21. あしたは、あの日のこと
午後の机には、まだ粉が少し残っていた。
ミチが濡れた布で拭こうとすると、カヤが書類を上げて待った。布が通り過ぎたあとへ置きかけ、乾いていないと気づいて、また上げる。二度目には二人とも笑った。
リコは鞄から乾いた当て紙を出した。
「ここなら置けます」
「ありがとう。紙を広げる机と、食べる机が同じなの」
カヤが言った。共同の屋根を支える柱の脇では、午前の作業に使った籠を、別の住民が積み直している。ノエも椅子を引き寄せた。卓の裏に膝が当たり、少し位置を直す。
申請を取りまとめている住民が、紐のかかった綴りを開いた。
「町の名前と受け取り方の話は、ここにいる者で説明できます。家ごとの手紙は入れてありません」
リコはうなずき、局から持ってきた写しを広げた。
あの絵が、絵に描かれた町の机に載る。本人の隣で見ると、紙が少し小さくなったようだった。
「ここ、わたしの字」
ミチは自分の署名より先に、下の一行を指した。
『あした、町ができます。手紙を届けにきてください。ミチ』
リコは、その字から何度も顔を想像した。目の前の女の子は、思っていたより眉をよく動かし、椅子の下で黄色い長靴の先をそろえていた。
「この、あしたのことを聞かせて」
*
申請担当の住民は、二枚の控えを横に並べた。郵便局が配達先を調べるための依頼と、住所を台帳へ載せるための本申請。局で別々に追ってきた二つの書類を、出した側の手元でも確かめるためだった。
一方には、郵便暦二一三年の秋の日付と、通常の舟便へ渡した記録があった。町名を登録する本申請だった。もう一方には、その前の日付が記されていた。
「こっちが、あなた方の局へ出した住所調査の依頼です。町の名を載せてもらう書類とは別に、受取場所を見に来てほしくて」
リコは、持参した写しと二枚目を比べた。住民の署名も、書き直した箇所も合っている。
「二つとも、舟へ預けたんですか」
「本申請は翌朝の舟に。こちらは前の晩、ミチの絵と一緒に、古い共同ポストへ入れました」
担当の指が、二つの紙の間で止まった。
「あの箱からも通常の便へ渡ると思っていたんです。昔の封筒と切手が、町に残っていたので」
ミチが椅子から少し腰を浮かせた。
「端を折らないようにって、お母さんが。わたし、絵の家がつぶれないようにだと思ってた」
「あの時は、私も詳しい仕組みを知っていたわけじゃないよ」
カヤはその晩の包み方を確かめるように、紙の両端へ指を添えた。
次に出てきたのは、町名の本申請に対する保留の通知だった。綴りの中でそこだけ角が丸くなり、何度も読まれた折り目が白い。
運航について確認できる記録が不足している。そのため、このままでは登録を進められない。
リコはその行を、町の人と一緒に読み直した。舟が一度着けるだけでは、局が続けて荷を運べるとは分からない。風が変わった日の記録、補給する場所、受け取る担当も確かめる必要がある。けれど町に正式な住所がないため、いつもの郵便船が来て記録を増やす機会もない。住民の舟が取次港へ通ってきた日付を、今度は局の審査へ伝わる形にするのだった。
「これは、通常の便で戻ってきました。調査を頼んだ返事は来ていない、と次の問い合わせにも書いています」
その控えもあった。舟を出せた日、取次へ預けた日、返事を持ち帰った日が、同じ行には収まっていなかった。
カヤが、卓上へ湯の冷めた茶を置いた。自分の杯にもたっぷり注ぎ、一息で半分飲んだ。ミチはその隣の杯を取り、母の分より多く残っているのを見比べた。
「あの夜、私がポストまで一緒に行きました。使ってよいか、先にもっと聞けばよかったですね」
リコは杯を持つ手を止めた。
カヤの指が、茶のない上半分をなぞっていた。リコは聞取りの紙に書きかけた一行を空け、顔を上げた。
「その時は、どこへ問い合わせればいいと分かっていましたか」
「舟の取次には聞けました。ただ、あの口のことを知っている人はいなくて」
「それも一緒に残します。何を知らされていたかが抜けると、違う話になるので」
カヤは短くうなずき、杯を机へ戻した。リコも茶を飲んだ。少し渋かったが、朝から喉の奥に残っていた乾きがほどけた。
リコは、二枚の発送控えの間を少し空けた。
届かなかった一通を誰かが審査していたのではない。本申請は届き、保留になった。町から局への調査依頼だけが、数か月をかけて、あの使っていない口へ現れたのだ。
机の上では、ようやく二つの道を別々に指せた。
「出してみないと分からない、とは話していました」
カヤが言うと、ミチは長靴を椅子の下へ引いた。
「でも、名前はもう決まったし。次の朝に箱を置いて、書類を出すって。だから、あしたで全部になると思った」
ミチは紙の上の『あした』を見ていた。
「そう書いたら、来てくれる人も間に合うかなって」
リコはミチと一緒にその字を見た。局では、前年の日付を読んだすぐあとに目を戻した場所だった。ここへ来ても、紙のあしたはあの朝のままだった。
「箱、見せてもらえる?」
ミチが椅子から下りた。
*
箱は、共同施設の軒下に残っていた。
翌朝、予定どおり据えたのだと担当の住民は言った。だが局から届く郵便の受取先にはならず、雨の多い時期に傷まないよう、こちらへ寄せたのだという。
背の低い木箱で、正面の名札に『アカリの町』とあった。郵便を受け取る担当が、町へ届いた手紙を住民に渡すまで預かるための箱だった。正面の戸を開ければ手で出し入れできる。中には奥へ続く溝も、紙を運ぶ装置もなく、木の内壁が見える。木目の濃いところで、最後の一画が少し曲がっている。
「ここは、わたしじゃないよ」
ミチが先に言った。
「誰も疑ってないよ」
「さっきから、字を見るたびに、わたしの方を見るから」
リコが顔を上げると、ナギも同時にミチを見ていた。
三人の間で、短い笑いが起きた。
戸の内側は、外より木の色が明るかった。リコが顔を寄せると、薄く油の匂いがした。蝶番は何度か油を差されている。
「こんなに待たせてしまって」
リコは箱の縁から手を離し、掌を親指でこすった。
「依頼を受け取ったのは今の春です。届くまでにどこで止まったかは、まだ分かっていません。でも、返事のために必要な確認をして、局へ持ち帰ります」
担当の住民はうなずき、名札に積もった埃を指で払った。
「待ったのは確かです。取次に行く度、何もなかったと戻るのは、気のいい仕事じゃありません」
その言葉は、リコが持ち帰る記録のためだけには聞こえなかった。
「でも、ここだけ見て、ずっと同じ日にいたと思わないでくださいね」
ミチが、古い絵の橋を指した。
「この板、冬の前に替えた。絵より白いところ、あったでしょ」
「あった」
「奥の家も、部屋が一つ増えた。だから、今の道は、ここを少しよけるの」
彼女は長靴の爪先で、地面に道の曲がりを描いた。履き口から片方の靴下が落ちてきて、足を止めて引き上げる。
そうしている間にも、リコの知らなかった数か月が、少しずつ目の前へ現れた。
「最初のうちは、舟が戻る度に聞いてた」
ミチが言った。
「来たかって?」
「うん。でも、毎回聞くと、お母さんが、まだだよって言う顔をするから。あとから、あったら教えてって言った」
カヤは娘の方へ手を伸ばし、落ちかけていた画板の紐を肩へ戻した。ミチはその手を見ず、箱の蝶番を動かしていた。
開いた戸が、途中で小さく鳴った。
「そんな顔、してた?」
すぐそばにいるリコにも、カヤの声は聞き取りにくかった。
「うん」
ミチは戸を閉めた。今度は音がしなかった。
リコは鉛筆を持っていたが、まだ書けなかった。ノエも横で黙っている。誰かが遠くで鍋を呼び、返事をした声が屋根の外へ流れた。
「あとで教えるって言った日のことは、覚えてる」
カヤはそう言い、娘の紐から手を下ろした。ミチは母を見上げ、それから肩を少し寄せた。二人とも、箱の名札の方を向いていた。
リコは鉛筆をしまった。いまここで聞いた声を、局の紙へ移す前に、もう少しこの場所にいたかった。
ミチがもう一度戸へ触れた。
「今日は、船が見えたから走った。お母さんを呼ぶの、忘れた」
「姿が見えなくなって、びっくりしたよ」
ミチはカヤの腕に画板の端を当てた。カヤがその角をよけると、ようやく女の子の口元が緩んだ。
「この絵を、描き直してもいい?」
ミチは局から来た写しを見て言った。
「もちろん。古い方も、その時の町が分かるから、調査の記録に残してあるよ」
「古い方だけ、ずっと使われたら困ると思って」
リコは古い図の折り目を伸ばした。ミチの爪先が描いた曲がり道を、ナギが別の紙へ写している。描き終える前に、女の子がここはもっと狭いと指を差し入れた。
*
古い共同ポストは、新しい箱とは別のものだった。
少し奥の壁に、横長の金属の投函口が取り付けられている。平らな封筒を縁から差し入れるための細い隙間で、塗装の剥げた縁には、薄い封筒の形をした表示が残っていた。名札のある木箱が届いた物を預かる場所なら、こちらは町の外へ紙を送り出すために使われていた設備だった。
申請担当の住民が立ち止まり、投じた場所を示した。
「この口です。大きな荷を入れる箱ではありません」
ナギは持参した控えを開いた。局内の点検で確認した入口の縁と、外から見える形を照らし合わせる。
「古い紙用の入口です。局に残るものと、表示や口の形が合います。内部は開けずに、今日見えるところを記録します」
局の保管室では、専用の繊維の縁が付いた薄い封筒を、壁の中から点検箱へ通した。封筒と中身を合わせて厚さ二ミリ、重さ二十グラムまでという取扱札もあった。町の人たちにも、ナギはその試験で確かめた範囲を話した。今見ている投函口から局までの経路を調べたわけではない。ミチの図がその先のどこで待ち、いつ動き出したかは、まだ誰にも説明できなかった。
リコは壁の先を見た。
あの薄い紙が、この暗い隙間から出発した。今ここで壁を透かして見ても、局まで一本の線が引けるわけではなかった。
「今なら、すぐ届く?」
ミチの問いに、ナギは首を振った。
「分からない。通った記録が一つできても、今また同じように通るとは言えないんだ」
「じゃあ、新しい絵は、リコさんに渡す」
「うん。使っていいところも一緒に教えてね」
担当の住民は、当面この口を使わない札を付けようと提案した。通常便の相談先も書き添える。そこなら必ずすぐ届く、とは書かなかった。
リコは局に戻って旧設備の確認を引き継ぐと答え、札の言葉を一緒に考えた。機械の中へ何かを詰める代わりに、住民が用意した札を、口のすぐ上へ掛けた。
『ここからは出さないでください。手紙は共同施設の取次担当へ』
古い口は、札の下で静かなままだった。
*
戻る途中、カヤが、切手の呼び名を思い出したように話した。
「あの古い切手を、あしたの切手と呼んでいたんです。あしたは届くように、って。たいした由来ではないんだけど」
リコは首を横に振った。
リコは、局に残してきた封筒の隅を思い浮かべた。淡い色と、細かな繊維の重なった縁。古い切手にも、紙を扱う設備が見分けるための繊維の縁取りがあった。局で試したのは、封筒そのものに専用の縁が付いた点検用の一枚だ。それぞれ設備に合う作りがあっても、途中が止まれば紙は届かない。「あした」は、その紙を送り出した人たちが、翌日の到着を願って付けた呼び名だった。カヤの言い方では、近所の道に付けた呼び名のように聞こえた。
「その名前も、調査の記録に残していいですか」
「ええ。そう呼んでいた、となら」
ミチは一足先へ走り、曲がり角で待った。手すりの向こうに雲の影が通っていた。家々の屋根は、彼女の古い絵にある順番で光り、絵にない庇にも同じ光が当たった。
曲がり角でミチが振り返った。待っている間にも、靴の先でさっき描いた道を直していた。
「新しい絵には、あしたって書く?」
追いついて尋ねると、ミチは画板を抱き直した。
「先に、今日の箱の場所を決めたい」
共同施設の方で、人が椅子を運び出していた。
リコは、机へ急ぐ代わりに、その一脚を受け取った。




