24. 小さな点にも、名前がある
リコが書類を三つに分けると、机に空いた所はなくなった。
町から預かったもの。船で確かめたもの。局で用意したもの。
同じ綴りにすれば運びやすかったが、誰へ返す物か分からなくなる。角をそろえていると、ピッパが薄い板を差し入れ、三つを一度に持ち上げた。
「それなら、一度で済みます」
「私、順番のことしか考えてませんでした」
「順番はそのまま。両手が足りなかっただけ」
板の上で、ミチの図の端が少しはみ出した。鳥が片翼だけ見えている。リコはその紙を内側へ戻した。今日は飛ばないでいてもらう。
配属から六週目が始まった朝だった。
帰ってきた町の匂いは、もう肩掛けから消えていた。けれど橋を渡った時の足裏の硬さや、話の途中に働きに戻る人の背中は、図より先に思い出せた。
相談室の前で、ナギが待っていた。
手帳を開いていないので、リコはかえって彼の指を見た。薄く油の染みた爪の横を、もう片方の親指でこすっている。
「準備、終わった?」
「僕の分は」
「私の分も」
リコは板の端を持ち直した。中にある紙は全部、誰かに尋ねられても自分で取り出せる順になっている。重ね直すのをやめ、扉が開くのを待った。
相談室へ入る前に、通常便の配達士が通りかかった。二人が出ている間、近隣の便を受け持つ予定の人だった。
「向こうで買ってきてほしい物があるんだけど」
リコが鞄へ手を伸ばすと、配達士は笑って首を振った。
「荷物じゃない。道具を売ってる店があれば、休みの日を聞いてきて。今度、自分で行けるようになった時にね」
「何か、探しているんですか」
「使ってみたい鉋がある。人に買ってもらうより、自分で握りたい」
仕事を代わってくれる人にも、行きたい場所があった。
リコは個人のメモへ書き、見つけられたら聞くと答えた。できるか分からないことを、代わってもらうお礼の約束にはしなかった。
「今度の休みは、ちゃんと取れるんですよね」
「取るよ。だから今日、局長と確認するんだ」
配達士は自分の紙を見せ、別の机へ向かった。
リコはその背中を見送った。二人が旅へ出る日だけが、この局の特別な日になるわけではない。その人の休みも、同じ予定表の上にあった。
*
住所を担当する職員は、町の呼び名を読み上げてから、住民の選んだ受取所の図を開いた。
オルドは隣で、往復の観測記録へ目を通していた。二人の前へ置く紙を、リコは間違えずに渡した。
向かいにはヴェルもいた。
地域の既存便と港の設備への影響を確認するため、意見を求められている。革の予約帳が、机の端に置かれていた。港の充填棚は、同じ時間にどの船でも使えるわけではない。つなぐ場所と点検する人を、便ごとに割り振っている。彼が押さえている充填枠を譲ってもらう相談ではない。
「共同受取所を使いたいという確認は、この方々から」
住所担当の職員が、管理を引き受ける大人の名前を指した。
リコはうなずいた。受取所の場所、当番、留守の時の扱い。町の人が話し合って決めた部分と、まだ試してみなければ分からない部分を分けて説明した。
「奥の家からは、荷を持って歩く道も見ました。一つの場所なら全員が同じように楽になる、とは書いていません」
職員が図の線をたどった。
リコはミチの絵も添えた。住所と配達を検討する人に見せてよいと預かったものだった。壁へ貼るための絵ではない。
「ここを曲がると、受取所が見えます」
曲がる手前の石段で足を滑らせないよう、ノエに言われた声まで思い出した。リコは指を少し戻し、係留場から受取所までの道を説明した。
オルドは、飛行記録の最後へ指を置いた。
「異なる日の風については、まだ記録が足りません」
「はい。今回飛べた時間を、いつでも同じだとは数えていません」
ナギが答えた。
声は落ち着いていたが、手帳の端を持つ指には少し力が入っていた。
「次も同じ船で、荷を増やさず、使った道を確認します。コトリ島での充填と一泊は、行きも帰りも残します」
ナギが記録の二つの日付を指した。リコは受取所の紙を机へ戻し、次の質問を待った。
*
「その一回を、誰が飛ぶのですか」
ヴェルが言った。
「この二人が外へ出ている間、いつもの便には別の人が要る。島ごとに一回ずつ増やせば、一回では済まなくなります」
マレは勤務表を開いた。
リコとナギの名前の下に、通常便を引き受ける担当の名があった。本人との調整を終えた欄に、確認の印が付いている。
「局の調査用の勤務枠を使います。配達を代わる人の勤務も、今回の費用に入れました。空いた時間に頼む計画ではありません」
「船が遅れれば、その勤務をまた延ばす」
「だから、帰港翌朝から二人を別便へ詰めていません。延期が長引いた時は、その先の仕事を組み直します」
マレは、余白になっている欄も見せた。
ヴェルの指が、空いた欄で一度止まった。マレはその紙を引き戻さず、彼が見終えるまで押さえていた。
オルドは費用の紙と見比べ、充填と点検に当たる担当を確かめた。コトリ島の棚は引き続き使う了解があり、局の設備担当の勤務も組まれている。住民がずっと待機する形にはしていなかった。
「四日間出て、一通届けるのですか」
ヴェルの言葉に、リコは喉の奥が熱くなった。
町でノエがそろえていた紙も、ミチの絵も、ここではその一通に数えられる。リコは両手を机の下で握った。紙を広げる時、指が少しうまく動かなかった。
「回答を一通、届けます。それと、町の名で受け取る時に、どこで何を待つかを確かめます」
リコは受取所案を開き直した。
「前は、ほかの島で引き取る人と、町で渡す人の時間しか分かりませんでした。今度は私たちが着いてから、受取所へ渡すまでを記録できます。便を増やせば全部の手間がなくなる、という結果にするためには行きません」
ヴェルは図を見た。
「少ない荷のために、その費用を続けられますか」
「続け方は、まだ決まっていません。だから、今回は一往復です」
ヴェルは返事をせず、自分の予約帳の端を押した。リコにはその沈黙が長かった。マレも代わりに言葉を足さなかった。やがてオルドが、提出された観測の一枚を住所担当へ回した。
*
住所担当の職員が、前年の本申請と保留通知の写しを並べた。
「共同受取所の仮登録として、扱う範囲を絞ります。個々の家の住所を、今日すべて決めるものではありません」
町名と、この屋根の下の受取所を組み合わせて、局の台帳へ載せる。これからそこへ送る郵便には、よその島の名を借りずに『アカリの町、共同受取所』と書ける。ただし、実際に船を出すには別の確認が要り、定期便を続けられるかも試す段階だった。仮登録という言葉の中で、今日できるようになることと、次に調べることが分かれていた。
リコは姿勢を直した。
職員はノエと交替担当の確認書をもう一度見て、登録の紙に町名を書いた。リコの側からは逆さに見えた。一字ごとに、町の箱の名札と重なっていった。
「アカリの町、共同受取所」
読み合わせに答えた時、リコの声が少し擦れた。
紙へ、判が下りた。
小さな音だった。
リコは思わずナギを見た。彼もこちらを見て、ほんの少し顎を引いた。
オルドが言った。
「この登録で、船を自由に出せるわけではありません。運航については、今確認した範囲で、回答配達と記録のための往復一回を認めます」
町から預かった再訪の了承と、局の計画が重ねられた。期間、往復の中継泊、町での一泊、荒天時の待機と連絡。オルドが照合を終えた箇所へ印を付けた。
こちらには、別の判が押された。最初の判は、町の名と受取場所を配達先として扱うためのもの。二つ目は、決めた条件でツバメ号が一往復するためのものだった。リコはそれぞれの見出しを読んだ。
リコは二枚の紙にそれぞれ押された判を見た。ナギが差し出した手に自分の控えを渡そうとして、同じ紙を二人で持ってしまった。先に手を離したのはナギだった。彼の口元が緩んでいる。
マレも眼鏡を外し、鼻のつけ根を指で押さえた。戻した時には、いつもの顔より少し柔らかかった。
「お二人とも、町で聞いたことを、よく持って帰りましたね」
リコは返事をしようとして息だけが出た。もう一度吸って、はい、と言った。
「四週間後に、仮登録と運航記録を見直します。一週間前までに今回の報告と、住民の意見をそろえてください。その先の試験便は、結果を見て改めて決めます」
マレが暦の日付を書き込み、二つの担当と読み合わせた。
恒常便はまだ未定。その見直しまでに必要な紙を、マレが一枚の控えへまとめた。リコは最後に日付を声に出して読んだ。
ヴェルは帳面を閉じた。
「うちの継続便の枠は、そのままです」
「はい。今回の計画には数えていません」
マレが答えた。
ヴェルは予約帳を鞄へ入れ、立ち上がった。リコの前を通る時、判のある二枚の紙へ目を落としたが、何も言わなかった。リコも彼を呼び止めなかった。
*
廊下へ出ると、膝の裏から力が抜けた。
リコは壁際の腰掛けへ座り、何も載っていない両手を見た。書類はマレが預かり、正式な回答に整える。まだ、自分が持つ封筒にはなっていなかった。
「あの名前で、受け取れるんだね」
ナギが隣に座った。
「ノエさんのところへ、あの名で」
ナギが言うと、リコは何度もうなずいた。
リコは笑った。
笑った途端、コトリ島の受取帳が頭に浮かび、胸の端が小さく沈んだ。
母の島の住所欄は、今日もほかの島の名から始まる。
コトリ島。名前を心の中で呼ぶと、さっきの判が下りる音をもう一度聞きたくなった。今度はその名の横へ。
「故郷のこと、考えてる?」
ナギに聞かれ、うなずいた。
「今日の紙に、一緒に名前が載ればいいのにって」
「使える記録は増えた。でも、コトリ島の台帳を直す相談は、別に続けないとね」
「分かってる」
少し強く答え、息をついた。
「分かってるのと、早くしてほしいのと、両方」
ナギはうなずいた。リコは窓の方を向いたまま、膝に置いた手を開いた。まだ指のつけ根に爪の跡がある。
廊下を荷物の台車が通り、ナギは足を引いた。車輪の音が遠ざかっても、彼は立たなかった。
「さっき、強く言ってごめん」
「うん」
それ以上は続かなかった。リコは窓の向こうの旗を見ていた。喜んでいた自分の顔を思い出すと、もう一度笑いたいような、しばらく誰とも話したくないような気持ちになった。
ナギの靴の先が隣に見えた。立つ時は声をかけてほしいと思ったが、言わずにいた。
*
午後、マレの机で宛名を書いた。
指定された空域の欄に続け、アカリの町、共同受取所、受取担当ノエ様。空域は、島々の広がる空を区分した住所の最初の欄だった。どの空にある町か、その町のどこで受け取るか、誰へ渡すか。順に書いた宛名が、係留場から木箱まで歩いた道と結びついていた。最後の名を書く前に、リコは控えを確かめた。ノエが帽子の糸を引っぱっていた顔を思い出し、紙の上へ丁寧に字を置いた。
マレが宛名と中に入れる回答を照合した。
仮登録の範囲。今回の便の許可。次に資料をそろえる期限と、見直しの日。町へ渡す紙と局に残す控えを分け、封をする。
出発予定を知らせる短い連絡書は、別に通常便へ託した。知らせが先着するとは限らない。訪問日は、町が先に了解した期間の中に置いてある。
「あなたたちで、届けてください」
リコは両手で受け取った。
厚さは、たいしたことがなかった。これを重く感じたまま積んだら、ナギの計量を困らせるだろうと思った。
「重さは、秤でね」
隣から言われ、彼を見た。
「顔に書いてあった?」
「さっきから、両手で持ってるから」
笑って、封筒を仕事の持ち方に直した。折れない場所へ入れ、次の確認へ回す。
窓のそばでピッパが、明日の便へ渡す書類袋を開いていた。
リコは彼女の机まで行き、自分が出ている間の引継ぎを渡した。町へ持っていく紙と、ここに置いていく仕事。どちらも渡し終えてから、ようやく肩掛けを外せた。
知らない町へ行きたいと思った時には、帰ってからする仕事まで増えるとは思わなかった。
引継ぎの最後の行まで聞いたピッパは、今夜の食事のことを尋ねた。リコは宿舎で食べると答えたあと、何を食べるかは考えていなかったと気づいた。
「今日は、お腹が空いてたんですね」
「許可が出なかったら、空かない予定だった?」
リコは笑った。そんなつもりはなかったのに、朝から、自分の夕方が審査の先で止まっていた。
ナギと顔を見合わせ、まず宿舎に戻って食事にしようと決めた。
リコは鞄の留め具を閉めた。
今は、その続きがあることを、嬉しいと思っていた。
次の話しで第1章完結です。




