む日だった。
スイは封筒を見るより先に、二人の昼食があるか尋ねた。
「あるよ。明日の分も、その先も」
「じゃあ、今日の夕方に歩ける?」
受取の相談だろうかと、リコは手帳を出しかけた。
「風鈴畑の方。端に花が咲いているから」
母はそう言い、先に家へ戻った。
仕事を確かめ、担当へ渡し、リコは夕方の細い道を母と歩いた。知らない間に増えていた小さな花を、母は名前で呼んだ。島のことを知り尽くしているつもりだった自分には、区別のつかない二種類だった。
話したいことはたくさんあった。
明日届ける返事も、その先に残った故郷の相談も。けれど母がかがんで葉をよける間、リコも一緒にかがんだ。
母は花を一つ摘むかと聞いた。リコはかぶりを振り、もう少し見てから帰りたいと言った。
*
翌朝、再び風と残量を確認して出た。
橋へ続く目印が見えても、近道には入らない。ナギが前回の記録と今日の変化を比べ、リコが確認した場所を読み返す。帰る分と予備を守って進み、船は、町の係留場所へ近づいた。
綱を受け取る人が手を上げた。
ミチはその後ろにいた。黄色い長靴が一度前へ出たが、渡し板が落ち着くまで待っている。リコは船から手を振った。
「屋根、見つけられた?」
板を降りると、最初に聞かれた。
「橋の先に見えたよ。箱のところは、あとで近くで見たい」
「じゃあ、案内する」
画板を抱えたミチが笑った。
ナギは係留と停泊中の状態を確かめた。
共同の作業はまだ終わっていなかった。
リコたちは持参の昼食を食べ、船と荷を整えて待った。ミチも一度家へ戻り、午後の影が橋へ伸びる頃、また画板を抱えて現れた。
やがてノエが、仕事を終えて来た。かぶっている帽子のつばは、顔へ落ちずにそよいでいた。
「お待たせしました。受取所へどうぞ」
リコは立ち上がり、ノエと共同の屋根へ向かった。
確認書にある名を読み上げ、受取担当を変えていないと本人に確かめてから、文書入れを開いた。
風が、肩掛けの端を持ち上げた。
「ミナト輪郵便局からです。住所調査のご依頼への、正式な回答をお届けしました」
宛名を相手へ向けた。
アカリの町。共同受取所。
ノエは封筒をすぐには取らず、まずその二行を目で追った。それから、封と宛先を確かめて受け取った。
「この名前で、来たんですね」
「はい」
ノエは木箱の名札を見た。封筒をその下へ近づけて、二つの字を並べる。以前は隣島の取次で引き取り、住民がここまで運んでいた郵便を、今日は局の郵便士が町へ直接持ってきた。宛名も、その隣島の名前から始まってはいない。ミチが隣からのぞき、声に出して町名を読んだ。
「同じだ」
ノエはうなずいた。うなずきながら口元を押さえたので、笑っているのかどうか、リコには一瞬分からなかった。
「カヤさん。来たよ。この名で」
カヤは娘の肩越しに宛名を見て、ああ、と声を出した。ノエが差し出すと、封を切らず、指で町名の下をたどった。
リコはナギを探した。彼はすぐ隣にいて、箱と封筒を見ていた。目が合うと、リコの方が先に笑った。口を閉じようとしても閉じられなかった。
ノエが封筒を受け取り直し、リコの控えへ名を書いた。最後の一画が長くなった。
「力、入ったね」
カヤに言われ、ノエはようやく声を上げて笑った。ミチも笑い、箱の戸を開けた。中は空いていた。ノエはまだ封筒を入れず、大事そうに両手で持っていた。
*
ノエが開封して読む間、ミチは少し離れて立っていた。
ノエは最後まで読んでから顔を上げ、集まっていた人たちへ言った。
「私たちで出した相談への返事だから、ここにいる人と一緒に読みますね」
皆が寄れるよう、紙が台の上へ置かれた。
共同受取所が仮登録されたこと。町の名を宛名に使い、この屋根の下でノエたちが受け取る形を、局の台帳へ載せたということだった。今回の往復が、記録を取る試験の一回であること。審査から四週間後の見直し日に向け、その前に町の意見も届けること。
ノエは、難しい所で一度止まり、リコに意味を確かめた。
「来週も、決まった日に来るということではないのね」
「はい。次の便は、この便の記録を出してからです。ご希望の日は、今日うかがえます」
うなずく人がいた。
少し肩を落とした人もいた。
「もう舟を出さなくて済むと思った」
荷を運んでいた男性が言った。
隣の人が、それは早いよ、と笑いかけたが、彼は笑わなかった。
「分かってる。言ってみただけだ」
隣の人も、笑うのをやめた。男性は手のひらをズボンで拭き、もう一度紙を見た。
リコは少し待ってから、彼の名を書くために帳面を開いた。
「どの日に、どの荷で困るかも、聞かせてください。次の相談に、一緒に持って帰りたいです」
男性は少し考え、今度の仕入れの時にと答えた。
それから封筒へ目を戻した。
「でも、前と同じ返事じゃないんだな」
「ええ。今度は、次に記録を出す日も書いてある」
ノエの言葉に、彼はようやくうなずいた。
*
ミチが、局へ渡した図をもとに描き直した一枚を、広げてよいか尋ねた。
家の印もあるので、カヤと近くの人に確かめる。皆で道を見直すためだと聞いて、台の上が片づけられた。
鳥は家より小さく、風見よりは大きかった。局へ預けた図と同じだ。共同の屋根の縁が、翼に隠れず見えていた。
「今度は、箱まで見える」
ナギが言うと、ミチは鉛筆を上げた。
「鳥がここにいない日も、分かるでしょう」
「鳥にも、出かける用事があるからね」
彼が真面目に答えたので、そばの人たちが笑った。
ミチは受取所の位置へ、小さな印を描き足した。鳥の足より、ずっと小さい。
「こっちは、大きくしないの?」
リコが聞いた。
「道が見えなくなるから。名前を読めば分かるよ」
鉛筆の先が、印の隣をゆっくり進んだ。
アカリの町、共同受取所。封筒にあったのと同じ文字が、違う筆跡で並ぶ。
図を持って何人かで道を歩き、受取所へ戻った。
木箱はかまどと洗い場から離れた壁際にある。職人の付けた覆い屋根が、前の仮合わせより深く張り出している。薪を出す人は、その横を通れた。
受取所の前では、台をどちらから使うかを確かめた。リコは鞄を端へ置き、ノエに空の袋を持ち上げてもらった。取手と袖が引っかからずに通る。
「雨の日は、こちらから来ます」
町の女性が別の道を指した。
ミチが描き足そうとすると、隣の人が、水たまりがあるからここで曲がる、と言った。二人の言葉を聞き、ミチは一度引いた線を消した。
「なくなる道じゃなくて、晴れた日に使う道なのね」
そう言って、線を残す場所を変えた。
ミチは消し屑を払い、別の場所へ同じ線を引いた。ナギが図の隅を支え、リコも反対の隅へ手を置いた。
道具の店のことも尋ねたが、配達を代わってくれた人が鉋を試せそうな店は、今回は見つからなかった。リコは聞いた範囲を、自分のメモへ残した。
*
聞き取りを終える頃、かまどからパンが出た。
リコたちは夕食も持っていたが、焼いた人が、分けるだけだからと誘ってくれた。リコは持参の豆の包みを出し、食べたい人の皿へ分けた。
ミチはパンをちぎり、今度は自分の分を先に皿へ置いた。それから、ナギにも差し出す。
「今日は、戻さない分」
「じゃあ、全部食べていいんだね」
彼が確かめると、ミチは大きくうなずいた。
皿を並べていた大人まで笑った。リコも、豆をすくう手を止めて笑った。
封筒は机の端で、濡れないように布の下へ置かれていた。何度か誰かが持ち上げ、宛名を見て戻した。ノエもパンを食べる途中で一度手を伸ばし、指の粉に気づいて引っ込めた。
次の便を受けられる候補の時間を尋ねると、ノエは共同作業の当番表を持ってきた。
「どの時間なら、受け取りに来やすいですか」
ノエは別の当番と相談し、午前の作業を終えたあとの時間を挙げた。希望の日付と一緒に、リコは控えた。次の運航は、帰ってからの審査を待つ。
「知らせる便が遅れる時は?」
「その時も、仕事は続けてください。局から出す連絡の宛先は、こちらで変わりませんか」
確認を終えると、ノエは当番表を畳んだ。
「じゃあ、残りのパンがなくなる前に食べて」
リコは笑い、少し冷めた端を取った。
カヤが隣へ椅子を引き、今度来る頃には酸っぱい実を煮ておきたいと言った。ミチが聞きつけて椅子を寄せたので、カヤは瓶のありかは教えないと笑った。
夜、船の確認を終えて、二人で泊まる場所へ戻った。
昼は道の先ばかり見ていたので、窓の高さが家ごとに違うことを、リコは初めて意識した。灯りの向こうで、食器を片づける影が動いている。
「今日の封筒、もうしまったかな」
「たぶん。鍵のある所へ入れるって言ってた」
ナギの返事に、リコはうなずいた。
角を曲がると、共同の屋根が見えなくなった。リコは手の空いた感触に慣れず、鞄の帯を握り直した。
坂の手前で風が弱まった。ナギの袖が、歩くたびにリコの肘へ触れた。道幅は、もっと離れて歩けるだけあった。
二人とも歩く位置を変えず、家々の明かりが途切れる所まで、ゆっくり進んだ。
*
町では約束した場所で一泊し、翌朝、帰路の条件を確かめた。
ミチの図をもう一度見てから、受取担当へ出発を告げた。
「次に来た時、道、増えてるかもしれないよ」
「その時は教えて」
リコが答えると、ミチは画板を抱え直した。
コトリ島へ戻ったのは、その日の昼前だった。
棚へ風実をつなぎ、消費と帰りの風を記録する。帰港を急がず、その夜も島で休んだ。行きに見た花の名前を、リコは一つだけ覚えていた。母へ言うと、半分当たっていると笑われた。
次の朝、点検を終えてミナト輪へ向かった。
六週目の五日目。いつもの港が近づく頃、届けた封筒のない鞄を、リコは膝の上へ載せていた。軽くなった所に、受取の控えと、新しい相談が入っている。
*
帰局して、マレへ受取の記録を渡した。
「届けました」
それを言ってから、町の声を話した。
喜んだ人。次はもう舟を出さずに済むと思った人。日付を相談した人。全部同じ返事にまとめないよう、一つずつ伝える。
マレは最後まで聞き、元の住所調査依頼を開いた。
局へ届いた日、調査へ出た日、回答を渡した日。それぞれの欄に記録が入り、最後にリコの受取控えが添えられた。
薄い封筒から始まった依頼に、返事を届けた。
通常便を代わってくれた配達士にも礼を言い、道具の店は見つからなかったと伝えた。相手は、聞いてくれてありがとう、とメモを受け取った。
そのあとで、リコはコトリ島の相談用の紙を取り出した。
まだ空いている欄はあった。母だけに聞かず、次に誰へ尋ねるかを書く。ナギは船の整備記録を渡し終え、自分の手帳を閉じていた。
ピッパは、宿舎からポルを専用籠で連れてきていた。ナギが蓋を開け、敷布ごと抱き上げると、腕の中で白い体が丸まった。しばらくして顔だけ出し、畳んだ敷布へ鼻を押しつけた。
「留守の間も、順調に丸めてました」
ピッパが四角くなくなった布を見せた。
ナギは礼を言って受け取り、今日は直すのをやめた。
マレが、二人の机へ一枚の相談票を置いた。
しずく園にある、雨粒どうぶつ園からの輸送相談だった。見出しの脇に小さな絵があり、雨粒の形をした透明な水槽が、枠から吊り下げられていた。丸くふくらんだ槽の上部が細くなり、その外側を支える枠が描かれている。雨粒という名から想像するより、運ぶにはかさばりそうだった。
「読むのは明日からでいいわ。まず、帰ってきた仕事を終えて、それから休んで」
リコは見出しだけを読んだ。
どんな場所だろう、と胸が動いた。まだ知らない空が、また一つ増えた。
ナギはポルを抱えたまま、彼女を見た。
「次も、帰りの分を」
「うん。帰ってからの分も」
鞄を肩へ掛けると、いつもの重さだった。
リコはナギと並んで、今日の仕事を終えた人たちのいる、明るい通りへ出た。
第1章完結です。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
10章まで続ける予定です。




