20. 絵の向こうの町
コトリ島が、初めて後ろ側へ遠ざかっていった。
いつもはミナト輪へ向かう方から見る橋を、今日は違う角度で見ている。風鈴畑の向こうに隠れていた畑が見え、小さな物置の屋根に朝の光が当たった。同じ島を離れるだけなのに、リコは知らなかった横顔を見せてもらった気がした。
五週目の四日目、午前八時十分。
出発前の観測と船の点検を終え、充填の記録、帰りと停泊の分を含む残量を確認していた。スイには到着までの経過と今日の予定を渡し、局への通常の連絡便に託してある。
ナギが帆を整え、リコは図を広げた。ミチの絵だけで船を出したのではなかった。町と往来する住民から聞いた島影の並びや、見る方向を記した控えも、手元にある。郵便局の地図に載っていない区間では、その目印を一つずつ実物と照合して進む。雲で見えなくなれば、線を覚えているだけでは自分たちの位置を確かめられない。
鳥は相変わらず大きい。その下へ自分の手が置かれていることが、昨日までと違った。いまは、この絵の中へ実際に進んでいる。
「次の目印、右の島影」
彼女が言うと、ナギは記録と窓の外を交互に確かめた。
コトリ島の桟橋で母が上げていた手は、もう見えなくなった。
*
しばらく進むと、左から流れてきた薄雲が前の島影を隠した。
リコは鉛筆を止めた。さっきまで確かに見えていた。図の線も、教わった向きも覚えている。雲の向こうへそのまま行けば、また見えるのではないかと思った。
「一度、進み方を落とす」
ナギが言った。
船の向きを保てる範囲を確かめながら速度を落とし、風と消費を読み直した。リコは時計を見て、観測の時刻を書いた。
「目印が続けて見えなければ、戻るんだね」
「うん。いまの位置が確かめられるうちに」
窓の向こうが白くなりきる前に、雲の端がほどけた。二つの島影の間に明るい隙間ができたが、リコはすぐ先へ指を出さなかった。次の目印も見えることを確かめ、ナギへ伝える。
彼がうなずいて進路を取った時、リコは初めて、自分が息を詰めていたと気づいた。
リコは記録の脇に、雲で一時減速、と書いた。九十分の上限まではまだ時間がある。帰還の余力と風をナギに確かめ、鉛筆から指を離した。握っていたところだけ、軸が温かかった。
白さが横へ退くと、遠い屋根が光った。
*
屋根は一枚ではなかった。
低い赤茶の屋根、その後ろの灰色の屋根、少し高く持ち上がった共同の屋根。島の縁に沿って畑が細長く続き、干された布が、家の間をつないでいるように見えた。
リコは窓へ近づきすぎないよう、膝の上で手を握った。
「橋がある」
言うと、ナギが目で追った。
新しい手すりの部分だけが淡い色をしている。橋は町の中で、係留場から上がる道と、かまどへ向かう道をつないでいた。橋の先にかまどの煙突があり、その手前に高い屋根があった。図を回すと、描かれた道と実物の道が重なった。
「あの目盛り、曲がり角までの取り方だ」
ナギが言った。
全部を同じ大きさで描いてはいない。それでも、何を順に見ればよいかは分かった。リコは紙の折り目を伸ばした。
風見があった。
高い屋根の端、矢印の上に、ごく小さな鳥が止まっていた。
二人はしばらく無言になった。
鳥は胸を膨らませ、顔を反対へ向けた。風見の方が、鳥の下で少し動いた。
「屋根は、平気そう」
リコが言うと、ナギは短く息を吐いた。
「……定規、置いてきてよかった」
彼女は笑った。声が弾むと、胸の奥で固くなっていたものも一緒にほどけた。あれほど大きな翼が、実物では帆の縫い目よりも小さく見える。
鳥は飛び立って、隣の雨樋へ移った。
小さな足が雨樋をつかむ。リコには、鳥がこちらを見ているようにも思えた。
*
係留場で、小舟の荷を扱っていた住民が手を止め、こちらに合図を出した。
道具を置き、あいている場所を示してくれる。ナギは接近の様子と周囲を確かめ、案内された側から船を寄せた。
綱が固定されると、リコは時計を見た。
「九時二十四分」
出発から七十四分。接岸を終えるまでの、この日の飛行だった。ナギは出発時刻と並べ、風、積み荷、途中で速度を落としたことも続けて記した。
風向の欄まで埋まると、リコは鉛筆を留めた。七十四分。書いたばかりの字へ、もう一度指を当てた。
リコは鞄を持ち、扉を開けた。
音が入ってきた。
板の上で物を引きずる音、誰かを呼ぶ声、離れたところで水をくむ音。窓の中では地図と重なって見えた町が、いきなり四方へ広がった。
船を下り、足の裏で板を踏んだ。
しっかりしていた。
「ミナト輪郵便局のリコです。こちらは航路修理士のナギ。住所調査の連絡をしていました」
案内してくれた人は、受取担当を呼んでくると言い、先に綱の場所を一つ教えた。普段の荷の通り道を空けておく必要があった。ナギと一緒に荷物を寄せると、小舟から降りてきた籠がそこを通った。
町の朝の仕事の中に、二人の居場所が一つできた。飛行艇を留める場所も、そこへ渡す綱も、ずっと前から住民が使っている。局の配達先として登録されていなかった町には、こうして舟を迎える朝があった。
*
呼ばれて来たのは、袖を肘までまくった女性だった。髪を押さえていた手を下ろし、リコの名を確かめると、自分も名乗った。
「ノエです。共同の受け取りをしています。ようこそ」
「ミナト輪を出る前に、延期の知らせを出しました。まだでしょうか」
「ええ。でも、日が変わることは先の手紙にありましたから」
リコは持参した連絡書を渡し、今日の到着と、明朝出る予定を伝えた。午前は共同作業の時間なので、話は午後からでよいと確かめる。
「ありがとうございます。今、かまどと、その隣の屋根を使っています。昼が済んだら席ができます」
ノエが戻りかけたところで、リコはもう一つだけ、と呼び止めた。
「返信に、滑りにくい靴でと書いてくださったのは、どなたでしょう」
「それは私です。そこの石段が、朝は濡れるので」
ノエは、橋へ上がる手前を指した。濃い色の石が二段だけ、光を受けていた。
「ありがとうございます。出る前に、靴の底も見てきました」
相手はリコの足元を見て、少し表情を和らげた。
「初めての人は、みんな上の方を見るんですよ。鳥とか、屋根とか」
リコはナギを見た。二人とも、ついさっきまでそのとおりだった。
ノエの指の付け根には、針を通す時にできたらしい硬いところがあった。袖口から糸が出ているのに気づくと、彼女は二度引っぱり、諦めて内側へ押し込んだ。
「あと二針のところで呼ばれるのよね」
何を縫っていたのか尋ねると、自分の日よけ帽子だという。
「つばを広くしすぎたら、風で顔まで下りてきて。少し縮めているんです」
ノエは片手で視界を塞ぐまねをした。リコが笑うと、笑い返してから、そこの二段ね、と石段をもう一度指した。
泊まる場所、水の補給、悪天候時の追加一泊の了解も変わっていなかった。町には船の風実を充填できる設備はない。ナギは到着時の残量を確かめ、町で補えるものと補えないものを手帳で分けた。
その横で、黄色い長靴が止まった。
画板を抱えた女の子が、リコの鞄を見ていた。次に制服を見て、船を見て、もう一度鞄へ戻った。声を掛けたいのに、その前に確かめる物がいくつもあるようだった。
「あの」
リコが振り向くと、女の子は画板を胸へ寄せた。
「絵、持ってる?」
リコは文書入れから図の写しを出した。
女の子の目が大きくなった。
「それ。私の」
「ミチ?」
「うん」
目の前の声が、何度も読んだ署名とつながった。
女の子は十一歳だと教えてくれた。画板を抱える小さな指に、鉛筆の黒い跡がついていた。あの道も、あの鳥も、この手で描いたのだった。
「この図で、ここまで来られたよ」
言うと、ミチはすぐに身を乗り出した。
「どこが分かった?」
*
リコは橋を指した。
「あの曲がり方。橋からかまどへ行くまで、途中で道が見えなくなるけど、絵に続きがあったから分かった」
「屋根で隠れるの」
ミチは嬉しそうに言って、それから図を少し手前へ引いた。
「この手すりは、もう違う。こっちが新しい方」
「見えたよ。色が明るかった」
女の子は口元だけで笑った。褒められたことより、同じ物を見た返事が嬉しいようだった。
ナギが鳥の絵へ目をやった。
「この鳥は、風見に止まる鳥?」
「そう。いつもいるわけじゃないけど」
「今日は、いた」
ミチは屋根を見上げた。
「小さく描くと、どこにいるか分からなくなるから」
なるほど、とナギが言った。リコは、机の上で定規を当てていたことを話した。
ミチは図とナギの顔を交互に見て、それから思い切り笑った。
「これが本当にその大きさだったら、かまどの屋根も持っていかれちゃう」
「そこを心配した」
真面目に返されて、女の子はさらに笑った。リコもつられた。通りかかった住民が何事かとこちらを見て、鳥の絵を見せられると、ああそれ、と笑いながら仕事へ戻った。
ミチが笑いすぎて画板を落としかけ、ナギが下から支えた。板の裏に、途中まで描いた別の鳥がいた。今度は翼だけが大きかった。
「そっちは、まだ見ないで」
ミチは急いで抱き直した。リコは図を広げたまま、笑いが収まるのを待った。
*
聞き取りの時間まで、二人は教えられた通り道を歩いた。
ミチは母のいる屋根へ戻るところで、橋の向こうまで一緒になった。リコは道を選ぶ女の子の足を見た。手すりの支柱を避け、干してある布に触れない方へ回る。絵にない小さな曲がり方を、体が知っていた。
橋の途中で、リコは足を止めた。
欄干の隙間から雲が見え、その手前に根菜の畑があった。畑の先の家では窓を開けている人がいる。近くの軒では、修繕に使うらしい細板が乾かされていた。
「ここから描いたの?」
「最初は。高い屋根の後ろは、向こうへ回って見た」
ミチは画板を少し持ち上げた。
リコも少し横へ動いてみた。屋根に隠れていた道の先が、ほんのわずか見える。
「ここ?」
「もうちょっと。そこからだと、洗い場の台が道に見えちゃう」
ミチが隣へ来て、リコと同じ高さになろうとつま先を伸ばした。リコが少しかがむと、二人の指が同じ場所を差した。
母に話した願いを思い出して、リコは同じ方を見た。
町の屋根の端に、風見があった。鳥はいなくなっていたが、もう目印を見失いはしなかった。
*
共同の屋根の下では、かまどから出した物を運び、使い終わった台を拭く人がいた。柱で支えた高い屋根が作業の場所を覆い、道から出入りする側は開いている。かまどや洗い場を皆で使い、その日の仕事が済めば同じ台に食事を並べるのだ。温かな穀物の匂いに、濡れた木の匂いが混じっている。
前掛けを着けたミチの母が、娘と一緒に来た二人を見て会釈した。持っていた布を肩へ掛け、カヤです、と名乗った。
「ご苦労さま。話は、片づけが済んでからでいい?」
「はい。私たちも昼の分を持ってきています」
リコが答えると、母は空いている場所を教えた。夜には一緒に食べられたらと声を掛けられ、リコは嬉しくなったが、料理の途中で細かな相談を始めなかった。自分たちの食料も出せるとだけ伝えた。
ミチは画板を机へ立てかけ、母から頼まれた布を取りに行った。
ノエは、午後に申請の綴りを見たいと、書類を取りまとめている住民へ伝えに向かった。
かまどから湯気が流れ、リコの頬を温めた。図の煙突を見て思い描いた匂いより、ずっと土と豆の匂いが濃かった。靴の裏には橋の砂がついている。
ナギへ何か言おうとして、言葉が出なかった。彼も、袋を開く手を止めて屋根の梁を見上げていた。
ナギが昼食の包みを置き、その隣へ到着の記録を広げた。
「午後、これも見てもらおう」
リコはうなずいた。
リコは包みから昼のパンを取り出した。いつものパンなのに、見慣れない町の卓では、ひと口目をどこから食べるか少し迷った。
昼の片づけが終わると、机の上から濡れた布が下ろされ、かわりに古い綴りが置かれた。
ミチが椅子を引いた。リコの隣に座り、画板の端を机へそろえる。
「あの手紙のこと、聞いていい?」
リコが言うと、女の子はカヤとノエを見た。
それから、自分の絵の空いているところへ指を置いた。




