22. 受取箱を置く前に
運んだ椅子を、リコは机の正面へ置きかけた。
ノエにこちらを使うか尋ね、椅子を少し横へずらした。自分の鞄を置くと、幅の半分が埋まってしまう。
「人が座る分、残ってる?」
ミチに聞かれ、リコは鞄を足元へ下ろした。
「今、できた」
椅子は同じ形ではなかった。一脚は背が高く、一脚には座面を張り替えた跡がある。受取箱の置き場所を決めるため、相談できる時間に集まった人たちが、座りやすいものを選んだ。
ノエは、集まれない世帯から先に聞いていた希望も読み上げた。係留場の近くがよいというものと、家から取りに行ける場所にしてほしいというものが、続けて出てきた。
ここで決めたいのは、町の郵便をひとまとめに受け取る場所だった。郵便士が船から運んで担当者へ渡し、担当者が宛名の人へ知らせる。家ごとに配達する手間を減らせても、住民が受け取りに来る道は残る。置き場所によって、楽になる人と、坂を余分に歩く人が変わるのだ。
「船からなら、係留場のすぐ内側は運びやすかったです」
リコは今日歩いた道を思い浮かべて言った。
荷を運ぶ職人がうなずく。橋の先から来た女性は、膝の上の籠の向きを変えた。
「荷が着く度、あそこまで下りるの?」
女性の足元には、使い込んだ籠があった。持ち上げた時の手の向きを、リコは思い出した。
「いったん、歩いてみてもいいですか。受け取る方の道から」
女性は籠を机へ置き、立ち上がった。
*
係留場近くの候補地は、確かに船には便利だった。
リコが立つとツバメ号の橙色の帆が近く、荷を下ろす場所も見渡せる。だが道を戻り始めると、緩く見えた坂が、荷物を持つ腕のことを思い出させた。
「石鹸を取りに行っただけでも、戻ったら一度座るのよ」
女性が言った。
「毎日ここを通る人には、いい場所だけどね」
職人は、手すりの先を指した。
「重い箱を全部かまどまで持ち上げるのも、楽じゃない。船から受け取る者の手は要る」
坂の途中で一度休んだ。リコが地図に目を落とす間、女性は額の汗を手でぬぐった。ここに箱を置けばどうかと職人が辺りを見回したが、雨を避ける屋根がない。行き来する人も、この場所には立ち止まらず通り過ぎていった。
共同の屋根へ戻ると、かまどの残り火の匂いがした。奥には午前に洗った道具が並び、洗い場の下の石がまだ濡れている。
「ここなら、お昼に通る」
「火の近くへ紙を置くのは困るよ」
声が重なった。
ナギは煙の通る位置と、屋根から雨が落ちた跡を見ていた。どちらの意見へもすぐには加わらず、手帳へ短く線を引く。
「かまどの横に、そのままは置けません。ここには水も跳ねています」
濡れた石の範囲を示すと、ミチが自分の長靴を見た。
片方の爪先だけ濃い色だった。
「わたしも、さっき証拠を踏んだ」
「証拠は、乾く前に描いておこう」
ナギの真面目な返事に、ミチは画板を開いた。
*
屋根の道側に、壁に沿って空いている場所があった。
かまどと洗い場から離れ、薪を出す人の足も塞がない。籠を持っていた女性が、普段こちらを通って奥の家へ戻ると言った。
「ここなら、朝の水汲みの帰りにも見られる。毎日当番をするって意味じゃないけど」
ノエがうなずいた。
「箱を見かけた人の善意に任せるのはやめましょう。引き受ける人と、代わる人を決める」
ノエは当番の書かれた紙を膝へ置き、木箱の戸を開いてみた。片手がふさがっていて、途中で紙が落ちる。リコはそれを拾い、紙だけ持って戸をもう一度開けてもらった。
「配達する時には、箱へ黙って入れるだけでなく、受け取る担当の方へ渡す条件を局に持ち帰れます。大きな荷まで、この箱に入ることにはできません」
職人は木箱の幅を両手で測るようにして、うなずいた。
「当面は手紙と、収まる荷だね。重い物は別に、何が来るか分かってから相談したい」
ノエが主に引き受け、別の成人の住民が、仕事の予定を見ながら交替を受け持つことになった。二人がともに不在の日は置き去りにせず、受取日の調整をする。木箱に名札を付けるだけでは、局の配達先にはならない。この場所を使う了解と、誰が受け取るかを書いた紙も、住所の担当へ届ける必要があった。
「誰に来たか、全員が見えるように貼り出すのは、やめてほしい」
籠を持ってきた女性が、今度は少し声を落として言った。
「何も来ていない日まで、人に分かるのも嫌だから」
リコはノエを見た。ノエは開いた戸を自分の方へ少し引き、鍵の掛かる内側に預かって、知らせは本人へ渡す案を出した。
女性はそれを聞いて、置き場所の紙へ顔を寄せた。
「それなら、こちらから扉を開ける方がいい。道に立った人から、中が丸見えにならないから」
その言葉で、箱の向きが少し変わった。リコは、自分一人ではこの角度を選ばなかっただろうと思った。
ミチは鉛筆を持つ手を上げた。
「わたしは?」
「新しい図をお願いしたい。でも、鍵や中の手紙を預かる仕事は大人がするよ」
カヤが言うと、ミチは一度口を尖らせ、すぐに壁際へ寄ってみた。
「じゃあ、ここから見えるように描く。船からだけじゃなくて」
リコは、最後の言葉が自分にも向けられたように聞こえて、笑ってうなずいた。
職人が屋根の下へ木箱を移し、置き位置を仮に合わせた。もとの庇だけでは横からの雨が心配だという。手元にある板で箱の上へ小さな覆いを付け、風の吹き込みを後でも確かめる。材料と作業は住民側で引き受けられる範囲を相談して決めた。
設置案の紙へ、ノエと交替担当がそれぞれ名を書いた。局へ持ち帰る控えをリコが受け取った。
それでも、空いていた壁際に箱があると、集まった人の立ち位置が変わった。扉を開ける幅を空け、取り出した荷を一度持ち直す場所を探す。まだ来ていない手紙のために、誰かの手が動く場所ができていく。
*
木箱の取手を引いた時、ねじが一つ緩んでいるのが分かった。
ナギはしゃがみ込み、職人へ、ここだけ見てもいいかと尋ねた。工具を借りずに自分の小袋から出し、取手を外す。職人は木の割れを見てから、合う小片を持ってきた。
「大きな傷じゃない。ここを詰めて、留め直そう」
二人の短い会話のあと、取手は真っすぐ付いた。
ミチが試すと、力を入れすぎて自分の肘が少し後ろへ跳ねた。
「軽くなった」
「扉の重さは同じだけど、引っかからなくなった」
「じゃあ、わたしが強くなった」
ナギは訂正しかけ、途中で笑った。
近くにいた住民が、奥の戸にも見てほしい箇所があると言った。ナギの目が、反射のようにそちらを向く。
リコも見た。今なら、ほんの少しで済むかもしれない。頼りにされている彼の顔を見ているのは、悪い気持ちではなかった。
けれど帰りの観測の整理も、船の点検も、今晩休む時間も残っている。
「あとで、壊れているところを聞くメモを置いていこうか」
リコが言うと、ナギは工具を一つ拭いた。
「うん。今、全部は見られません。こちらの職人さんに状態を見てもらって、必要なら局の修理相談へつなぎます」
職人は戸のある方を見て、短く息をついた。
「明日の朝は、こっちも手が空かないよ。昼なら、先に見に行ける」
頼んだ人は、朝に済ませたかったのだと言った。職人は工具をしまいながら、昼でもよければ声を掛けてくれと返した。二人の話はまだ続いていた。
ナギが小袋を閉じる音を聞いてから、リコは自分の紙も片づけた。
*
夕食のため、同じ机の上から書類がなくなった。
リコは船へ戻って持参の食料を確かめ、今夜食べる分の固いパンとチーズ、少しの干し果物を持ってきた。帰路と延期に備える分は別に残してある。
「自分たちの食事は持ってきています。台を少し借りてもいいですか」
「一緒に食べましょう。今日は、うちの夕飯に混ざってもらいたかったの」
カヤが、湯気の上がる鍋の蓋を少し持ち上げた。
豆と根菜の煮込みだった。普段からここで食べる家の分を持ち寄り、今日は二人の皿も出すと、料理をする人たちで決めていたのだという。
「毎回はできないから、今日は食べていって」
カヤは鍋に顔を近づけ、味を見る匙を少し揺らして冷ました。リコにも同じ汁を小皿へ取ってくれた。まだ熱い。二人で舌先を出し、ミチに見られて笑った。
チーズと干し果物は、出してよければと聞いて机へ置いた。リコは煮込みの皿を配り、ナギは余分の椅子を運んだ。二人が運ぶのを待つ間、料理をしていた人も腰を下ろせた。
私費で買ってきた小袋の焼き菓子も、リコは鞄から出した。土産に持参したが、受け取ってもらえるかと担当へ尋ねる。
「では、食後にここで分けましょう。小さく割ってもいい?」
「はい。その方が、私も嬉しいです」
立派な箱を積む代わりに残した小袋が、ようやく鞄の外へ出た。
パンの籠から、焼きたての匂いが上がった。
ミチは切り分けられた中でいちばん大きい一片を持ち上げ、ナギへ差し出した。
「直してくれたから」
ナギが皿を出すと、そのパンが少しだけミチの方へ戻った。
焼き色の濃い端を、彼女は見ていた。
「……この端、おいしいんだよ」
「聞いたあとだと、ますます欲しくなる」
ナギが言うと、ミチは困った顔で笑った。
やがて自分で端を割り、大きい方を彼の皿へ、小さい方を自分の皿へ置いた。
「味を確かめる人も要るから」
「それなら、二人いた方がいいね」
リコは自分のパンを割った。表面の薄い皮が音を立て、中の温かいところが指に触れた。
ミチは目の前で食べ、カヤは誰かの話の途中で声を上げて笑っていた。干し果物の皿が回ってくると、カヤは酸っぱいものを探していた。リコが一つ勧めると、噛んでから目を細める。
「こういうのを、砂糖で煮ておきたいの。瓶に詰めて、お茶の時に少しずつ」
「少しずつじゃないよ。お母さん、一回にいっぱい取る」
「まだ作ってないでしょう」
ミチが前にもらった瓶の話を持ち出すと、カヤは匙で自分の娘を指した。
「あれを先に開けたのは誰?」
ミチは聞こえないふりをして、ナギへパンの皿を回した。リコは笑ってしまい、口の中のパンを飲み込むのに苦労した。
「リコさんの町にも、こういう屋根はあるの?」
ミチが煮込みの豆をすくいながら尋ねた。
「コトリ島には、共同のかまどがあるよ。母が連絡の仕事をしてる」
「手紙、いっぱい来る?」
「来る。でも、島の名前だけでは受け取れない。今も、ほかの島で受け取ったものを運んでる」
ミチは少し考えた。
「じゃあ、そっちの地図も描く?」
リコは笑って、それから言葉に詰まった。ミチは返事を待ちながら、煮込みの皿を傾けて最後の豆を集めていた。
「見てもらいたいな。風鈴が鳴るところがある。鳥と同じ大きさに描くかもしれない」
「音は大きく描けないよ」
「そうか。そこは相談させて」
ミチは得意そうにうなずいた。いつ行くかの約束にはせず、二人はそれぞれのかまどの話をした。パンの端の硬さについては、どちらも自分の町の方がいいと思っていた。
*
食後、二人は使った皿を洗う場所へ運んだ。今夜は予定の一泊。ノエと翌朝の出発か待機かを知らせる時刻を決め、了承された滞在場所へ向かった。
その前に船へ寄り、ナギが到着後の消費を記録した。残量計の針の位置を帰路の欄と照らし、もう一度確かめて帳面を閉じる。
リコはその隣で、箱の位置を描いた紙の水滴を拭いた。ミチは濡れるところを、図では小さな波線にしていた。
「今日は、ちゃんと食べたね」
彼女が言うと、ナギは満足そうにうなずいた。
「味を確かめる仕事があったから」
屋根の下には、まだ少し笑い声が残っていた。
壁際の木箱は戸を閉じ、明るい名札を外へ向けていた。




