↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/97

20. 絵の向こうの町

 コトリ島が、初めて後ろ側へ遠ざかっていった。


 いつもはミナト輪へ向かう方から見る橋を、今日は違う角度で見ている。風鈴畑の向こうに隠れていた畑が見え、小さな物置の屋根に朝の光が当たった。同じ島を離れるだけなのに、リコは知らなかった横顔を見せてもらった気がした。


 五週目の四日目、午前八時十分。

 出発前の観測と船の点検を終え、充填の記録、帰りと停泊の分を含む残量を確認していた。スイには到着までの経過と今日の予定を渡し、局への通常の連絡便に託してある。


 ナギが帆を整え、リコは図を広げた。ミチの絵だけで船を出したのではなかった。町と往来する住民から聞いた島影の並びや、見る方向を記した控えも、手元にある。郵便局の地図に載っていない区間では、その目印を一つずつ実物と照合して進む。雲で見えなくなれば、線を覚えているだけでは自分たちの位置を確かめられない。

 鳥は相変わらず大きい。その下へ自分の手が置かれていることが、昨日までと違った。いまは、この絵の中へ実際に進んでいる。


「次の目印、右の島影」


 彼女が言うと、ナギは記録と窓の外を交互に確かめた。

 コトリ島の桟橋で母が上げていた手は、もう見えなくなった。


挿絵(By みてみん)


     *


 しばらく進むと、左から流れてきた薄雲が前の島影を隠した。


 リコは鉛筆を止めた。さっきまで確かに見えていた。図の線も、教わった向きも覚えている。雲の向こうへそのまま行けば、また見えるのではないかと思った。


「一度、進み方を落とす」


 ナギが言った。

 船の向きを保てる範囲を確かめながら速度を落とし、風と消費を読み直した。リコは時計を見て、観測の時刻を書いた。


「目印が続けて見えなければ、戻るんだね」

「うん。いまの位置が確かめられるうちに」


 窓の向こうが白くなりきる前に、雲の端がほどけた。二つの島影の間に明るい隙間ができたが、リコはすぐ先へ指を出さなかった。次の目印も見えることを確かめ、ナギへ伝える。


 彼がうなずいて進路を取った時、リコは初めて、自分が息を詰めていたと気づいた。


 リコは記録の脇に、雲で一時減速、と書いた。九十分の上限まではまだ時間がある。帰還の余力と風をナギに確かめ、鉛筆から指を離した。握っていたところだけ、軸が温かかった。


 白さが横へ退くと、遠い屋根が光った。


     *


 屋根は一枚ではなかった。


 低い赤茶の屋根、その後ろの灰色の屋根、少し高く持ち上がった共同の屋根。島の縁に沿って畑が細長く続き、干された布が、家の間をつないでいるように見えた。


 リコは窓へ近づきすぎないよう、膝の上で手を握った。


「橋がある」


 言うと、ナギが目で追った。

 新しい手すりの部分だけが淡い色をしている。橋は町の中で、係留場から上がる道と、かまどへ向かう道をつないでいた。橋の先にかまどの煙突があり、その手前に高い屋根があった。図を回すと、描かれた道と実物の道が重なった。


「あの目盛り、曲がり角までの取り方だ」


 ナギが言った。

 全部を同じ大きさで描いてはいない。それでも、何を順に見ればよいかは分かった。リコは紙の折り目を伸ばした。


 風見があった。

 高い屋根の端、矢印の上に、ごく小さな鳥が止まっていた。


 二人はしばらく無言になった。

 鳥は胸を膨らませ、顔を反対へ向けた。風見の方が、鳥の下で少し動いた。


「屋根は、平気そう」


 リコが言うと、ナギは短く息を吐いた。


「……定規、置いてきてよかった」


 彼女は笑った。声が弾むと、胸の奥で固くなっていたものも一緒にほどけた。あれほど大きな翼が、実物では帆の縫い目よりも小さく見える。


 鳥は飛び立って、隣の雨樋へ移った。

 小さな足が雨樋をつかむ。リコには、鳥がこちらを見ているようにも思えた。


     *


 係留場で、小舟の荷を扱っていた住民が手を止め、こちらに合図を出した。

 道具を置き、あいている場所を示してくれる。ナギは接近の様子と周囲を確かめ、案内された側から船を寄せた。


 綱が固定されると、リコは時計を見た。


「九時二十四分」


 出発から七十四分。接岸を終えるまでの、この日の飛行だった。ナギは出発時刻と並べ、風、積み荷、途中で速度を落としたことも続けて記した。

 風向の欄まで埋まると、リコは鉛筆を留めた。七十四分。書いたばかりの字へ、もう一度指を当てた。


 リコは鞄を持ち、扉を開けた。


 音が入ってきた。

 板の上で物を引きずる音、誰かを呼ぶ声、離れたところで水をくむ音。窓の中では地図と重なって見えた町が、いきなり四方へ広がった。


 船を下り、足の裏で板を踏んだ。

 しっかりしていた。


「ミナト輪郵便局のリコです。こちらは航路修理士のナギ。住所調査の連絡をしていました」


 案内してくれた人は、受取担当を呼んでくると言い、先に綱の場所を一つ教えた。普段の荷の通り道を空けておく必要があった。ナギと一緒に荷物を寄せると、小舟から降りてきた籠がそこを通った。


 町の朝の仕事の中に、二人の居場所が一つできた。飛行艇を留める場所も、そこへ渡す綱も、ずっと前から住民が使っている。局の配達先として登録されていなかった町には、こうして舟を迎える朝があった。


     *


 呼ばれて来たのは、袖を肘までまくった女性だった。髪を押さえていた手を下ろし、リコの名を確かめると、自分も名乗った。


「ノエです。共同の受け取りをしています。ようこそ」

「ミナト輪を出る前に、延期の知らせを出しました。まだでしょうか」

「ええ。でも、日が変わることは先の手紙にありましたから」


 リコは持参した連絡書を渡し、今日の到着と、明朝出る予定を伝えた。午前は共同作業の時間なので、話は午後からでよいと確かめる。


「ありがとうございます。今、かまどと、その隣の屋根を使っています。昼が済んだら席ができます」


 ノエが戻りかけたところで、リコはもう一つだけ、と呼び止めた。


「返信に、滑りにくい靴でと書いてくださったのは、どなたでしょう」

「それは私です。そこの石段が、朝は濡れるので」


 ノエは、橋へ上がる手前を指した。濃い色の石が二段だけ、光を受けていた。


「ありがとうございます。出る前に、靴の底も見てきました」


 相手はリコの足元を見て、少し表情を和らげた。


「初めての人は、みんな上の方を見るんですよ。鳥とか、屋根とか」


 リコはナギを見た。二人とも、ついさっきまでそのとおりだった。

 ノエの指の付け根には、針を通す時にできたらしい硬いところがあった。袖口から糸が出ているのに気づくと、彼女は二度引っぱり、諦めて内側へ押し込んだ。


「あと二針のところで呼ばれるのよね」


 何を縫っていたのか尋ねると、自分の日よけ帽子だという。


「つばを広くしすぎたら、風で顔まで下りてきて。少し縮めているんです」


 ノエは片手で視界を塞ぐまねをした。リコが笑うと、笑い返してから、そこの二段ね、と石段をもう一度指した。


 泊まる場所、水の補給、悪天候時の追加一泊の了解も変わっていなかった。町には船の風実を充填できる設備はない。ナギは到着時の残量を確かめ、町で補えるものと補えないものを手帳で分けた。


 その横で、黄色い長靴が止まった。


 画板を抱えた女の子が、リコの鞄を見ていた。次に制服を見て、船を見て、もう一度鞄へ戻った。声を掛けたいのに、その前に確かめる物がいくつもあるようだった。


「あの」


 リコが振り向くと、女の子は画板を胸へ寄せた。


「絵、持ってる?」


 リコは文書入れから図の写しを出した。

 女の子の目が大きくなった。


「それ。私の」

「ミチ?」

「うん」


 目の前の声が、何度も読んだ署名とつながった。

 女の子は十一歳だと教えてくれた。画板を抱える小さな指に、鉛筆の黒い跡がついていた。あの道も、あの鳥も、この手で描いたのだった。


「この図で、ここまで来られたよ」


 言うと、ミチはすぐに身を乗り出した。


「どこが分かった?」


     *


 リコは橋を指した。


「あの曲がり方。橋からかまどへ行くまで、途中で道が見えなくなるけど、絵に続きがあったから分かった」

「屋根で隠れるの」


 ミチは嬉しそうに言って、それから図を少し手前へ引いた。


「この手すりは、もう違う。こっちが新しい方」

「見えたよ。色が明るかった」


 女の子は口元だけで笑った。褒められたことより、同じ物を見た返事が嬉しいようだった。

 ナギが鳥の絵へ目をやった。


「この鳥は、風見に止まる鳥?」

「そう。いつもいるわけじゃないけど」

「今日は、いた」


 ミチは屋根を見上げた。


「小さく描くと、どこにいるか分からなくなるから」


 なるほど、とナギが言った。リコは、机の上で定規を当てていたことを話した。

 ミチは図とナギの顔を交互に見て、それから思い切り笑った。


「これが本当にその大きさだったら、かまどの屋根も持っていかれちゃう」

「そこを心配した」


 真面目に返されて、女の子はさらに笑った。リコもつられた。通りかかった住民が何事かとこちらを見て、鳥の絵を見せられると、ああそれ、と笑いながら仕事へ戻った。


 ミチが笑いすぎて画板を落としかけ、ナギが下から支えた。板の裏に、途中まで描いた別の鳥がいた。今度は翼だけが大きかった。


「そっちは、まだ見ないで」


 ミチは急いで抱き直した。リコは図を広げたまま、笑いが収まるのを待った。


     *


 聞き取りの時間まで、二人は教えられた通り道を歩いた。

 ミチは母のいる屋根へ戻るところで、橋の向こうまで一緒になった。リコは道を選ぶ女の子の足を見た。手すりの支柱を避け、干してある布に触れない方へ回る。絵にない小さな曲がり方を、体が知っていた。


 橋の途中で、リコは足を止めた。

 欄干の隙間から雲が見え、その手前に根菜の畑があった。畑の先の家では窓を開けている人がいる。近くの軒では、修繕に使うらしい細板が乾かされていた。


「ここから描いたの?」

「最初は。高い屋根の後ろは、向こうへ回って見た」


 ミチは画板を少し持ち上げた。

 リコも少し横へ動いてみた。屋根に隠れていた道の先が、ほんのわずか見える。


「ここ?」

「もうちょっと。そこからだと、洗い場の台が道に見えちゃう」


 ミチが隣へ来て、リコと同じ高さになろうとつま先を伸ばした。リコが少しかがむと、二人の指が同じ場所を差した。


 母に話した願いを思い出して、リコは同じ方を見た。

 町の屋根の端に、風見があった。鳥はいなくなっていたが、もう目印を見失いはしなかった。


     *


 共同の屋根の下では、かまどから出した物を運び、使い終わった台を拭く人がいた。柱で支えた高い屋根が作業の場所を覆い、道から出入りする側は開いている。かまどや洗い場を皆で使い、その日の仕事が済めば同じ台に食事を並べるのだ。温かな穀物の匂いに、濡れた木の匂いが混じっている。


 前掛けを着けたミチの母が、娘と一緒に来た二人を見て会釈した。持っていた布を肩へ掛け、カヤです、と名乗った。


「ご苦労さま。話は、片づけが済んでからでいい?」

「はい。私たちも昼の分を持ってきています」


 リコが答えると、母は空いている場所を教えた。夜には一緒に食べられたらと声を掛けられ、リコは嬉しくなったが、料理の途中で細かな相談を始めなかった。自分たちの食料も出せるとだけ伝えた。


 ミチは画板を机へ立てかけ、母から頼まれた布を取りに行った。

 ノエは、午後に申請の綴りを見たいと、書類を取りまとめている住民へ伝えに向かった。


 かまどから湯気が流れ、リコの頬を温めた。図の煙突を見て思い描いた匂いより、ずっと土と豆の匂いが濃かった。靴の裏には橋の砂がついている。

 ナギへ何か言おうとして、言葉が出なかった。彼も、袋を開く手を止めて屋根の梁を見上げていた。


 ナギが昼食の包みを置き、その隣へ到着の記録を広げた。


「午後、これも見てもらおう」


 リコはうなずいた。

 リコは包みから昼のパンを取り出した。いつものパンなのに、見慣れない町の卓では、ひと口目をどこから食べるか少し迷った。


 昼の片づけが終わると、机の上から濡れた布が下ろされ、かわりに古い綴りが置かれた。

 ミチが椅子を引いた。リコの隣に座り、画板の端を机へそろえる。


「あの手紙のこと、聞いていい?」


 リコが言うと、女の子はカヤとノエを見た。

 それから、自分の絵の空いているところへ指を置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。